超不定期連載になりそうな過去の記憶シリーズ第2回です。
先日の13日日曜日はジャンボ鶴田の13回忌でした。亡くなってから12年。
ジャンボ鶴田の息子さんがtwitterでいろいろつぶやいたり、映像画像紹介されたりしてましたね。
プロレスとは距離を置いて、関係のない生活をされているようですが、
ジャンボ鶴田の息子であることはかなり意識されたツイートが目に付きました。
そのジャンボ鶴田こそが、私をプロレスに引き込んだと言えるでしょう。
プロレス、というものを初めて意識したのが小学3年。
それまでは全く触れる機会もなく、見る・観にいく機会もなく。
しかし、自分をプロレスに引き込んだのは、
当時秋田で水曜か木曜の夕方に放送してた、全日本プロレス中継。
そして、漫画『キン肉マン』でした。
プロレス中継とキン肉マン、どっちが先か定かではありませんが、
漫画でやってることをテレビでやってる!
テレビで見たものがマンガでもやってる!
って思ったのでしょうね。相乗効果でしょうか、私はプロレスが好きになりました。
テレビの画面にいたのはジャンボ鶴田でした。
1984、5、6年あたりですから、ジャンボをエースとして売り出していた時期です。
意外なほど試合は覚えていないのですが、
やはりNWA王座をリック・フレアーと架けて戦った試合が印象深いですね。
世界最高峰のNWAに鶴田は手が届いていない。
王者フレアーはなかなか来日しないからチャンスだ。
しかし試合では足4の字に苦しんで、NWA戴冠は果たせず。
そこの辺りはよく覚えています。
日テレで1985年でしたかゴールデン復帰のあたりで自分の「初期」プロレス熱は最高潮に達します。
特にザ・ロードウオーリアーズには心底震え、スタン・ハンセンには本当に鶴田が殺されると思ったし。
いつだったか、交通事故で腕を負傷した鶴田をハンセンが腕を攻めるシーンがありました。
ロードウオーリアーズは国技館で鶴田・天龍組と3本勝負、放送終了間際で反則勝ち、ってあったなあ。
しかし、秋田では(全国でも?)土曜19時の放送はあっさり終わり、
いつしか私のプロレス熱は冷め、ジャンボ鶴田の全盛時はある試合を最後に見ることがなくなります。
ある試合とはもちろん、鶴田vs長州力@大阪城ホール。
60分フルタイムの試合でしたが、テレビは中継時間内に終わらず。
見るときに本当に心躍らせた試合でした。「エース対決」という字幕を今でも覚えています。
そして時は流れて1990年代に入り、プロレスも深夜放送になり、
自分は全く意識をしていない時期でしたが、中学のクラスの連中が「三沢はすごい」「菊地弱え~」
とか話していました。ああ、今はそういうのが主役なんだと感じ、
高校生になるとある程度の夜更かしは認められ、日曜深夜の全日本プロレス中継を見るようになりました。
今でも忘れません。
プロレスファン復帰第一試合は、全日本創立20周年記念メインイベント、
三沢光晴-川田利明、日本武道館でした。
さて、ここからはまた箇条書きで幼少時を中心にプロレスとの関係を書いて終わりにします。
・プロレスに興味を持って初めて買ったプロレス関係の本が、「プロレスラー100名鑑」とかいう名前の名鑑本。
古本屋あたりで見つけたはず。国内海外の現役レスラーを網羅。デビュー直後の三沢の名前も。
あれで、プロレス好きが決定づけられた。
・1985年の最強タッグの結果が書いてある『ゴング』が専門誌購入の最初。まあ、次まで7年ぐらい間があくけど。
最終戦で長州&谷津vsハンセン&デビアスが引き分けるやつ。書店で母親に頼んで買ってもらったが、
母親が一応内容のチェックをしたのを覚えている。
・私が住んでいた秋田は1992年までテレビ朝日がなく、プロレスは原則全日本のみ。
だから新日本が好きとか嫌い以前に触れる機会がなかった。全日本、全日本系を好きになったのはそういう理由。
年に1回くらいは新日本の放送もどっかでやっていたような…で、藤波&木村組を見たのが新日本初体験。
テレ朝の放送が始まって、最初ぐらいに見たのがムタ-馳。あれは全日本ではできない名勝負。
・全日本中継で見てた中でかすかに覚えているのが、ブロディのキングコング・ニードロップで、
マリオ・ミラノ(ザ・バラクーダ)が動けなくなってしまったこと。ミラノコールが場内に。
あとハンセンがテリーかドリーの首にロープをかけ、パートナーの誰かとリング中央で引っ張ったシーン。
ロープは結ばれてはいないが、首にかけて2方向から引っ張る残虐シーン。しかしそれを救出にテリーかドリーが!!
・日本人選手では誰かな…馬場はあまり覚えてない。むしろ谷津、石川敬士、大熊元司とかの記憶がある。
一番覚えているのは他でもない。アニマル浜口のベストバウトを言われる、全日本vsジャパン5vs5の鶴田vs浜口。
圧倒的な差のある鶴田に果敢に挑む浜口、その意気に感激し、完敗の結末も試合後万感の「負けたあ~!」。
・小学校の頃はプロレスごっこ、というより足4の字やボストンクラブをかけたり、かけられたり。
従兄弟のお兄さんの家に遊びに行って、足4の字をかけられて(実際痛かったのだが)従兄弟の母つまり伯母さんが、
今でもその時の話をする。
・私は名前がシンスケなので「タイガー・ジェット・シンスケ」とかよく言われた。
・家の自分の寝室で一人プロレスごっごをしていた。
・近所の友達に外で遊んでいるときにパイルドライバーをかけられ、頭を打って痛いと走り回った記憶がある。
高校生以降の話は「過去の記憶」と呼ぶには近いのでやめておきます。
プロレスがなければ今の自分はないでしょう。それは間違いありません。
小さい頃は純粋にプロレスが好きだった。
今はプロレスは好きだけど、少し斜めから見たりしていると思います。
先日の13日日曜日はジャンボ鶴田の13回忌でした。亡くなってから12年。
ジャンボ鶴田の息子さんがtwitterでいろいろつぶやいたり、映像画像紹介されたりしてましたね。
プロレスとは距離を置いて、関係のない生活をされているようですが、
ジャンボ鶴田の息子であることはかなり意識されたツイートが目に付きました。
そのジャンボ鶴田こそが、私をプロレスに引き込んだと言えるでしょう。
プロレス、というものを初めて意識したのが小学3年。
それまでは全く触れる機会もなく、見る・観にいく機会もなく。
しかし、自分をプロレスに引き込んだのは、
当時秋田で水曜か木曜の夕方に放送してた、全日本プロレス中継。
そして、漫画『キン肉マン』でした。
プロレス中継とキン肉マン、どっちが先か定かではありませんが、
漫画でやってることをテレビでやってる!
テレビで見たものがマンガでもやってる!
って思ったのでしょうね。相乗効果でしょうか、私はプロレスが好きになりました。
テレビの画面にいたのはジャンボ鶴田でした。
1984、5、6年あたりですから、ジャンボをエースとして売り出していた時期です。
意外なほど試合は覚えていないのですが、
やはりNWA王座をリック・フレアーと架けて戦った試合が印象深いですね。
世界最高峰のNWAに鶴田は手が届いていない。
王者フレアーはなかなか来日しないからチャンスだ。
しかし試合では足4の字に苦しんで、NWA戴冠は果たせず。
そこの辺りはよく覚えています。
日テレで1985年でしたかゴールデン復帰のあたりで自分の「初期」プロレス熱は最高潮に達します。
特にザ・ロードウオーリアーズには心底震え、スタン・ハンセンには本当に鶴田が殺されると思ったし。
いつだったか、交通事故で腕を負傷した鶴田をハンセンが腕を攻めるシーンがありました。
ロードウオーリアーズは国技館で鶴田・天龍組と3本勝負、放送終了間際で反則勝ち、ってあったなあ。
しかし、秋田では(全国でも?)土曜19時の放送はあっさり終わり、
いつしか私のプロレス熱は冷め、ジャンボ鶴田の全盛時はある試合を最後に見ることがなくなります。
ある試合とはもちろん、鶴田vs長州力@大阪城ホール。
60分フルタイムの試合でしたが、テレビは中継時間内に終わらず。
見るときに本当に心躍らせた試合でした。「エース対決」という字幕を今でも覚えています。
そして時は流れて1990年代に入り、プロレスも深夜放送になり、
自分は全く意識をしていない時期でしたが、中学のクラスの連中が「三沢はすごい」「菊地弱え~」
とか話していました。ああ、今はそういうのが主役なんだと感じ、
高校生になるとある程度の夜更かしは認められ、日曜深夜の全日本プロレス中継を見るようになりました。
今でも忘れません。
プロレスファン復帰第一試合は、全日本創立20周年記念メインイベント、
三沢光晴-川田利明、日本武道館でした。
さて、ここからはまた箇条書きで幼少時を中心にプロレスとの関係を書いて終わりにします。
・プロレスに興味を持って初めて買ったプロレス関係の本が、「プロレスラー100名鑑」とかいう名前の名鑑本。
古本屋あたりで見つけたはず。国内海外の現役レスラーを網羅。デビュー直後の三沢の名前も。
あれで、プロレス好きが決定づけられた。
・1985年の最強タッグの結果が書いてある『ゴング』が専門誌購入の最初。まあ、次まで7年ぐらい間があくけど。
最終戦で長州&谷津vsハンセン&デビアスが引き分けるやつ。書店で母親に頼んで買ってもらったが、
母親が一応内容のチェックをしたのを覚えている。
・私が住んでいた秋田は1992年までテレビ朝日がなく、プロレスは原則全日本のみ。
だから新日本が好きとか嫌い以前に触れる機会がなかった。全日本、全日本系を好きになったのはそういう理由。
年に1回くらいは新日本の放送もどっかでやっていたような…で、藤波&木村組を見たのが新日本初体験。
テレ朝の放送が始まって、最初ぐらいに見たのがムタ-馳。あれは全日本ではできない名勝負。
・全日本中継で見てた中でかすかに覚えているのが、ブロディのキングコング・ニードロップで、
マリオ・ミラノ(ザ・バラクーダ)が動けなくなってしまったこと。ミラノコールが場内に。
あとハンセンがテリーかドリーの首にロープをかけ、パートナーの誰かとリング中央で引っ張ったシーン。
ロープは結ばれてはいないが、首にかけて2方向から引っ張る残虐シーン。しかしそれを救出にテリーかドリーが!!
・日本人選手では誰かな…馬場はあまり覚えてない。むしろ谷津、石川敬士、大熊元司とかの記憶がある。
一番覚えているのは他でもない。アニマル浜口のベストバウトを言われる、全日本vsジャパン5vs5の鶴田vs浜口。
圧倒的な差のある鶴田に果敢に挑む浜口、その意気に感激し、完敗の結末も試合後万感の「負けたあ~!」。
・小学校の頃はプロレスごっこ、というより足4の字やボストンクラブをかけたり、かけられたり。
従兄弟のお兄さんの家に遊びに行って、足4の字をかけられて(実際痛かったのだが)従兄弟の母つまり伯母さんが、
今でもその時の話をする。
・私は名前がシンスケなので「タイガー・ジェット・シンスケ」とかよく言われた。
・家の自分の寝室で一人プロレスごっごをしていた。
・近所の友達に外で遊んでいるときにパイルドライバーをかけられ、頭を打って痛いと走り回った記憶がある。
高校生以降の話は「過去の記憶」と呼ぶには近いのでやめておきます。
プロレスがなければ今の自分はないでしょう。それは間違いありません。
小さい頃は純粋にプロレスが好きだった。
今はプロレスは好きだけど、少し斜めから見たりしていると思います。