京都で、着物暮らし 

京の街には着物姿が増えています。実に奥が深く、教えられることがいっぱい。着物とその周辺について綴ります。

KIMURA の読書ノート 『護られなかった者たちへ』

2021年12月14日 | KIMURAの読書ノート

『護られなかった者たちへ』

中山七里 作 宝島社 2021年8月
 
仙台市の入居者のいない廃墟化したアパートの一室から一人の男性の他殺死体が見つかる。死体の手足はガムテープで何十にも巻かれ、口も同様にガムテープで塞がれていたが、辛うじて鼻だけは息ができるようになっていた。死因は餓死。飢えと喉の渇きにじわじわと苦しみながら死んでいったようである。この男性は仙台市の福祉保険事務所の課長で、周囲からの評価は高く、「善人」という言葉はこの人のためにあるようなものだとも言われていた。この事件を捜査することになった笘篠は怨恨の線で犯人を追うが全く犯人が浮かばない。そうしているうちに、最初の事件と全く同様の手口での他殺死体が見つかる。この被害者は県議会議員で「人格者」と呼ばれている男性であった。笘篠は同一犯とにらんで、更に捜査を進めていったところ、一人の男性が容疑者として浮かんでくる。
 
この作品は、今年10月1日に公開された同名の映画の原作である。なぜ犯人は被害者を「餓死」という残酷な方法で死に追いやったのかというのが、焦点となっていくが、そこには東日本大震災と切っても切れない繋がりがある。仙台市は東北最大の都市であることから比較的早く東日本大震災から復興したように見えた都市である。そのため、他の地域で被災した人がここに押し寄せ、とりわけ仙台の福祉行政はパンク状態となった。そこから生まれたのが今回の作品である。これを読んで重なったのが、前回の読書ノート『氷柱の声』とそこに記載したNHKの『おかえり、モネ』である。この2作品は「被災者」とそうでなかった者の苦悩や葛藤を描いているが、本作品のタイトルの一部になっている「護られなかった者」は、それらと同義語である。本中で容疑者となった男性がこのように語っている。「護られなかった者たちとそうでなかった者たちの境界線はいったいどこにあったのだろうか(p424)」。『氷柱の声』と『おかえり、モネ』には殺人事件は起こっていないが、それは物語の性質上の問題であり、東日本大震災が人に与えた苦悩と葛藤は決してこれらの作品のように殺人事件を起こさないとは限らない。少なからず物語上であるにしろ、その傷跡から殺人事件が起こってしまっている。それを読者は深く受け止める必要があると考えさせられた。と同時に、この東日本大震災はこれまで以上に、人々の行動や気持ちをより複雑化させたということも分かってくる。しかし、巻末の作者と(映画)監督の対談で監督はこのように話している。「震災という理不尽さと、社会構造の理不尽さを並行して描こうと考え、最終的にそれを人間と人間の関係で乗り越えていこうというテーマにもっていきました(p475)」。複雑化した社会や人間関係を乗り越えるのもやはり「人との関係性」であるというのが、3作品の共通テーマでもある。
 

実は今回に関して、映画は未鑑賞である。どうしても観たくてぎりぎりまで何とかスケジュールを合わせようとしたが、どうにもならず。なぜ、そこまでして観たかったのか。実はこの映画に『おかえり、モネ』の主人公を演じた清原果耶が出演していたからである。同じ東日本大震災を描く作品に同時期に相反する役で出演した彼女の演技。少なからずメディアでは高評価のようである。彼女はこの2作品をどのようにかみ砕き、自分の中に落とし込んで演じていたのだろうか。それだけが心残りである。
 
と言うことで、2021年も無事に読書ノートを完走いたしました。今年は東日本大震災より10年ということもあり、それに関連した作品をドラマから書籍と言う連続性の中で巡り会うこととなりました。そして、10年が決してそれを区切りとするものではないということをしみじみと感じた1年でした。さて、2022年はどのような本との出会いがあるのでしょうか。とてもわくわくしますが、これまで以上に本より大きな課題を与えられそうで、少々ドキドキもしている年末です。それでは皆様よいお年をお迎えください。 

     文責 木村綾子
 

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KIMURAの読書ノート『氷柱の声』

2021年12月02日 | KIMURAの読書ノート


『氷柱の声』
くどうれいん 作 講談社 2021年7月
 
盛岡に住む伊智花は、高校2年生の時に東日本大震災に見舞われる。年度が変わり3年生になった伊智花は美術部で以前に賞を取ったこともあり、教育委員会絡みの取り組みで「絵画で被災地に届けよう、絆のメッセージ」の出展を名指しされる。内陸で被害をほとんど受けていない自分がそれを描いていいものなのか悩むものの、断ることができずにニセアカシアの白い花が降る絵を描く。そしてこの絵に関し取材を受けることとなるが、絵ではなく、被災地に向けてのメッセージを届けようとする高校生に喜んでいる記者の意図を知り暗澹たる思いになる。その後大学に進学した伊智花は4年生の時に、2学年下の医学部のトーミと知り合う。トーミは福島で直接震災時、津波を目の当たりにしていることを伊智花に話す。そしてトーミはそのことがきっかけで医学部を中退、アメリカに留学をする。また、伊智花のボーイフレンドの中鵜は震災時、宮城の内陸におり、停電の中ろうそくで過ごしたことがトラウマとなっていた。そして、時が経ち伊智花は社会人となり、地元でフリーペーパーを作る編集部で働いていた。ここでも震災について思いを巡らす人物と出会う。
 
この本を読みながらすぐに脳裏に浮かんだのはこの春から秋にかけてNHKの朝の連続テレビ小説『おかえり、モネ』だった。このドラマは震災が起こった時、高校受験で地元気仙沼沖合の島を離れており津波には遭遇しなかったため、周囲の人との被災経験を共有できず、何も力になれないことに苦悩を抱えながらも、自分の道を見つけていく永浦百音(モネ)の物語ある。ドラマではモネだけでなく、震災後被災していようとそうでなかろうと、その人その人によって抱える悩みや葛藤を細かく描かれていたが、この作品もまた同様であった。主人公の伊智花は前述した通りであるが、大学で友人となったトーミは、津波が自宅の一歩手前で止まったため、大きな被害を免れている。しかし、そのため、自分が何も失なわなかったから友人の家が全壊したと思ってしまう。だからこそ、せめて自分は傷ついた人を救う職につきたいと思い、医学部に進学する。しかし、そのことを知っていた教授がトーミに「本当に美しい努力だ」という声がけをしたことにより、トーミの中の何かが割れてしまう。伊智花が社会人となって知り合った松田は、震災で家族を失っている。その後彼は、親戚が引き取ってくれ、大学に進学して東京で就職する。それでも思うところがあり、上司に相談したところ、「せっかく、震災採用なのに辞めたら後悔するぞ」と言われる。『被災者』を入社させることが企業の社会貢献だと思っている現実に憤りを感じていた。
 
この作品の初版は今年の7月であるが、初出は雑誌『群像』(講談社)の4月号である。つまり、NHKのドラマの脚本とこの作品は同じ時期に、脚本家と作家が同じような思いを持ち、それぞれがそれぞれの形で執筆していたと考えられる。確かに今年は震災から10年の節目ではあった。しかし、それだけが執筆と言う思いを突き動かしたのではないであろう。『おかえり、モネ』を見逃した人だけでなく、モネファンだった人にも是非手にして頂きたい1冊である。最後に作者のあとがきの最後の言葉をここに引用する。
 
―――書き終えて感じたのは「震災もの」なんてものはない。ということだ。多くの方が「話せせるほどの立場」ではないと思っているだけで、2011年3月11日以降、わたしたちの生活はすべて「震災後」のもので「『震災もの』の人生」だ。どこに暮らしていたとしても、何も失わなかったと思っているとしても。だから、この作品は「震災もの」ではない。だれかの日常であり、あなたの日常であり、これからも続くものだと思う。(p119)―――

=====  文責 木村綾子


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