分類:歴
戊辰戦争に於ける矢田川の盲点
天候の良さに誘発されて愛車(チャリンコです!)で、矢田川の土手沿いを散策しました。
♪ 若草萌える丘の道 心も弾む身も弾む 面白そうに子ヤギまで 私の歌を聞いている……。遥か昔に遡って小学3年生の時になります。遠足の日に生徒と引率の先生が長閑(のどか)な田園風景の中を、こんな歌を唄いながら歩いたことを思い出させる陽気でした。
小名浜少年野球場(御代地区)では少年チームが練習に励んでいましたが、傍に並ぶ桜の蕾から花びらのピンクが顔をのぞかせている姿を見て、春の到来を一層感じました=写真下。
《元気溌剌な少年たちを桜の木は見守っているように見える》
さて、矢田川は鹿島町の中心部を南北に流れる8,158mの川で、下流で藤原川と合流し小名浜の藤原埠頭と第7埠頭の合間を縫って太平洋に注いでいる2級河川です。
この川土手を通っていると、慶応4年(1868)に勃発した鳥羽・伏見の戦いを思い出します。同年6月には早くも新政府軍は平潟港(茨城)に到着して、磐城平城攻略の秘策としてこの矢田川を巧みに利用し、鹿島部落に陣取る東軍(奥羽越列藩同盟)の兵士たちの裏をかいたのでした。
東軍は鹿島街道(旧)を新政府軍が進行してくるのを予め察知して、七本松(走熊地域)と上矢田地域(鹿島神社付近)に砲台を据えて見張っていましたが、新政府軍は矢田川の土手下を隠れるように進軍してきて七本松の奇襲作戦に出たのでした。
《矢田川(右)と藤原川(左)の合流地点》
東軍は七本松の山腹4カ所に砲台を築き磐城平城への進行を防ごうとしたのですが、見張り番の盲点を突かれて、完全に戦況不利に陥ってしまいました。
矢田川・藤原川の合流地点の付近には二ツ橋があり、『二ツ橋の戦い』として知られていますが、ここでは最初は奥羽越列藩同盟は戦いを有利に進めていたのですが、山上より新政府軍からの連続砲撃に遭ってしまい、已む無く撤退を余儀なくされてしまいました。
《現在の二ツ橋だが、木橋だった頃の昔には歴史があった》
今日のサイクリングは矢田川の土手上を走っていて、結果、古(いにしえ)の戊辰戦場跡を巡っているような感覚になってしまったのでした。
でも、矢田川の土手を爽快な気分でペダルを踏んで走れたのは楽しかったです。
戊辰戦争に於ける矢田川の盲点
天候の良さに誘発されて愛車(チャリンコです!)で、矢田川の土手沿いを散策しました。
♪ 若草萌える丘の道 心も弾む身も弾む 面白そうに子ヤギまで 私の歌を聞いている……。遥か昔に遡って小学3年生の時になります。遠足の日に生徒と引率の先生が長閑(のどか)な田園風景の中を、こんな歌を唄いながら歩いたことを思い出させる陽気でした。
小名浜少年野球場(御代地区)では少年チームが練習に励んでいましたが、傍に並ぶ桜の蕾から花びらのピンクが顔をのぞかせている姿を見て、春の到来を一層感じました=写真下。
《元気溌剌な少年たちを桜の木は見守っているように見える》
さて、矢田川は鹿島町の中心部を南北に流れる8,158mの川で、下流で藤原川と合流し小名浜の藤原埠頭と第7埠頭の合間を縫って太平洋に注いでいる2級河川です。
この川土手を通っていると、慶応4年(1868)に勃発した鳥羽・伏見の戦いを思い出します。同年6月には早くも新政府軍は平潟港(茨城)に到着して、磐城平城攻略の秘策としてこの矢田川を巧みに利用し、鹿島部落に陣取る東軍(奥羽越列藩同盟)の兵士たちの裏をかいたのでした。
東軍は鹿島街道(旧)を新政府軍が進行してくるのを予め察知して、七本松(走熊地域)と上矢田地域(鹿島神社付近)に砲台を据えて見張っていましたが、新政府軍は矢田川の土手下を隠れるように進軍してきて七本松の奇襲作戦に出たのでした。
《矢田川(右)と藤原川(左)の合流地点》
東軍は七本松の山腹4カ所に砲台を築き磐城平城への進行を防ごうとしたのですが、見張り番の盲点を突かれて、完全に戦況不利に陥ってしまいました。
矢田川・藤原川の合流地点の付近には二ツ橋があり、『二ツ橋の戦い』として知られていますが、ここでは最初は奥羽越列藩同盟は戦いを有利に進めていたのですが、山上より新政府軍からの連続砲撃に遭ってしまい、已む無く撤退を余儀なくされてしまいました。
《現在の二ツ橋だが、木橋だった頃の昔には歴史があった》
今日のサイクリングは矢田川の土手上を走っていて、結果、古(いにしえ)の戊辰戦場跡を巡っているような感覚になってしまったのでした。
でも、矢田川の土手を爽快な気分でペダルを踏んで走れたのは楽しかったです。
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