京都で、着物暮らし 

京の街には着物姿が増えています。実に奥が深く、教えられることがいっぱい。着物とその周辺について綴ります。

KIMURA の読書ノート 『被爆者』2005年 『続・被爆者』2015年

2019年08月31日 | KIMURAの読書ノート

『被爆者』2005年
『続・被爆者』2015年

会田法行 写真・文 ポプラ社



前書のサブタイトルは「60年目のことば」、後書は「「70年目の出会い」となっている。

前書は6名の広島・長崎の被爆者の証言と現在の姿を映し出している。どの人も口をそろえて言うのは、「今願うのは世界の平和」という言葉。しかし、この中でこの言葉すら発することのできない当事者を1人ファインダーは捉えている。体内被曝をし、原爆小頭症を患ったままこの世に生を受けた女性である。彼女は60年たってもひとりで着替えることもトイレに行くこともできない。かろうじて単語を話して意思表示はするものの、父親と終戦後に生まれた姉妹のサポートなしには生活ができない状況である。カメラマンの著者は彼女にレンズを向けながら「自分の気もちをうまく伝えることができない60年は、普通の人の60年よりも長く孤独な時間だっただろう」と綴っている。体内被曝をした人、とりわけその原爆症を患ったままこの世に生まれてきた人の証言を取るのはなかなか難しいことである。彼女の生の言葉を代弁する彼女の表情が、かえってその原爆の後遺症というものの痛ましさと虚しさを多弁に語り、読者の胸をえぐっていく。

後書は前書の最後に取材に応じてくれた女性の10年後の姿からページは始まっている。しかし、ページをめくると思わぬ内容にページをめくる手が止まる。そこにはこのように綴られている。
「2011年3月、東日本大震災によって、福島県にある福島第一原子力発電所が爆発しました」。

「原爆」という言葉でイメージするものは「ヒロシマ」「ナガサキ」であるが「被爆者」と被害者目線の言葉に置き換えると、間違いなく「フクシマ」も含まれてくること、「ヒロシマ」「ナガサキ」の地続きで「フクシマ」があることを改めて思い知らされることになる。著者は続けてこのようにも記している。
「ばくが被害者の人びとを取材していたとき、平和な未来を祈るばかりで、このような大事故が起きることなんて想像もしていませんでした。コントロールを失った原子力発電所が原子爆弾と同じように危険な放射性物質をまきちらすものだと思ってもみませんでした。ぼくは原発事故の取材をしながら、広島や長崎で出会った被爆者のひとびとを思い出し、悲しい気持ちになりました」

前書が出版され10年後の続編。文字ではどうしても伝えきれない10年という歳月を写真は見事に写し出している。著者はそれを「ぼくの時間は止まり、彼女の時間だけが進んでしまったかのように」と表現しているが、10年という歳月はあまりにも過酷で、非情である。この2冊は併せて一つの作品であり、決して1冊だけで完結するものではない。令和という新しい年を迎え戦後74年経った今、被爆者をはじめ戦争体験者は年々減っているという現実。この史実を風前の灯火にしないための著作であることは間違いない。

======= 文責 木村綾子






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KIMURA の読書ノート 『戦争孤児を知っていますか?』

2019年08月14日 | KIMURAの読書ノート

『戦争孤児を知っていますか?』

本庄豊 著 千葉猛 寄稿 日本機関紙出版センター 2015年

現在NHKで放映中の朝ドラ『なつぞら』の主人公奥原なつは戦争孤児である。東京大空襲で母親を、戦地で父親を亡くしている。その彼女が父親の親友に引き取られ成長していく姿を描いたものであり、多くの視聴者の心を引き付ける番組となっている。そして、東京大空襲ではなつだけではなく多くの子ども達が親や身内を亡くし戦争孤児となり、また広島や長崎の原爆投下後も多くの子ども達が戦争孤児となっていることも知られている。しかし大きな空襲がなかった京都に戦争孤児がたくさんいたことはあまり知られていない。本書はMBSのアナウンサー千葉猛さんがカンボジアに行った際に出会った戦争孤児たちに出会うことで日本にも同じ戦争孤児がいたことに気づかされ、その研究をしている本庄豊さんから話を聞く形でブックレットとしてまとめたものである。

本書を読んでまず驚かされることは、京都府は戦争孤児数が全国で4番目に多い都府県であるということ。満州から舞鶴経由での引揚者が京都駅に集まったということも一因であるが、戦災が少なかったため駅舎や街が残り、夜露をしのぎ、食べ物が確保しやすかったというのが大きな要因であったようである。実際に孤児たちの間では「京都に行けば食べ物にありつける」という情報が流れ、子ども達が京都駅に集まったということもここに記されている。また、日本における戦争孤児数は世界的にも多いということ。これは当時のGHQの最高責任者マッカーサーが日本に来て、「こんなに孤児の多い国はない」と証言している。戦争があったのだから、戦争孤児はいると漠然とは思っていたものの、他国と比較しても多いということなど本書を読むまで全く考えが及ばなかった。そしてここで教えられるまで考えが及ばなかったことが更にもう一つ。孤児になってしまったことへの補償について。財政的な支援が一切ないばかり、国は謝罪もなかったということ。社会的に擁護されなくてはいけない子ども達が置き去りにされているという現実。敗戦で国が混乱していたとは言え、それが落ち着いた後も何も支援対策を打ち出していないという現実。

本書では実際に戦争孤児として京都駅で生活を一時期していた人にも当時の様子をインタビューし掲載している。わずか当時6歳。一緒に体を寄せ合って寝ていた子が翌朝には冷たくなっていることが日常茶飯事で、それに対してたいそうな考えをもっていなかったという証言に、かえってその過酷さがひしひしと伝わってくる。しかし、これは序の口でインタビューの中にはもっと壮絶で驚愕な体験が語られている。そして、それらの証言を読み進めれば進むほど、ただ、生きていてくれてありがとうという感想しかでてこない。

奥原なつの戦争孤児時代の場面はわずかではあったが、それでもドラマとして涙をさそうものであった。しかし、物語の裏のなつは映像では語ることのできない孤児時代を過ごしたのだろうと、今更ながらに想像してしまう。そして連日観光客でごった返す京都駅。わずか74年前は、行く当てもなくそこでただただその日を生きることだけに精一杯だった子ども達が生活をしていた場所なのである。その上で今の京都があることに改めて戦後のこの時間を考えさせられる。


======. 文責 木村綾子



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KIMURA の読書ノート『同調圧力』

2019年08月01日 | KIMURAの読書ノート
『同調圧力』
望月衣塑子 前川喜平 マーティン・ファクラー 著
角川書店 2019年6月1

本書の帯に「6/28(金)公開!映画『新聞記者』の劇中座談会も収録」とあったのが、本書を手にしたきっかけである。前回の読書ノートで私はまさに映画『新聞記者』について取り上げ、その中で「スクリーン内に映し出されるテレビ番組の討論会では、東京新聞記者の望月衣塑子氏や元文部科学省事務次官の前川喜平氏が実名で意見を交わし合っている。」と記した。しかし、これはあくまでも映画の中の一コマであり、まさかそこで本当に座談会が繰り広げられているとは全く思ってもみなかった。雰囲気だけを作り上げたものだと思っていたのだ。映画ではほんのわずかなシーンであるが、カメラが廻ろうと廻っていなかろうと3名が意見を交わし合った内容というのはかなり興味がある。その部分は巻末付録の中で記してあるが、「付録」と言っても、約50ページ近くあり、「付録」と言うよりは一つの章立てとして十分に通用する量である。
 
第1章では望月氏が官邸の記者会見上で彼女自身に対する嫌がらせとも受け止めかねない出来事に対しての状況説明や記者クラブについて論じている。一般の人からは知ることのできない一つの組織の中でそれでも「記者」という職業に責任を持って職務を全うしようとしている姿がうかがい知れる。それが結果として映画『新聞記者』へとつながったのだと考えると彼女の姿勢は「記者」という枠を超えた一人の人間の職業意識の高さを思い知らされる。

第2章、前川喜平氏は自身が文部科学省に勤務していた時のことを主に現在の教育行政について語っている。それは誰もが知りたいと思っている、ここ数年に渡り世間を賑わせている問題、また自身の価値観と業務上それとは全く逆の考えのものに対してどう折り合いをつけていくのかということまで、官僚という仕事の矛盾をあくまでも自分自身のことではあるがとしながらも、かなり精神的に厳しい職務であることをうかがわせる内容であった。

第3章、マーティン・ファクラー氏の話もかなり衝撃的である。日本とアメリカを比較した時、両国とも新聞の発行部数は落ちているということから話は始まるのであるが、その対処法としてあくまでもアメリカの記者は自身が足でかせいで特ダネを取り、読者が知りたい情報を提供しているのに対し、日本の場合、そのような危機感がすでにないという。その理由がかつて日本の新聞社の副次的だった不動産業が現在その柱となっているためであり、経営そのものが深刻になっていない、いやその深刻さが働いている者に伝わらないという。この発言だけを拾っても、今の日本の報道が下降線をたどっていると言わざる得ない状況であることが伝わってくる。彼はこのようにも言っている「正確で公正な情報を届けてくれる、信頼に足るメディアを自分自身で選び、確保して欲しい(p206)」。

そしていちばん気になるところの「巻末付録」。映画「新聞記者」で私は「内調」のことについて妄想を膨らませて綴っているが、どうもそれが妄想ではないようである。読んでいてこれまた衝撃の鼎談であった。やはり、映画はフィクションではなかったのか。
映画を観に行く時間が取れない方にも是非、本書の「巻末付録」だけでも、そして斜め読みでも構わないから手にして欲しい。そんな思いにさせてくれる1冊である。

======文責 木村綾子

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