京都で、着物暮らし 

京の街には着物姿が増えています。実に奥が深く、教えられることがいっぱい。着物とその周辺について綴ります。

KIMURA の読書ノート『ろうの両親から生まれたぼくが聴こえる世界と聴こえない世界を行き来して考えた30のこと』

2021年06月17日 | KIMURAの読書ノート

『ろうの両親から生まれたぼくが聴こえる世界と聴こえない世界を行き来して考えた30のこと』
五十嵐大 著 幻冬舎 2021年2月
 
2020年4月の読書ノートで、ろう者の両親から生まれた聴者である子ども(コーダ)が主人公となっている(実際にはすでに「子ども」ではなく「大人」になっているが)『デフヴォイス』(文藝春秋 2015年)を取り上げた。これはあくまでもフィクションであったが、今回紹介するのはコーダである著者がその境遇について赤裸々に語ったノンフィクションである。
 
まず「まえがき」を読んで衝撃だったのは、自分自身が「コーダ」と知ったのは大人になってからだということ。それまで、聴こえない親に育てられているのは自分くらいだと思っていたというのだ。更に聴こえない親のことが「嫌い」だったとも綴ってある。それでも、こうして自分自身や家族のことを記して本を上梓したということ、そこに至るまでの心の動きがどのように変化していったのか、かなり気になりページをめくっていた。
 
その中で分かったことは、決して最初から彼は親が嫌いだったわけではないということ。両親がろう者であっても、それが「普通」であり、当たり前の日常として彼は物心ついた時は過ごしている。しかし、小学校に入ってから彼に心境の変化が生まれる。それは、彼が同級生と自分の家で遊んでいた時、母親の話し方がおかしいと同級生に指摘されたことが発端になったようである。その後、小学校のクラブ活動で彼は「手話クラブ」の発起人となって活動するのだが、そこでも同級生から手話クラブに対して「なにそれ、変なの」という言葉を投げかけられる。そして近所でも全く身に覚えがないにも関わらず、親が障害者だからという理由だけで、犯人扱いにされてしまう。つまり、彼が両親を嫌いになったのは、周囲からの差別的発言を受けたことによるものなのである。これが大人であれば、何とかやり過ごすことや、もっと理論的に反論することができたかもしれないが、何分にも小学生である。それらの言葉を否定するだけの知識や術を持ち合わせているはずがない。ただただ、それを正面で受け止めてしまい、それが両親への嫌悪感につながってしまったのである。彼に向けて言葉を発した人は、軽く口にしたのかもしれないが、そのため彼は10年以上も両親に対してマイナスのイメージだけが付きまとってしまうことになったのである。
 
それが氷解するのは、彼が仕事で上京し、誘いを受けた手話サークルで、「コーダ」という言葉を教えてもらったことにある。そこで、初めて著者は自分と同じ境遇の人が世の中にはたくさんいるということを知り安堵感が生まれたと記してある。彼は上京するまで宮城県に住んでいた。どうしても、地方と都心とでは地域格差、情報格差が生まれてくる。彼がもし、最初から東京に住んでいたら、差別的発言を受けても、親に嫌悪感を抱かなかったのかも知れないとも考えた。
 
また本書では、優生保護法のことにも触れている。彼の母親はその被害者にはならなかったものの、それでも子どもを産むことを周囲からは反対され、彼を身ごもるまでに結婚してから10年の歳月を必要としている。
 『デフヴォイス』で主人公の荒井は、自分の過去を振り返り、マイナスの思い出しかないことを作中で語っていたが、まさに本書の五十嵐はそれを現実のものとして体現している。決して物語中の荒井の過去は大げさなものではないどころか、まだまだオブラードに包まれていたことすら分かる。そのような中で荒井は「法の下の平等」を願い、コーダとして手話通訳士をしているが、本書の五十嵐はコーダのライターとして文章で世界を変えていくと綴っている。フィクションとノンフィクションと異なる世界の二人の思いがつながっていく一瞬であった。そして、著者の今後の活躍を期待しないわけにはいかない。この2冊、是非併せて読んでいただきたい。
   文責 木村綾子   

 

 

 


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KIMURAの読書ノート『移植医たち』

2021年06月03日 | KIMURAの読書ノート

『移植医たち』
谷村志穂 作 新潮社 2020年
 
1984年、肝臓専門の外科医として大学病院に勤務する佐竹山は、アメリカで移植医(主に脳死移植)として活躍するセイゲルの講演を聴講する。ここで佐竹山はセイゲルに理想の医師像を見つけ、彼の下で臓器移植を学ぶため渡米する。また小児科医として勤務していた加藤もセイゲルの講演を聴講していた。加藤の父親はかつて日本で初の心臓移植を行ったが、患者が移植後約83日しか生きられなかったことから刑事告訴され、家族で日本から離れなければならなくなった過去がある。加藤もまたセイゲルの下に飛ぶ。同様にセイゲルの講演を聴講していた研修医の古賀はこのままゆっくり医師としての階段を上がっていくのは退屈だと考え、やはりセイゲルの下に赴く。そして3人はアメリカで過酷極まりない現場を目の当たりにする。それでも彼らは必死にしがみつき、セイゲルの信頼を得、臓器移植のエキスパートになっていく。渡米から10年余り、3人は日本に移植医療を根付かせるために帰国。しかし、そこには移植医療に対する根強い反発があり、想像以上に困難な試練が待ち受けていた。
 

この作品はフィクションである。しかし、あとがき、解説を読んで知ることとなるが、それぞれの人物にはモデルがいる。セイゲルは肝臓移植のパイオニアのトーマス・スターツル博士であり、物語内の加藤の父親が行った心臓移植は1968年の「和田心臓移植」がモチーフになっている(日本人医師に関しても実在のモデルがいるそうであるが、名前は記載されていない)。つまり、限りなくノンフィクションに近い、フィクションなのである。それ故に作中に医療に関する間違いや誤解がないように、作者は徹底的な取材をしている。ただ文献を読むだけでなく、多くの医師やその家族からも話を聞き、更には実際にスターツル博士にもピッツバーグに訪問して取材を行っている。
 
作者がこの作品を手掛けようとしたきっかけは、自身が生体肝移植に関するテレビ番組に出演したことにある。あとがきによると、この番組で、国内に移植を専門と知る医療施設が存在すること、臓器移植が普通に行われている現状について知ったこと、この番組で出会った医師がスターツル博士に師事しており、その門戸を開いたのが自分自身の母校だったこと、何よりも移植医療に関する現実を知らずにいた違和感が大きな要因となったようである。

 私自身、この作品で強烈に心に刺さったのは動物実験を描写した場面である。動物実験には賛否両論があるのは周知の事実であるが、少なからず移植に関して言えば、動物実験による緻密なデータの積み重ねが、移植医療の基礎であり、それを無くしては移植を行うことができないといっても過言ではないということをこの作品から教えられた。それはただ移植するという術式だけではなく、そこに付随する薬の開発にも大きく関わっているということも。もちろん、だからと言って私自身は大手を振って動物実験を賛成するわけではない、何が正しいのか余計に振れ幅が大きくなっただけである。それは主軸の移植医療(脳死移植)に関してもそうである。とりわけ、日本では手術で助かるかどうかいう以前に倫理観の問題が表に出てくる。だからこそ読み手には大きな宿題を与えられるのである。解説を担当した医師であり、小説家の海堂尊氏は「この問い(脳死移植)に対する正解は存在しません。そこにはただ決断があるだけです(p505)」。作品内の医師たちの倫理と共に決断していく姿を味わって欲しい。
=======文責 木村綾子



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