「お初にお目にかかります。私、藤岡と申します。本日は遠い所をお出でいただきまして有難うございます」
柔和な顔つきだが芯の強さが眼光によく表れている。
「こちらこそ大変お世話になっております。和起の祖母でキクといいます。私のような者がこうして招待してもらい夢のように思っています」
キクは、そう言ったが実際に夢のような心地でいた。
「中村君は仕事熱心で、よく働いてくれていますのでご安心ください。ご案内の通り本日お出で願ったのは、彼の手で作られた料理を存分に味わっていただきながらお孫さんとの一時を水入らずで過ごして戴きたいという考えからです」
主人の挨拶が終わる時機を窺っていたかのようにして、和起が襖戸を開けた。
「失礼します。いらっしゃいませ」
両手をついて頭を下げる和起の姿を見てキクは一瞬、呆気にとられ凝視したがキクも無意識の内に目礼をした。
なんと言ってよいのか言葉が出てこなかったからだ。
和起がテーブルに膳を運ぶのを見ていて、今は祖母と孫の間柄ではなく、お客の一人として迎えてくれているのだなと気付くと急に緊張した。
真新しい割烹着を身に付けて、膳から料理物をテーブルに並べはじめた和起の仕種を見ていてキクは涙がこみ上げてきた。
貧しい生活の中で、ひもじい思いをしてきた和起が今こうして板前修業に専念しているのを目の当たりにして、これまでの苦労のなにもかもが一遍に吹っ飛んでしまうような気がした。
「社長さんをはじめとして板長さんたちのご協力を得て、私が心を込めて作りました。どうぞ召し上がってみてください」
和起はキクを相手に話す言葉としては照れくささと違和感を覚えたが、この職業に就いて最初の大事なお客さんとして丁重に迎えなければならなかった。
「本当に有り難いことだね。こうして和起が作った料理を口にすることができるなんて婆ちゃんは初めてだもんな。頬っぺたが落っこちてしまいそうだよ」
キクはそう言って先ず手元に近い料理に箸を付けた。
「これはカレイのあらいで生きたカレイを薄く削ぎ切りして水に浸けて身をはぜたものです。あらいには辛子酢味噌が合うので白味噌に味醂を加えて、さっと火を通して冷まし溶き辛子と酢を加えました」
キクは和起の細かい説明に黙って頷きながら、カレイのあらいを口にしていたがその内容に関しては難しくて理解できなかった。
ただ嬉しくて涙腺が緩み、膝の上に乗せておいた手拭を取っては目頭を押さえることで精一杯だった。
店主の藤岡は、二人の様子をテーブルの脇で微笑みながらじっと見ていたが満足そうな表情をして言った。
「どうですか、お孫さんの料理は格別でしょう。本人にはこうして日々精進してもらい、私は大切なお孫さんをお預かりしている以上は厳しい時もありますが責任を持って料理職人に育てますから安心してください。それでは後は貴重な時間を、お二人でどうぞごゆっくりとしていって下さい。これは汽車賃にもなりませんが私の気持ちとして受け取ってください」
藤岡は寸志と書かれた熨斗袋をキクの前に差し出した。
「とんでもないです。社長様にはこうして色々とお世話になっている上に、こういうものはとても受け取れません」
キクは正座している身体を更に固くして、テーブルに置かれた熨斗袋を指先で押し返した。
「これは本日のお祝いに対するほんのお印しですから。それに断られるほどの中身は入っておりません」
藤岡は笑いながらそう言い、和起と目線を合わせると後はお前に任せるからというようにして席を離れた。 《続く》
柔和な顔つきだが芯の強さが眼光によく表れている。
「こちらこそ大変お世話になっております。和起の祖母でキクといいます。私のような者がこうして招待してもらい夢のように思っています」
キクは、そう言ったが実際に夢のような心地でいた。
「中村君は仕事熱心で、よく働いてくれていますのでご安心ください。ご案内の通り本日お出で願ったのは、彼の手で作られた料理を存分に味わっていただきながらお孫さんとの一時を水入らずで過ごして戴きたいという考えからです」
主人の挨拶が終わる時機を窺っていたかのようにして、和起が襖戸を開けた。
「失礼します。いらっしゃいませ」
両手をついて頭を下げる和起の姿を見てキクは一瞬、呆気にとられ凝視したがキクも無意識の内に目礼をした。
なんと言ってよいのか言葉が出てこなかったからだ。
和起がテーブルに膳を運ぶのを見ていて、今は祖母と孫の間柄ではなく、お客の一人として迎えてくれているのだなと気付くと急に緊張した。
真新しい割烹着を身に付けて、膳から料理物をテーブルに並べはじめた和起の仕種を見ていてキクは涙がこみ上げてきた。
貧しい生活の中で、ひもじい思いをしてきた和起が今こうして板前修業に専念しているのを目の当たりにして、これまでの苦労のなにもかもが一遍に吹っ飛んでしまうような気がした。
「社長さんをはじめとして板長さんたちのご協力を得て、私が心を込めて作りました。どうぞ召し上がってみてください」
和起はキクを相手に話す言葉としては照れくささと違和感を覚えたが、この職業に就いて最初の大事なお客さんとして丁重に迎えなければならなかった。
「本当に有り難いことだね。こうして和起が作った料理を口にすることができるなんて婆ちゃんは初めてだもんな。頬っぺたが落っこちてしまいそうだよ」
キクはそう言って先ず手元に近い料理に箸を付けた。
「これはカレイのあらいで生きたカレイを薄く削ぎ切りして水に浸けて身をはぜたものです。あらいには辛子酢味噌が合うので白味噌に味醂を加えて、さっと火を通して冷まし溶き辛子と酢を加えました」
キクは和起の細かい説明に黙って頷きながら、カレイのあらいを口にしていたがその内容に関しては難しくて理解できなかった。
ただ嬉しくて涙腺が緩み、膝の上に乗せておいた手拭を取っては目頭を押さえることで精一杯だった。
店主の藤岡は、二人の様子をテーブルの脇で微笑みながらじっと見ていたが満足そうな表情をして言った。
「どうですか、お孫さんの料理は格別でしょう。本人にはこうして日々精進してもらい、私は大切なお孫さんをお預かりしている以上は厳しい時もありますが責任を持って料理職人に育てますから安心してください。それでは後は貴重な時間を、お二人でどうぞごゆっくりとしていって下さい。これは汽車賃にもなりませんが私の気持ちとして受け取ってください」
藤岡は寸志と書かれた熨斗袋をキクの前に差し出した。
「とんでもないです。社長様にはこうして色々とお世話になっている上に、こういうものはとても受け取れません」
キクは正座している身体を更に固くして、テーブルに置かれた熨斗袋を指先で押し返した。
「これは本日のお祝いに対するほんのお印しですから。それに断られるほどの中身は入っておりません」
藤岡は笑いながらそう言い、和起と目線を合わせると後はお前に任せるからというようにして席を離れた。 《続く》
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