2013年1月その2
『はだしのゲン わたしの遺書』(児童&一般書)
中沢啓治 著 朝日学生新聞社 (2012年12月20日)
『はだしのゲン』(汐文社 全10巻)の作者、中沢啓治さんの訃報が流れたのは昨年末の25日だった。報道によると亡くなったのは19日のことらしい。そこで話題になったのが、亡くなった翌日に刊行された本書のことである。亡くなった翌日に出版されるというのは偶然だったのか、それとも亡くなった直後に出すようにという彼の意志だったのか知る由もないが、「わたしの遺書」とあるからには、彼の渾身の思いを込めて書かれたということだけは想像することができる。
本書はこれまでの作者自身の生い立ちを綴ったものである。彼の描いた『はだしのゲン』はかつて画がリアルすぎると言った批判を浴びたこともあるようだが、原爆が投下されたあの日からの彼自身の周囲の様子を記した場面は、正直漫画『はだしのゲン』よりもリアルであった。それだけで作者の思いとその体験が読み手に重くのしかかってくる。『はだしのゲン』を描かなければならないと思い至ったきっかけは彼の母の死だったようだ。火葬場から出てきた母の遺骨はそこになく、全てもろく崩れて灰になっていたという。彼の言葉を借りると「原爆というやつは、大事な大事なおふくろの骨の髄まで奪っていきやがるのかと、はらわたが煮えくり返りました」(p15)。原爆投下21年後のことである。
『はだしのゲン』は原爆の悲惨さを訴えただけのものではない。本書にも記されているが、今や少年誌のトップを走り続ける「週刊少年ジャンプ」で連載されていた。『はだしのゲン』が掲載され始めたのは1973(昭和48)年のことであるが、その時期の人気連載漫画『ど根性ガエル』や『ハレンチ学園』など楽しく笑える作品と並んで掲載されていたということが画期的なことではないだろうか。そして、当時は「リアルすぎる」という非難も浴びながらも学校教育(学校図書館)にマンガが取り入れらたのも『はだしのゲン』が最初である。「原爆漫画」という枠を超えて漫画界に新たな1ページを記したのもこの作品であることに今更ながらに注目する。実際に「子ども達には今尚受け入れられており、学校図書館内の『はだしのゲン』はどの本、どの漫画よりも多くの子ども達が借りており、数年に1回は交換しなければならないほど、ボロボロになっているのを私は多くの小学校で目にしている。作者の思いが子ども達に確実に届き、生き続けている証である。
『はだしのゲン』は、おそらく作者が描き始めた頃の気持ちはともかく、彼のライフワークにもなっていたようである。第1部、2部あわせた10巻を読んでいる私としては、その後のゲンの行く末が気になっていた。残念なことに2008年に病気のため断筆され、残念ながらそれ以降が出版されることはなくなった。しかし、本書で知る限り、ゲンが成長して原発問題まで考えていく構想があったという。そして2011年の原発事故である。この部分をここで取り上げることはしないが、やはり本書ではこれに関しても作者は言及している。
本書最後の彼の言葉。
「『はだしのゲン』は、わたしの遺書です。わたしが伝えたいことは、すべてあの中にこめました。『はだしのゲン』がこれからも読みつがれていって、何かを感じてほしい。それだけが、わたしの願いです。」(p216)
『はだしのゲン わたしの遺書』(児童&一般書)
中沢啓治 著 朝日学生新聞社 (2012年12月20日)
『はだしのゲン』(汐文社 全10巻)の作者、中沢啓治さんの訃報が流れたのは昨年末の25日だった。報道によると亡くなったのは19日のことらしい。そこで話題になったのが、亡くなった翌日に刊行された本書のことである。亡くなった翌日に出版されるというのは偶然だったのか、それとも亡くなった直後に出すようにという彼の意志だったのか知る由もないが、「わたしの遺書」とあるからには、彼の渾身の思いを込めて書かれたということだけは想像することができる。
本書はこれまでの作者自身の生い立ちを綴ったものである。彼の描いた『はだしのゲン』はかつて画がリアルすぎると言った批判を浴びたこともあるようだが、原爆が投下されたあの日からの彼自身の周囲の様子を記した場面は、正直漫画『はだしのゲン』よりもリアルであった。それだけで作者の思いとその体験が読み手に重くのしかかってくる。『はだしのゲン』を描かなければならないと思い至ったきっかけは彼の母の死だったようだ。火葬場から出てきた母の遺骨はそこになく、全てもろく崩れて灰になっていたという。彼の言葉を借りると「原爆というやつは、大事な大事なおふくろの骨の髄まで奪っていきやがるのかと、はらわたが煮えくり返りました」(p15)。原爆投下21年後のことである。
『はだしのゲン』は原爆の悲惨さを訴えただけのものではない。本書にも記されているが、今や少年誌のトップを走り続ける「週刊少年ジャンプ」で連載されていた。『はだしのゲン』が掲載され始めたのは1973(昭和48)年のことであるが、その時期の人気連載漫画『ど根性ガエル』や『ハレンチ学園』など楽しく笑える作品と並んで掲載されていたということが画期的なことではないだろうか。そして、当時は「リアルすぎる」という非難も浴びながらも学校教育(学校図書館)にマンガが取り入れらたのも『はだしのゲン』が最初である。「原爆漫画」という枠を超えて漫画界に新たな1ページを記したのもこの作品であることに今更ながらに注目する。実際に「子ども達には今尚受け入れられており、学校図書館内の『はだしのゲン』はどの本、どの漫画よりも多くの子ども達が借りており、数年に1回は交換しなければならないほど、ボロボロになっているのを私は多くの小学校で目にしている。作者の思いが子ども達に確実に届き、生き続けている証である。
『はだしのゲン』は、おそらく作者が描き始めた頃の気持ちはともかく、彼のライフワークにもなっていたようである。第1部、2部あわせた10巻を読んでいる私としては、その後のゲンの行く末が気になっていた。残念なことに2008年に病気のため断筆され、残念ながらそれ以降が出版されることはなくなった。しかし、本書で知る限り、ゲンが成長して原発問題まで考えていく構想があったという。そして2011年の原発事故である。この部分をここで取り上げることはしないが、やはり本書ではこれに関しても作者は言及している。
本書最後の彼の言葉。
「『はだしのゲン』は、わたしの遺書です。わたしが伝えたいことは、すべてあの中にこめました。『はだしのゲン』がこれからも読みつがれていって、何かを感じてほしい。それだけが、わたしの願いです。」(p216)