京都で、着物暮らし 

京の街には着物姿が増えています。実に奥が深く、教えられることがいっぱい。着物とその周辺について綴ります。

KIMURAの読書ノート 友罪

2018年06月17日 | KIMURAの読書ノート


『友罪』
薬丸岳 集英社 2015年
 
ジャーナリストを目指して挫折した益田がたどり着いた先が埼玉県内にある町工場。同じ日に同い年の鈴木もここに雇用される。鈴木は誰とも打ち解けず、工場内では浮いた存在になっていたが、次第に益田と話をしていくようになる。ある時、益田は14年前に地元で起きた猟奇的な殺人事件の犯人が鈴木ではないかと疑うようになる。疑念を払しょくするために、鈴木は益田の身辺を調べていくと……。
 
「心を許した友は、あの少年Aだった」というキャッチコピーが先月映画のCMとしてテレビで頻繫に流れていたので目にした人も多いのではなかろうか。本書はその原作である。私自身このコピーを目にした時、正直1997年に起きた神戸連続殺傷事件を思い出してしまった。そして、そのコピーよりその後を作者なりにかみ砕いてフィクションと描いたものだとイメージしてしまった。しかし、巻末の解説によると、この事件の犯人が手記を出版したのは、本作品(初出2010年)よりも後のことで、件の事件とは全く別物であるということを解説者は記している。
 
このような事件をモチーフにした小説の場合、多くが加害者や被害者側の家族の視点に立ったものが多かったように思える。しかし、この作品は事件の渦中には犯人とは全く接点を持っていなかった人物、つまり法的に罪を償った犯人とその後日常生活の中で出会った人物に焦点を置いている。そして、本作ではこれらの人物はそれぞれ鈴木と同様に知られたくない過去を背負って生きている。鈴木を通して、自分の過去とどう向き合っていくのかというのが主題であり、かつ、人の過去に対して、他人はどこまで詮索していいのか、いやしてしまわずにはいられないのかという読者への問題提起に比重を置いている。
 
それを顕著に表したのが鈴木に好意を寄せる事務員の藤沢ではないだろうか。彼女はかつての恋人のために、AVビデオ出演の過去を持つ。その過去から逃げるべく町工場の事務員の職を得てひっそりと身を潜めて暮らすのであるが、元恋人にその場所を見つけられ、過去のビデオをその町工場に送られてしまう。更に鈴木の過去を追う記者により、藤代の過去が雑誌に掲載される。打ち砕かれる藤代に対して鈴木が発したのは「君は何も悪いことをしていない」。そう、少なからず彼女に関しては、何も罪になるようなことは犯してないのである。それでも、周囲は面白おかしく、彼女を好奇の眼で見てしまうばかりか、それ以上の過去を知ろうとする。
 
600ページ近くあるこの作品、ページをめくるたびに気持ちは沈んでいき、心が刻まれていくような感覚を抱き、何度も途中で目をそらしたくなる。そして、結末。そこにハッピーエンドがあるわけではない。ただただ、ひたすら重たい宿題がのしかかっていく。それは、この作品はかつての犯罪者であった鈴木の視点をあえて描いていないからかもしれない。それだけに、読者には逃げ場のない作品となっているのである。
 
映画は観ていないために、どのような仕上がりになっているのか私には分かりかねるが、原作を読んだ身としてはこの映画のキャッチコピーは観客動員のための印象付けにしか感じない軽いものに思えてしまった。まさに件の事件に関して他人がどこまで関与していいのか。被害者・加害者の家族の想いをどこか置き去りにしていないか。しかし、かくなる私自身、この作品を手にしたのは、このコピーを目にしたのがきっかけだったのは、否めない。複雑な心境である。

♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪
文責 木村綾子






  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

KIMURAの読書ノート『孤狼の血』

2018年06月05日 | KIMURAの読書ノート

『孤狼の血』
柚月裕子 作 角川書店 2017年8月
 
前回の「読書ノート」では、映画『孤狼の血』を取り上げた。その中で、私は「いわゆるやくざの『指をつめる』シーンがそのまま映し出され、豚の糞を口に押し込むという暴挙。バイオレンス映画とは聞いていたが、ここまであからさまに映し出されるとは全く想像もしていなかった」と書いたが、原作ではこのような暴力的なシーンがどのように綴られているのか気になり、早速原作を読んでみた。
 
結論。映画で写し出されたこれらのシーンはほとんど「刺す」「殺す」「殴る」「拷問」という言葉で表記されていた。具体的な描写のところもあるが、それは「肋骨が折れ」「鼻血が噴き出した」など、小説としてはごくごく身近な言葉であった。正直、映画を観ず原作だけで留まっていたら、自分の中の想像の範疇であり、決して映画の中で映し出されていた暴力団の中で繰り広げられる、おぞましい状況を思い描くことは全くできなかったであろう。改めて、映像の力というものを思い知らされた。
 
逆に、映画の限界というのも原作を読むことで知ることとなった。原作は453ページ。それを2時間余りの作品に凝縮するには、原作の全てを組み込むことができない。今回の場合、暴力団組織、警察組織について原作では物語の流れの中で踏み込んで書かれている。それは現実の部分もあり、この小説だけのオリジナルの部分もある。しかし、映画の中ではそれが端折ってあり、原作を読むことでこれらの両組織について全く知らない人でもすんなりとその世界に入っていけるようになっている。今回の作品に限っては、原作と映画が両輪となって上手く機能しているように感じた。
 
本作品は「警察小説」と言う触れ込みであるが、第69回(2016年)日本推理作家協会賞受賞作品である(上記出版年は文庫化のもの)。つまり推理小説なのである。各章の扉には一部黒塗りの日誌が表されており、これが伏線になっていることは、明らかであるが、物語の中でここに言及される言葉が出てこないため、読み進めていくとこの存在をうっかり忘れてしまう。そして新たな章になるたびに、この扉が出てくるのだが、だんだん麻痺し、これがただのデザインのように見えてくる。そして、エンディングで思わぬ展開に驚愕するというミステリー好きにはたまらないお楽しみが待っている。どこが推理小説となっているのかは、読んでからのお楽しみであるが、この楽しみを期待する人は映画ではなく、原作をまずは読んで欲しい。
 
また、原作では新人刑事日岡の16年後にも触れられている。そこには大学卒のエリートだった日岡がタイトル通り「孤狼」の血脈を受け継いだ泥臭い一人の人間となって、呉原東署に君臨する。わずか2ページにそのことが凝縮されているが、その場面は圧巻である。
 
と、この「読書ノート」を書いている最中に、本作品の第2弾『凶犬の眼』の映画化が決まったというニュースが飛び込んで来た。原作では味わえない覚悟のいる映像になることは想像に難くないが、少しだけわくわくしている自分がそこにいる。
========
文責 木村綾子

 

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする