分類・文
小説 辿り着いた道 箱 崎 昭
治男が生前勤めていた銀行から支払われた退職金と、相手からの僅かな保険金が入っただけなので、これから先は前途多難な生活を強いられるのは火を見るよりも明らかだった。
トキ子や治男の身内の者たちから、この際いま住んでいる所から引き上げて暮らすことが厭な思い出を断ち切るためにも良いのではないかとアドバイスを受けたりもしたが、トキ子は最終的に自分の判断で郷見ケ丘団地に居残るのを決意した。
治男と共に暮らした最後の場所でもあるし、この土地に愛着も感じている。今更どこへ行ったからといって楽しいことが保障される訳でもなく、それなら思い出に耽りながらここで頑張ってみようと思った。
それに不肖の子、泰治を抱えている以上は泣き言を吐いている暇などない。
治男が小名浜支店に勤務していた時の滝沢が、ある日ひょっこり訪ねてきたのはトキ子にとっては思い掛けない出来事といってよかった。
団地へ引越しの時に世話になった部下で、治男が亡きあと部長に昇格し金子の他にもう1人の新人が加わって奮闘しているのを報告がてら寄らせてもらったのだと言った。
治男の遺影に両手を合わせてから進められた座布団に正座すると、考え深げに当時の思い出を語りながら今日訪ねてきたもう1つの話に触れた。
「ご主人が不慮の事故に遭われて奥さんのお気持ちを察すると、そのご心痛には思い余るものがありますが、いつまでも部屋の中に折られるのも却って気持ちが滅入ってしまうのではないかと思います。それで余計なことかとは思いますが、実は私どもが懇意にして頂いているお得意さんに福島漁網という会社があります。そこで事務の補助をしてくれる人を紹介してくれと頼まれているものですから、このお話を最初に奥さんに持ってきたという訳なんです」
滝沢は引越しの時の会話とは違って、訛りはあるが極めて丁寧な言葉を使った。
「まあ、そうですか。態々ご丁寧に有り難うございます。主人は生前、滝沢さんには随分お世話になって碌な御礼もできないままだというのにご心配をお掛けしてしまいます」トキ子は治男がなくなった後にも心に掛けてくれる滝沢を有り難いと思った。
現実的に収入が途絶えた今の生活状態を長く維持していくことは無理である。 できることならどんな仕事でも良いので働きたいと考えるようになってきた矢先に、滝沢の方から持ち掛けてきてくれた。
まさに渡りに船とはこの事をいうのだろうかと思ったが、トキ子には事務員としての経験が浅いし、それに古い話になるから答えに詰まった。
「何しろ不慣れなものですから紹介された滝沢さんにご迷惑を掛けるようなことがあってはと思うと迷ってしまいます」
トキ子の受け応えから興味を示していると滝沢は素早く察知した。
「紺野さん、ご心配なく。私が初めに言ったように事務の補助ですから難しい仕事ではないんです。おそらく帳簿記入の手伝いや、場合によっては来客の際にお茶を出してあげたりするような簡単なものですよ。ただ、紺野さんのように大学での方がこんな田舎町でお茶出しなどと云われるとプライドが許さないでしょうけどね」
滝沢はトキ子へ進める仕事としては失礼かと迷ったところもあったが、思い切って言ってみたのだ。
「とんでもありません、私たちの事情を知っておられる滝沢さんからの朗報に感謝しています。1日も早く仕事に就いて形振り(なりふり)構わず働くことが夫への供養であり、私自身も精神面からの解放に繋がります。もし先方さんが私のような者でも雇って下さるというのでしたら、このお話を滝沢さんからぜひとm進めて欲しいです。お願いできますか?」
「分かりました。早速、所長さんにお話をしておきます。詳しいことが分かりましたら追って連絡を致します」
滝沢の話は何か人を惹き付けるものを持っている。会話の流れの中に人を和ませ安心感を与え、即座に答を引き出させるような魅力を兼ね備えている。小名浜支店での部長昇格は当然だと思った。 (続)
小説 辿り着いた道 箱 崎 昭
治男が生前勤めていた銀行から支払われた退職金と、相手からの僅かな保険金が入っただけなので、これから先は前途多難な生活を強いられるのは火を見るよりも明らかだった。
トキ子や治男の身内の者たちから、この際いま住んでいる所から引き上げて暮らすことが厭な思い出を断ち切るためにも良いのではないかとアドバイスを受けたりもしたが、トキ子は最終的に自分の判断で郷見ケ丘団地に居残るのを決意した。
治男と共に暮らした最後の場所でもあるし、この土地に愛着も感じている。今更どこへ行ったからといって楽しいことが保障される訳でもなく、それなら思い出に耽りながらここで頑張ってみようと思った。
それに不肖の子、泰治を抱えている以上は泣き言を吐いている暇などない。
治男が小名浜支店に勤務していた時の滝沢が、ある日ひょっこり訪ねてきたのはトキ子にとっては思い掛けない出来事といってよかった。
団地へ引越しの時に世話になった部下で、治男が亡きあと部長に昇格し金子の他にもう1人の新人が加わって奮闘しているのを報告がてら寄らせてもらったのだと言った。
治男の遺影に両手を合わせてから進められた座布団に正座すると、考え深げに当時の思い出を語りながら今日訪ねてきたもう1つの話に触れた。
「ご主人が不慮の事故に遭われて奥さんのお気持ちを察すると、そのご心痛には思い余るものがありますが、いつまでも部屋の中に折られるのも却って気持ちが滅入ってしまうのではないかと思います。それで余計なことかとは思いますが、実は私どもが懇意にして頂いているお得意さんに福島漁網という会社があります。そこで事務の補助をしてくれる人を紹介してくれと頼まれているものですから、このお話を最初に奥さんに持ってきたという訳なんです」
滝沢は引越しの時の会話とは違って、訛りはあるが極めて丁寧な言葉を使った。
「まあ、そうですか。態々ご丁寧に有り難うございます。主人は生前、滝沢さんには随分お世話になって碌な御礼もできないままだというのにご心配をお掛けしてしまいます」トキ子は治男がなくなった後にも心に掛けてくれる滝沢を有り難いと思った。
現実的に収入が途絶えた今の生活状態を長く維持していくことは無理である。 できることならどんな仕事でも良いので働きたいと考えるようになってきた矢先に、滝沢の方から持ち掛けてきてくれた。
まさに渡りに船とはこの事をいうのだろうかと思ったが、トキ子には事務員としての経験が浅いし、それに古い話になるから答えに詰まった。
「何しろ不慣れなものですから紹介された滝沢さんにご迷惑を掛けるようなことがあってはと思うと迷ってしまいます」
トキ子の受け応えから興味を示していると滝沢は素早く察知した。
「紺野さん、ご心配なく。私が初めに言ったように事務の補助ですから難しい仕事ではないんです。おそらく帳簿記入の手伝いや、場合によっては来客の際にお茶を出してあげたりするような簡単なものですよ。ただ、紺野さんのように大学での方がこんな田舎町でお茶出しなどと云われるとプライドが許さないでしょうけどね」
滝沢はトキ子へ進める仕事としては失礼かと迷ったところもあったが、思い切って言ってみたのだ。
「とんでもありません、私たちの事情を知っておられる滝沢さんからの朗報に感謝しています。1日も早く仕事に就いて形振り(なりふり)構わず働くことが夫への供養であり、私自身も精神面からの解放に繋がります。もし先方さんが私のような者でも雇って下さるというのでしたら、このお話を滝沢さんからぜひとm進めて欲しいです。お願いできますか?」
「分かりました。早速、所長さんにお話をしておきます。詳しいことが分かりましたら追って連絡を致します」
滝沢の話は何か人を惹き付けるものを持っている。会話の流れの中に人を和ませ安心感を与え、即座に答を引き出させるような魅力を兼ね備えている。小名浜支店での部長昇格は当然だと思った。 (続)
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