京都で、着物暮らし 

京の街には着物姿が増えています。実に奥が深く、教えられることがいっぱい。着物とその周辺について綴ります。

『ココロ屋』(児童書)

2013年02月14日 | KIMURAの読書ノート
2013年2月その2
『ココロ屋』(児童書)
梨屋アリエ 著 文研出版 2011年9月

ひろきはゆうやとすぐに喧嘩をしてしまう。そして、いつも怒られるのはひろき。先生から言わせると乱暴だからだそうだ。
いつものようにゆうやと喧嘩をして叱られたひろきは教室を飛び出すと目の前から車輪のついたドアが転がってきた。
そのドアには「ココロ屋」と書いてある。
そのドアをあけるとそこには様々な「ココロ」があり、自分のココロと取り替えられるという。
ひろきはみんなに好かれたい一心で「やさしいココロ」を選ぶ。
最初は上手くいくが、「やさしすぎるココロ」がひろきを押しつぶしていく。
再び「ココロ屋」を訪ねるひろき。
「すなおなココロ」、「あたたかいココロ」と取り替えてみるが結局は上手くいかない。
そして、最後に手にしたのが天然の「自分のココロ」。「ココロ屋」の主人はひろきに伝える。
「天然物のココロは可能性に満ちている。わたしが作り出したココロはほとんど成長できない。
変化が起きるのは、天然ものだけ」。こうしてひろきは自分の「ココロ」を取り戻す。

これは今年度の青少年読書感想文全国コンクール「小学校中学年の部」の課題図書となった作品であるが、
その前後からかなり話題にもなっており、新聞や雑誌の書評欄でもかなり取り上げられていた。

あらすじからも分かるように、子どもの「ココロ」の葛藤と成長を明確に浮き彫りにしているばかりか、
「ココロ」を「入れ替え可能」にすることで、「ココロ」を身体の部品と捉え、
「ココロ」のみに視点が集中できるように表現されている。
対象年齢の小学校中学年の子ども達がどこまでそれを読み解くかは別として、
大人が読んでもわずか100ページ余りの中に多くの問いかけを受け取ることができる。
あちこちで話題になるのもよく分かる。

その中で私は気になった場面がある。ひろきがゆうやに乱暴をする理由。
物語のフレーズを借りると「ゆうやがぼくにいやな顔をしたから、仕返しにゆうやをおどかそうと思ったんだ」(p7)。
「ゆうやのすることに、ぼくは頭にきて、はらをたててしまうことがある。
ごくのいやな気持ちは、わっと、いっしゅんでからだじゅうに広がって、おさえられなくなってしまう。
ゆうやがきらいなわけではないのに」(p8)。
そして、こんなフレーズもある。「ぼくは、どんなココロになれば、ゆうやや、みか先生や、みんなに、好きになってもらえるんだろう」(p32)。

今世間では「空気が読めない子」自己中心的な子が多いといわれている。
しかし、このフレーズからでも感じることは、「空気を読みすぎる」ことで、必要以上に感情の高ぶりを子ども達は持ち合わせているのではないだろうか。
例えば、「ゆうやがぼくにいやな顔」という場面。
これは、ゆうや自身もしくは、三人称形式で、ゆうやが実際に「いやな顔をした」とは書かれていない。
あくまでもひろき目線なのだ。ただ、ひろきが「そう思った」だけで、感情が揺さぶられてしまう。
おまけに常に、ひろきはみんなに好かれたいと考えている。
周りのことを考えすぎてしまうのだ。それと同時に、ひろきの孤独さを感じてしまう。

児童文学はその時代時代の子ども達の様子を描いていることが多い。
さすれば、これは「ココロ」の葛藤や成長ではなく、今の子ども達の息苦しさや孤独さを訴えている作品なのではないだろうか。
子ども達の世界は「葛藤からの成長」という大団円では終わらない。
今の時代を生きる子ども達の世界をこの作品から覗いてみて欲しい。

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