『「子育て」という政治 ~少子化なのになぜ待機児童が生まれるのか?』
猪熊弘子 著 角川書店 2014年7
少子化と言われて久しい。子どもの人数は減少しているにも関わらず、「待機児童」つまり、保育所に入ることのできない子ども達が年々増えているのか、その現状について報告しているのが本書である。また、自治体によっては「待機児童ゼロ」と言う報告もなされているが、それは本当なのだろうか。そのからくりについても指摘している。
まず前述した「待機児童増加」については、一般的には「共稼ぎ世帯」が増えたというイメージであろう。実際にリーマンショック以降、その世帯数が増えたのは事実である。それに伴い保育所も同じ割合で普及すれば「待機児童」は増加しないはずである。本書では、その普及率があがらない部分にメスを入れている。また逆に急いで事をすすめた自治体によっては、保育の質の低下や事故が増えていることも指摘している。
2013年「待機児童ゼロ」と発表した横浜市。その実態について著者は第1章で取り上げているが、結論から言えば「ゼロ」ではないということが分かる。横浜市に限らず、何をもって「ゼロ」とするかというところも、自治体によってまちまちであり、市民の、子育て中の親の肌感覚や実体験の方がはるかに待機児童の実態について正確であることが、赤裸々となっていく。つまり、行政と市民レベルでの感覚に大きく隔たりがあることが分かるのである。
しかし、この2点について以上に重要なことが本書では述べられている。それが第8章。ここでは「保育所としての命綱」として、「表には出てこない待機児童」がいることを取り上げている。2014年3月にインターネットを通して知ったベビーシッターに子どもを預け、その子どもが死んでしまったという事件を覚えている人も多いのではないだろうか。この事件について、著者は見ず知らずのシッターに預けた母親の責任や、保育制度の不備について指摘しているわけではない。実際に行政の手の届かないこのような世帯が数多くあるという実態。つまり、日本の子育てが抱えている問題を凝縮した事件であると論じているのである。その一つが貧困の問題と結びつく。格差社会と言われて久しいが、片親の中でも母子世帯が正規雇用として働いている率は低い。非正規となると昼間の稼ぎだけでは生活していくことはままならず、夜も働く、もしくは夜の稼ぎのみで生活していくパターンがどうしても多くなる。夜間保育や会社と契約する一般的なベビーシッターは数も少ない上に保育料は高くなる。しかし、この事件のようなサイトを通じてのシッターはそれらに比べると格安であるという。日々の生活が精一杯の世帯にとっては、質はともかく、低料金で子どもを預かってくれるのは、渡りに船であろう。著者は子どもがせめて小さい間だけでも、夜働かなくて済む支援が出来ないのかと問題提起している。
著者自身4人の子どもを持ち、すでに第1子(1996年生)の時から「待機児童」を抱えて悩む母であった。「保活」という言葉が存在しなかった時から著者は子どもの預け先に奔走し、現在に至っている。そして、20年。何も変わっていないどころか、更に深刻化している「待機児童」の問題。その忸怩たる思いが凝縮し文章一つ一つ迫真に迫る勢いとして表れている。 文責 木村綾子
猪熊弘子 著 角川書店 2014年7
少子化と言われて久しい。子どもの人数は減少しているにも関わらず、「待機児童」つまり、保育所に入ることのできない子ども達が年々増えているのか、その現状について報告しているのが本書である。また、自治体によっては「待機児童ゼロ」と言う報告もなされているが、それは本当なのだろうか。そのからくりについても指摘している。
まず前述した「待機児童増加」については、一般的には「共稼ぎ世帯」が増えたというイメージであろう。実際にリーマンショック以降、その世帯数が増えたのは事実である。それに伴い保育所も同じ割合で普及すれば「待機児童」は増加しないはずである。本書では、その普及率があがらない部分にメスを入れている。また逆に急いで事をすすめた自治体によっては、保育の質の低下や事故が増えていることも指摘している。
2013年「待機児童ゼロ」と発表した横浜市。その実態について著者は第1章で取り上げているが、結論から言えば「ゼロ」ではないということが分かる。横浜市に限らず、何をもって「ゼロ」とするかというところも、自治体によってまちまちであり、市民の、子育て中の親の肌感覚や実体験の方がはるかに待機児童の実態について正確であることが、赤裸々となっていく。つまり、行政と市民レベルでの感覚に大きく隔たりがあることが分かるのである。
しかし、この2点について以上に重要なことが本書では述べられている。それが第8章。ここでは「保育所としての命綱」として、「表には出てこない待機児童」がいることを取り上げている。2014年3月にインターネットを通して知ったベビーシッターに子どもを預け、その子どもが死んでしまったという事件を覚えている人も多いのではないだろうか。この事件について、著者は見ず知らずのシッターに預けた母親の責任や、保育制度の不備について指摘しているわけではない。実際に行政の手の届かないこのような世帯が数多くあるという実態。つまり、日本の子育てが抱えている問題を凝縮した事件であると論じているのである。その一つが貧困の問題と結びつく。格差社会と言われて久しいが、片親の中でも母子世帯が正規雇用として働いている率は低い。非正規となると昼間の稼ぎだけでは生活していくことはままならず、夜も働く、もしくは夜の稼ぎのみで生活していくパターンがどうしても多くなる。夜間保育や会社と契約する一般的なベビーシッターは数も少ない上に保育料は高くなる。しかし、この事件のようなサイトを通じてのシッターはそれらに比べると格安であるという。日々の生活が精一杯の世帯にとっては、質はともかく、低料金で子どもを預かってくれるのは、渡りに船であろう。著者は子どもがせめて小さい間だけでも、夜働かなくて済む支援が出来ないのかと問題提起している。
著者自身4人の子どもを持ち、すでに第1子(1996年生)の時から「待機児童」を抱えて悩む母であった。「保活」という言葉が存在しなかった時から著者は子どもの預け先に奔走し、現在に至っている。そして、20年。何も変わっていないどころか、更に深刻化している「待機児童」の問題。その忸怩たる思いが凝縮し文章一つ一つ迫真に迫る勢いとして表れている。 文責 木村綾子