いわき鹿島の極楽蜻蛉庵

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住吉城と「安寿と厨子王」

2012-09-15 11:19:54 | Weblog
                               分類・歴
     安寿と厨子王 <伝説>

            安寿と厨子王母子像がある場所
            いわき市金山町朝日台(国道6号線の植田と泉の中間辺り)

 昨日(14日)住吉館(すみよしたて)遺跡発掘調査の作業現場を見学した後にブログ更新したのですが、心の中に何か割り切れないものが残っていました。
 それは、住吉館跡(住吉城または玉川城と呼ぶ)を訪ねて、伝説の「安寿と厨子王」に触れない訳にはいかないと思っていたからなのかも知れません。

 森鴎外の小説「山椒大夫」の書き出しは「越後の春日を経て今津に出る道を、珍しい旅人の一群が歩いている。母は30歳を踰えたばかりの女で、2人の子供を連れている。姉は14、弟は12である。それに40くらいの女中が1人附いて、草臥(くたび)れた同胞2人を「もうじきにお宿にお着きなさいます」と云って励まして歩かせようとする。……」から始まっています。

            《金山町朝日台にある安寿と厨子王母子像

 話は平安時代に遡るが岩城判官だった平正氏(政氏とも書く)は、いわき市の住吉に城を築いて政治を行っていたが朝廷の命令で京都に上り、そこで永保(西暦1081~1084)の初めに、国守の違格(いきゃく)に連座して筑紫へ左遷されてしまいます。
 しかし、後に正氏は無実であることが分かり長男の政道が判官職に就きます。この政道の子供が安寿と厨子王なのです。 ※違格=古代の罪名で臨時勅令に違反すること。

 その政道は、いわき市小山田(現・山田町)へお花見に行った帰りに、安寿と厨子王の後見人であった村岡重頼が企てた陰謀により殺されてしまうのです。
 身の危険を感じた母は安寿と厨子王と、家来の大村次郎、召使の小笹を引き連れて朝廷に今回の事件を申し出て父の仇を討つべく都へ向う決意をして旅立ちますが途中、追っ手と戦い家来は死んでしまいます。
 
  
         《母子の旅姿だが幾多の悲運が待ち受けている

 この後、越後の国(現・新潟)で悪者に騙され、母と子は別々の船に乗せられて母は佐渡へ売られ、子は山椒大夫という人買いに売られ、召使の小笹は船から身を投げて自殺をしてしまいます。
 森鴎外の小説「山椒大夫」は近代文学の名作といわれていますが、物語の内容は平正氏が辿った軌跡と酷似しており地元の住吉、玉川では安寿と厨子王の旅のスタートは住吉城であるとされ「伝説」が今に語り継がれています。   

今日という日の過去】 9/15 昭和24(1949)年 西独初代首相にアデナウアー ドイツの西側占領地区に成立したドイツ連邦共和国(西ドイツ)の首相にコンラート・アデナウアー(キリスト教民主同盟)が選出された。

    行事 9月15日(土)    六白 大安  旧暦 7/29

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