先ごろ角川ソフィア文庫になった底本。子供向けの本だから、平易かつ簡潔に書かれている。写真(山本皓一)や図版も数多く入っていて、眺めるだけでも楽しめる本だ。(清流出版)
いったいマイナス50℃の世界というのは、どんなことになっているのか、まったく想像すらできない。厳冬期に富良野へ行ったときに、マイナス20℃を下回ったのを覚えているが、それがおそらく私の体験した最低気温だろう。キーンと張り詰めた空気で肌を刺すような冷たさだったのを覚えている。このときに宿泊した富良野市内のホテルのスタッフは、今日は20℃までいったよと、「マイナス」を省略していたのが妙に印象に残っている。
著者の米原万理さん(1950-2006)は、大黒屋光太夫の足跡をたどるテレビ取材の旅に出た。大黒屋光太夫は、映画にもなった井上靖の『おろしや国酔夢譚』や、吉村昭の『大黒屋光太夫』でそのすさまじき生涯が描かれている。簡単にふれると、18世紀、江戸への廻船を操っていた大黒屋光太夫は嵐に遭い、アリューシャン列島に漂着する。その後シベリアに滞在し、機会を得て、サンクトペテルブルグで時の権力者エカテリーナ2世に謁見することになる。そこで鎖国中の日本への帰国を許されるのだ。米原さんはその取材の一環として、シベリアのサハ共和国(旧ヤクート自治共和国)を訪れることになる。世界でいちばん気温の低い場所といわれているところだ。ここは厳冬期ともなれば、マイナス60℃をも下回ることもあるという極寒の地だ。では、その極寒の世界の一端をこの本のなかから紹介しよう。
まず驚くのは、車はタイヤにすべり止めをつける必要がないということ。マイナス50℃というのは、ちょっとやそっとの摩擦では、氷が解けるほどの熱にならない。氷が解けないということは、タイヤとの間に水が生じないということで、すべらないのだ。だから、スタッドレスタイヤやチェーンいらずで、皆ノーマルタイヤで走っている。ただし、春先に気温がゆるんで、マイナス20℃くらいになると、すべる。日本の冬と同じになるわけだ。
居住霧の話もすごい。住民が朝起き出し、水蒸気が家の外に出始めると、たちまちそれが凍りつき、霧となって視界を閉ざしていく。井上陽水の「氷の世界」以上のすさまじさだ。
着るものは、天然素材というのもちょっとした驚き。これ以外は、ことごとく寒さで破壊され、着られなくなるというのだ。だからここの住民は純毛や純綿のもの、あるいは毛皮を身につける。毛皮は、この地では贅沢品ではなく、ごく身近な素材であり必需品なのだ。必需品であるから、その特徴や性質を当たり前のように熟知している。
毛皮は野生のものだけでは間に合わず、養殖をして需要を満たしている。一頭ずつケージに入れられた銀ぎつねが整然と並んでいる写真が掲載されていて、思わず引く。鉛色の空の下で飼育されているその光景は、不気味の一言に尽きる。
最後に家屋の話をしよう。この辺りの土地は一面永久凍土に覆われている。その上に家が建てられていて、というか建てざるをえないのだが、夏には表土が解けるため、少しずつ家が傾いていくのだ。10年とか20年とか年を経ると、あっという間にピサの斜塔のようになる。そしていずれは住めなくなり、家は倒壊することになる。恐ろしく厳しい現実が待ち受けている。まさに自然の猛威。人間にはなすすべがないのだ。
マイナス50℃の世界 (角川ソフィア文庫) | |
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