分類:歴
いわき近代医学の事始め展
いわき市暮らしの伝承郷
いわき市鹿島町下矢田字散野14-16
電話 0246-29-2230
いわき市暮らしの伝承郷では9月6日から始まった 「いわき近代医学の事始め展」 を10月27日(月)まで開いていて、江戸時代に西洋医学がどのように 「いわき」 に伝えられたかを、主に同館の収蔵品によって詳しく展示紹介している。
《フロア奥にある企画展入口》
今回の企画展は、幕末の戊辰戦争により、いわき(磐城)に設置された 『奥羽出張病院』 について取り上げ当時、新政府軍と奥羽越列藩同盟に加わっていた藩の間で熾烈な戦闘が繰り広げられ、両陣営に多数の戦死者・負傷者が出た後に開設された救護所の資料の展示と、医学書18種類(うち、医者の教育のために取り寄せたとされる墨書と印入りの1冊を含む)を公開している。
また、戊辰戦争の資料や同戦争に使用された砲弾なども展示されている。
《いわきに設置された「奥羽出張病院」についての詳細が学べる》
慶応3(1867)年12月9日、王政復古令とその後の討幕派の政策は旧幕府側の反抗を誘発し、鳥羽伏見の戦いを始めとして慶応4(1868)年、朝廷は奥羽地方征伐のため、鎮撫軍は陸路の混乱を避けて海路東征を図り平潟港(茨城県)に上った。
磐城三藩も海岸線の無防備を懸念して、仙台藩に援兵を頼み300名ほどの兵が送り込まれ、その内の80名ほどを平潟へ配置したが次々と上陸する西軍の兵力に圧倒され、銃口も開けずに関田村(茨城県)へ退却してしまう。
そのような状況の中で6月17日、磐城における戊辰戦争の幕開けとなった。
当、鹿島地域内でも平城の進撃を防ぐために七本松(走熊)、鹿島神社(上矢田)、軍次山(くうじやま)に砲台を据えて応戦に備えるが、薩摩藩の巧妙な作戦によって仙台、平藩の兵たちは戦死・負傷・敗走の憂き目に遭い、この地でも多数の犠牲者を出した。
鹿島に於ける 「戊辰戦争」 の関連性を要約してみたが、開催中の 「いわき近代医学の事始め展」 は、そういう意味から言っても鹿島に居住している小生にとっては大いに関心があった。
いわき近代医学の事始め展
いわき市暮らしの伝承郷
いわき市鹿島町下矢田字散野14-16
電話 0246-29-2230
いわき市暮らしの伝承郷では9月6日から始まった 「いわき近代医学の事始め展」 を10月27日(月)まで開いていて、江戸時代に西洋医学がどのように 「いわき」 に伝えられたかを、主に同館の収蔵品によって詳しく展示紹介している。
《フロア奥にある企画展入口》
今回の企画展は、幕末の戊辰戦争により、いわき(磐城)に設置された 『奥羽出張病院』 について取り上げ当時、新政府軍と奥羽越列藩同盟に加わっていた藩の間で熾烈な戦闘が繰り広げられ、両陣営に多数の戦死者・負傷者が出た後に開設された救護所の資料の展示と、医学書18種類(うち、医者の教育のために取り寄せたとされる墨書と印入りの1冊を含む)を公開している。
また、戊辰戦争の資料や同戦争に使用された砲弾なども展示されている。
《いわきに設置された「奥羽出張病院」についての詳細が学べる》
慶応3(1867)年12月9日、王政復古令とその後の討幕派の政策は旧幕府側の反抗を誘発し、鳥羽伏見の戦いを始めとして慶応4(1868)年、朝廷は奥羽地方征伐のため、鎮撫軍は陸路の混乱を避けて海路東征を図り平潟港(茨城県)に上った。
磐城三藩も海岸線の無防備を懸念して、仙台藩に援兵を頼み300名ほどの兵が送り込まれ、その内の80名ほどを平潟へ配置したが次々と上陸する西軍の兵力に圧倒され、銃口も開けずに関田村(茨城県)へ退却してしまう。
そのような状況の中で6月17日、磐城における戊辰戦争の幕開けとなった。
当、鹿島地域内でも平城の進撃を防ぐために七本松(走熊)、鹿島神社(上矢田)、軍次山(くうじやま)に砲台を据えて応戦に備えるが、薩摩藩の巧妙な作戦によって仙台、平藩の兵たちは戦死・負傷・敗走の憂き目に遭い、この地でも多数の犠牲者を出した。
鹿島に於ける 「戊辰戦争」 の関連性を要約してみたが、開催中の 「いわき近代医学の事始め展」 は、そういう意味から言っても鹿島に居住している小生にとっては大いに関心があった。