京都で、着物暮らし 

京の街には着物姿が増えています。実に奥が深く、教えられることがいっぱい。着物とその周辺について綴ります。

KIMURAの読書ノート『やまなし』 宮沢賢治 文 アーサー・ビナード

2022年12月17日 | KIMURAの読書ノート

『やまなし』
宮沢賢治 文 アーサー・ビナード 英訳 山村浩二 絵 今人舎 2022年4月

宮沢賢治の代表作の一つでもある『やまなし』をアーサー・ビナード氏が英訳。本書ではその英訳と原文と言われている文章を同時に掲載した構成となっている。

『やまなし』と言えば、謎の言葉とされている「クラムボン」が有名であるが、訳者がこれをどのように英訳したのかというところが、やはりいちばん気になった。ページをめくるとすぐにそれが目に飛び込んできたが、正直これがどのような意味を成すのか辞書で調べてもよく分からなかった。そして、本書の最後に訳者の言葉が1ページに渡りぎっしりと書かれてあった。それはやはり「クラムボン」についての経緯であった。訳者自身、最初にこの作品に出会ったのが1993年のことだったそうだ。すぐに英訳したい衝動にかられたらしいが、目の前に「クラムボン」という壁が立ちふさがったようである。それから文学者の先輩に解釈を聞いたり、資料を調べたりしながら紆余曲折、約30年の時を経て出版となったということだ。しかし、その過程はかなり過酷で「翻訳崩壊」となった時もあるようである。そして、最終的に「クラムボン」を訳者なりの解釈によって英語の言葉としてたどり着いたのがこの作品に表されている。その言葉は実際に本書を手に取って確認して欲しいが、一つだけヒントを上げるとしたら、この言葉にたどり着いたきっかけの一つはマザーグースのようである。確かにこの作品も原文に英語としての謎の言葉がたくさん出てくる。

しかしながら、『やまなし』という作品全体を通しても、英訳をするに際し「クラムボン」だけに苦心したのではないことに気付かされる。そもそも日本語は他言語よりも一般的にオノマトペ(擬音語、擬態語)が多いと言われている。それをどのように日本語圏以外の人たちに理解してもらうかというところが、訳者としての腕の見せ所ということになるのであろう。が、実際に英訳と原文を比較してみると、あっさりオノマトペを省略している箇所もあるし、意味を持たせず日本語のオノマトペと発音を似せるようにアルファベットを組み合わせ、そこに大文字小文字で雰囲気を醸し出すと言う手法がとられている。また、タイトルが直訳となっていないところも注目すべき点なのかもしれない。オノマトペを除けば日本語の文章としては決して難しくなく、多くの日本人がよく知っているこの童話をどのように英訳していっているのか、1文ずつ、比較しながら楽しんでもらいたい。

という訳で、本年最後の読書ノートでした。せわしくなるこの年の瀬を今回取り上げた宮沢賢治の作品を手にして少しゆったりとした気持ちになって頂ければ幸いです。そして、私のこの1年の読書に関するまとめを少しお伝えすると、年初に掲げていた「このミス大賞受賞作品コンプリート」ですが、達成することは出来ませんでした。年明け20冊中、3冊既読というところからスタートしたのですが、この1年では8冊にとどまりました。プラス5冊されただけです。言い訳ですが、他に読みたい本がてんこ盛りになり、そちらを優先していたからというとても単純なものです。ただ読んだ総冊数は息子(猫)の介護以前に完全に取り戻しましたので、読書そのものへの意欲は何も衰えておりません。それどころか、領域の幅が広がったり、タイムリーな本に出会ったり、読書ノートが先行してその後新聞などにその作品の書評が掲載されていたのも幾冊か。もちろん、心の中でほくそ笑んでいました。来年も達成できないであろうけど、目標は掲げたいと思っています。それではよいお年をお迎えください。

       文責 木村綾子


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KIMURA の読書ノート『女人京都』

2022年12月03日 | KIMURAの読書ノート

『女人京都』
酒井順子 著 小学館 2022年10月

10月の、そして昨年8月の読書ノートで外国人から見た日本の古典文学についての本を取り上げましたが、ふと、とりわけ研究者以外の日本人は一般的にこれらをどのように捉えているのだろう、どのような角度で楽しんでいるのだろうかという疑問が片隅に湧いてきました。もちろん、私自身は興味を持つようになったけど、まだまだそれを語るまでにはいかないのが現状。しかし趣味として、オタク活動的に楽しんでいる人はたくさんいるはず。そのような時に、この読書ノートでもしばしとりあげられる著書、酒井順子さんがタイムリーな本を上梓されました。それが本書です。

著者は京都に幾度となく訪れるようになってから、京都の魅力が分かってきたと語っています。その理由の1つが「人」。その中でも京都の歴史に物語ってきた「女性」。その女性たちの生きざまが今の京都に生きる女性、そして国内に生きる女性に連綿とつながっているような気がすると綴っています。そのような形で京都を視ると、京都は都の時代以前から女性に関係した史跡が多いこと、また、女性が男性に対しての行動制限はあっても、「学ぶ」ということに制限されたことはなく、そこに知性や教養が、女性の魅力になっているとも記しています。そして、それは全国的に見て、例外的に歴史に名を残している女性が多く、都であったという事もあり、彼女たちの姿が記録に残されていることにも著者は気付きます。そこで、本書は古代から時系列的に明治まで活躍した女性に焦点を絞り、直接その場所を著者が訪ね、史実と垂らし合わせながら彼女が考えたことを綴ったエッセイとなっています。

が、ざっくりと言ってしまえば明らかに著者が気になった歴史上の女性に対する「聖地巡礼」そのものです。そのため、巡礼の合間に甘味処で一息つく場面がしばし出てきます。その1例が桂昌院を語る回。桂昌院が再建した今宮神社を訪れた後、桂昌院もあぶり餅を食べたことがあるかも知れないと神社の門前にあるあぶり餅屋に著者は立ち寄ってみたりするわけです(で、たまたまその日はお店がお休みで自分の運のなさに嘆いる)。かと思えば、淀君と北政所の回では、「女性史の中の女性たちを見ていると、子供を産んだか否かで、その人生が大きく左右されているケースがままあります(p229)」と彼女特有の女性学視点の言葉が出てきます。それを淀君と北政所を対比させることでそれを更に浮き彫りにさせているところは著者らしい論考でもあります。

この京都訪問最中にコロナが流行し始め、聖地巡礼途中で京都を訪れることができなくなった際には、自身のこれまでの見地から東京の自宅で「日記文学」について語っている回もありますし、グーグルのストリートビューを駆使してエア聖地巡礼を行っている回もあります。どちらも彼女のウイットに富んだ綴り方が著者らしくあり、読者はエア巡礼の更にエア巡礼という形で京都の史跡巡りを行う形となるのですが、ストリートビューではどのような視点となるのかということも分かり、「文明の利器万歳」と心の中で一読者ながら思うのです。

本書では巡礼場所も簡潔な地図で掲載されており、ガイドブック的な役割ともなっていますが、巡礼場所は有名どころの寺社だけではなく、石碑だったり、そこの地名のみの場所だったりと多岐に渡り、好奇心がそそられます。そして、京都の洛中、洛外問わず、京都という都の存在感を改めて知らしめる本書であり、「古典文学」という域を超えて、「記録」という文章そのものの意義を明確にしてくれる1冊でもありました。

========文責  木村綾子


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