《旧・鹿島街道の中心だった農協付近》
幼い頃に覚えたことや思い出は、その良し悪しは別にして、いつまでも強烈に残っています。
一見、何の変哲もない現在の写真を手にして、ジッと見つめていると次第に見えない風景や建物がその中に重複して表れてくるものです。
舗装のされていない砂利道をバスが砂埃を上げてきます。
床屋の先が「農協前」というバス停で、名前の通り鹿島農協があって村全体の農作物や肥料を一手に取り扱っていました。
稲刈り時が過ぎて供出米が運び込まれる頃を迎えると、この界隈は一気に賑わいました。
私は、農協倉庫の前にあるプラタナスの枯れた大きな古木の枝に登って、父親の帰りをいつも待っていました。
父は国鉄(現・JR)の小荷物室に務めていたので新聞屋さんや、映写技師さんたちと懇意になるらしく新聞と映画招待券には不自由しなかったのです。
新聞は何故か「河北新報」が定番で、そこに一般紙と磐城の地元紙が無差別に混じっていました。
今思うと家で待っていても同じことなのに子供心からして、きっと待ちきれなかったのでしょうね。
昭和30年前後といえばまだ活字に飢えていた時代でしたし、その頃、子供が毎週映画を観ることが出来るということは贅沢だったと思います。
ナンシー梅木の「さよなら」、早川雪洲の「戦場に架ける橋」、パスカルオードレの「河は呼んでる」、ピェトロジェルミの「鉄道員」等など、映画は私を別世界へ連れて行ってくれる招待券そのものでした。
この裏道(旧、鹿島街道)を通ると今にもボンネットバスが現れて、私を載せて平まで行ってくれるような錯覚を起こさせます。
本日の催し物 6月12日(金)
◆やさしい古典パートⅢ小倉百人一首 10:00~
於・鹿島公民館
幼い頃に覚えたことや思い出は、その良し悪しは別にして、いつまでも強烈に残っています。
一見、何の変哲もない現在の写真を手にして、ジッと見つめていると次第に見えない風景や建物がその中に重複して表れてくるものです。
舗装のされていない砂利道をバスが砂埃を上げてきます。
床屋の先が「農協前」というバス停で、名前の通り鹿島農協があって村全体の農作物や肥料を一手に取り扱っていました。
稲刈り時が過ぎて供出米が運び込まれる頃を迎えると、この界隈は一気に賑わいました。
私は、農協倉庫の前にあるプラタナスの枯れた大きな古木の枝に登って、父親の帰りをいつも待っていました。
父は国鉄(現・JR)の小荷物室に務めていたので新聞屋さんや、映写技師さんたちと懇意になるらしく新聞と映画招待券には不自由しなかったのです。
新聞は何故か「河北新報」が定番で、そこに一般紙と磐城の地元紙が無差別に混じっていました。
今思うと家で待っていても同じことなのに子供心からして、きっと待ちきれなかったのでしょうね。
昭和30年前後といえばまだ活字に飢えていた時代でしたし、その頃、子供が毎週映画を観ることが出来るということは贅沢だったと思います。
ナンシー梅木の「さよなら」、早川雪洲の「戦場に架ける橋」、パスカルオードレの「河は呼んでる」、ピェトロジェルミの「鉄道員」等など、映画は私を別世界へ連れて行ってくれる招待券そのものでした。
この裏道(旧、鹿島街道)を通ると今にもボンネットバスが現れて、私を載せて平まで行ってくれるような錯覚を起こさせます。
本日の催し物 6月12日(金)
◆やさしい古典パートⅢ小倉百人一首 10:00~
於・鹿島公民館