デラシネ(deracine)

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過去の記憶シリーズ(3)「雪」

2015-02-26 20:21:12 | 過去の記憶
実に3年ぶりに再開(笑)過去の記憶シリーズ。今回のテーマは雪。

今年、実家のある秋田県鹿角市は平年の2.6倍の雪が降ったらしいと親と電話で話した時に教えてもらった。
秋田内陸で青森・岩手にも近いところであるが、実は雪国の割には降雪量はそんなでもない。
秋田県南部、青森県東部、新潟、山形、あたりの豪雪地帯に比べれば楽なほうであると思う。

雪が降るとその地域では雪よせに多大な労力が使われる。基本的にお金になる作業ではないが時間はかかるため、
この雪よせが雪国にとっては特に経済の面で大きな足枷になっていると思う。
道路の除雪費用も多額になるが全く何かを生み出す作業ではない。(除雪を請け負う業者は多少潤うのだろうが)
また屋根の雪は下ろさないと家がつぶれる可能性があり、疎かにはできない。

それはさておき、雪と生きるのは雪国の宿命である。
雪がないところに住みたい、スキー場にだけ降ればいい、このあたりは雪国の人なら一冬に一度は言う愚痴というか本音であろう。
しかし冬の間は雪と共に生きている、雪に絡む思いでやエピソードは雪国の人は多いはずである。
自分の過去の雪あるいは冬にまつわる記憶を紐解いていきたいと思う。
以下、思いついたままに箇条書きします。


・小さい時はソリに乗せられて親に引かれた思い出を持ってる人も多いはず。我が家にも当然ソリがあった。
・あとミニスキー。プラスチック製で、長靴などを履いた上で靴の下に装着する形。
 これで斜面を滑る。幼児向けの、雪で遊ぶ時の必須アイテムだった。
・実家の庭に親が雪を積み上げて斜面を作り、そこでミニスキーで滑って遊んでいた記憶がある。
・幼稚園に雪の中通うと竹ほうきで先生が雪を払ってくれた。
・幼稚園では冬は持参した弁当のご飯(アルミ容器)を専用の機械?で温めて食べていた。
・幼児は雪よせでは戦力にはならないけど、おそらく多くの家庭で、子供用のプラスチック製のスコップを持っていたはず。我が家にもあった。
・親が大きなスノーダンプを使って雪よせしているのを見て親をカッコいいと思ったものである。

・夜中3時や4時に除雪車(実家のほうではブルドーザーの「ブル」と言う)がやってくるが、必ず目を覚ます上、子供の頃は除雪車が怖かった。
 特に3、4歳くらいの頃、母親と歩いていてある十字路に差し掛かった時、
 自分が歩いてきた方向以外の3方向から除雪車がやってきて怖くて泣き出したことがある。
・ちなみに今はむしろ除雪車が好きで、夜中に来ると起きて見るくらい。

・ちなみに雪よせにも一定の技術というかコツはあると思う。隣に雪のない所から引っ越してきた人が寄せてるのを見て、下手だと思った。
・「雪よせ」は他に「雪かき」と言う場合もあるが、父親は時折「雪とりけ」という言葉を使っていた。方言なのだろう。
・雪だるまはそんなに作らなかったかなあ。
・雪合戦もそんなにやらなかったというか、雪を丸めて投げるのが当たり前過ぎて。
・というか雪が降ると雪で、雪の上で遊ぶのが当たり前だったので、何をしたかってあまり覚えてなかったり。
・長靴や冬用の靴には滑り止めの金具がついた「スパイクシューズ」を履いていた。流行ったが今はどうなんだろう。
・防寒服として「アノラック」を着るが、石油ストーブにつけてしまって一部溶けるのは毎年のことだった。


以下小学校。
・学校帰りにどっかの軒下からつららを取ってチャンバラ(すぐ折れる)、なめる(腹こわす)ってのはよくやった。
・小学校のグラウンドが、校舎のある土地よりも結構低い位置にあり、除雪車は校舎側から下のグラウンドへ雪を捨てていた。
 その捨てた雪で、雪の滑り台ができ、そこでさんざん遊んだものである。
・家の前は畑だったので、一面の雪の世界が広がっていた。スキーで走り回ったものである。
 ただし圧雪されているわけでもないので、雪の中を漕ぐ感じ。

・小学校も高学年になると「スノトレ」(スノートレーニングシューズ)と呼ばれる冬用のスポーツシューズ?を履く。
・小学校2年生の時か、学校で雪上相撲大会みたいなのがあった。
・5,6年生はスキー部でクロスカントリー(ノルディックの距離部門)の選手だった。中学校1年の時も。
・しかし小6の冬は記録的な暖冬でスキー場に雪はあっても道路には雪がない状態だった。
・練習では一度褒められた。技術や体力ではなく、「練習内容に文句を言わない」ってものだった(笑)
・冬休みは毎日荷物を背負って自宅とスキー場の間を歩いて通った。片道1時間ぐらいかかる。

・小6の冬は上記の通り暖冬だったのだが、1989年1月7日は極寒だった。
 その日、部活に向かうため家を出た直後、昭和天皇の崩御が発表された。
 スキー場にある部室に着いてから、そのニュースを見た人から崩御を知らされた。
・小学校の卒業式は雪が舞っていたような。3月だけど寒い日だったと思う。
・自分が大きくなった、のもあるかもしれないが雪はその1988-89年の暖冬以降、すごく減ったように思う。
 小さい頃のような雪の降り方はもうしていない、と思ったが・・・

中学校以降
・中学は自宅からやや離れたところにあったので自転車で通学。しかし冬は雪のため歩き。片道30分。
・いつもそうだけど、吹雪の中を歩くと、必ず自分に向かい風が吹いているように感じる。
・中学校1年の時もスキー部だったが、思い出がいろいろあり過ぎて書ききれない。
・一番は全国中学校スキー大会が1年生の時に地元であって、その大会のスローガンを考えて採用されたこと。
・高校も自転車は冬使えないので、自宅と最寄駅の間は歩きか車。車での送迎は結構多くの家庭でやっていた。
・高校3年間は汽車通学だったが、それほど雪の影響を受けた記憶がない。1度だけ雪で動かなかったことがあったけど。

・1995年1月のセンター試験を秋田市に受けに行った時が記録的な大雪で、帰りの電車が雪でしばらく止まった。
・その後スキーは学校のスキー教室を別とすればほとんどやらなくなる。
 2002年ぐらいか、友人と長野の北志賀竜王、2004年に安比高原に行ったくらいだと思う。
・大学に入り地元を出ると雪の影響は少なくなった。福島に4年間いたが、寒い所だけど雪は多くなかった。
・東京もしかり。雪の影響はあっても年に1度ぐらい。
・出張は多かったので雪の影響受けたことも稀にあった。2005年2月頃かな、当時東北新幹線の終点だった八戸から青森へ向かうのに、
 いつもは特急を使うのがその日の猛吹雪で特急が運休。しかも夜遅くの青森入り、結局鈍行で深夜に到着。しかも体調が猛烈に悪い頃だった。
・その時の青森は凄まじい雪で歩道から車道がロクに見えないものだった。

・一度東京から実家に戻った2005-06年の冬は正月まで大雪で山のように雪よせをした。
・2011年1月に大阪行った時に、関西が極寒の上に帰る夜に雪になり、京都から乗る夜行バスが運転できないか大幅に遅れる見込みの事態発生。
 京都駅前で降り続く雪眺めて、結局バスを回避して翌日の新幹線で帰宅。
・その新幹線も雪の影響で結構遅れた。

・あと、雪が最も遅く降ったのは小さい頃5月半ばに降ったのを見た記憶がある。
・ちなみに、雪が一番多く降る時は、外で音がしない。音がしない夜は大抵大雪になっている。

他にもいろいろあったと思うけど、長くなったのでこれくらいで。
以上、雪にまつわる思い出でした。

過去の記憶シリーズ(2)「プロレス」

2012-05-15 21:30:04 | 過去の記憶
超不定期連載になりそうな過去の記憶シリーズ第2回です。

先日の13日日曜日はジャンボ鶴田の13回忌でした。亡くなってから12年。
ジャンボ鶴田の息子さんがtwitterでいろいろつぶやいたり、映像画像紹介されたりしてましたね。
プロレスとは距離を置いて、関係のない生活をされているようですが、
ジャンボ鶴田の息子であることはかなり意識されたツイートが目に付きました。

そのジャンボ鶴田こそが、私をプロレスに引き込んだと言えるでしょう。

プロレス、というものを初めて意識したのが小学3年。
それまでは全く触れる機会もなく、見る・観にいく機会もなく。
しかし、自分をプロレスに引き込んだのは、
当時秋田で水曜か木曜の夕方に放送してた、全日本プロレス中継。
そして、漫画『キン肉マン』でした。

プロレス中継とキン肉マン、どっちが先か定かではありませんが、
漫画でやってることをテレビでやってる!
テレビで見たものがマンガでもやってる!
って思ったのでしょうね。相乗効果でしょうか、私はプロレスが好きになりました。


テレビの画面にいたのはジャンボ鶴田でした。
1984、5、6年あたりですから、ジャンボをエースとして売り出していた時期です。
意外なほど試合は覚えていないのですが、
やはりNWA王座をリック・フレアーと架けて戦った試合が印象深いですね。
世界最高峰のNWAに鶴田は手が届いていない。
王者フレアーはなかなか来日しないからチャンスだ。
しかし試合では足4の字に苦しんで、NWA戴冠は果たせず。
そこの辺りはよく覚えています。

日テレで1985年でしたかゴールデン復帰のあたりで自分の「初期」プロレス熱は最高潮に達します。
特にザ・ロードウオーリアーズには心底震え、スタン・ハンセンには本当に鶴田が殺されると思ったし。
いつだったか、交通事故で腕を負傷した鶴田をハンセンが腕を攻めるシーンがありました。
ロードウオーリアーズは国技館で鶴田・天龍組と3本勝負、放送終了間際で反則勝ち、ってあったなあ。
しかし、秋田では(全国でも?)土曜19時の放送はあっさり終わり、
いつしか私のプロレス熱は冷め、ジャンボ鶴田の全盛時はある試合を最後に見ることがなくなります。

ある試合とはもちろん、鶴田vs長州力@大阪城ホール。
60分フルタイムの試合でしたが、テレビは中継時間内に終わらず。
見るときに本当に心躍らせた試合でした。「エース対決」という字幕を今でも覚えています。


そして時は流れて1990年代に入り、プロレスも深夜放送になり、
自分は全く意識をしていない時期でしたが、中学のクラスの連中が「三沢はすごい」「菊地弱え~」
とか話していました。ああ、今はそういうのが主役なんだと感じ、
高校生になるとある程度の夜更かしは認められ、日曜深夜の全日本プロレス中継を見るようになりました。

今でも忘れません。
プロレスファン復帰第一試合は、全日本創立20周年記念メインイベント、
三沢光晴-川田利明、日本武道館でした。


さて、ここからはまた箇条書きで幼少時を中心にプロレスとの関係を書いて終わりにします。

・プロレスに興味を持って初めて買ったプロレス関係の本が、「プロレスラー100名鑑」とかいう名前の名鑑本。
古本屋あたりで見つけたはず。国内海外の現役レスラーを網羅。デビュー直後の三沢の名前も。
あれで、プロレス好きが決定づけられた。


・1985年の最強タッグの結果が書いてある『ゴング』が専門誌購入の最初。まあ、次まで7年ぐらい間があくけど。
最終戦で長州&谷津vsハンセン&デビアスが引き分けるやつ。書店で母親に頼んで買ってもらったが、
母親が一応内容のチェックをしたのを覚えている。


・私が住んでいた秋田は1992年までテレビ朝日がなく、プロレスは原則全日本のみ。
だから新日本が好きとか嫌い以前に触れる機会がなかった。全日本、全日本系を好きになったのはそういう理由。
年に1回くらいは新日本の放送もどっかでやっていたような…で、藤波&木村組を見たのが新日本初体験。
テレ朝の放送が始まって、最初ぐらいに見たのがムタ-馳。あれは全日本ではできない名勝負。


・全日本中継で見てた中でかすかに覚えているのが、ブロディのキングコング・ニードロップで、
マリオ・ミラノ(ザ・バラクーダ)が動けなくなってしまったこと。ミラノコールが場内に。
あとハンセンがテリーかドリーの首にロープをかけ、パートナーの誰かとリング中央で引っ張ったシーン。
ロープは結ばれてはいないが、首にかけて2方向から引っ張る残虐シーン。しかしそれを救出にテリーかドリーが!!


・日本人選手では誰かな…馬場はあまり覚えてない。むしろ谷津、石川敬士、大熊元司とかの記憶がある。
一番覚えているのは他でもない。アニマル浜口のベストバウトを言われる、全日本vsジャパン5vs5の鶴田vs浜口。
圧倒的な差のある鶴田に果敢に挑む浜口、その意気に感激し、完敗の結末も試合後万感の「負けたあ~!」。


・小学校の頃はプロレスごっこ、というより足4の字やボストンクラブをかけたり、かけられたり。
従兄弟のお兄さんの家に遊びに行って、足4の字をかけられて(実際痛かったのだが)従兄弟の母つまり伯母さんが、
今でもその時の話をする。


・私は名前がシンスケなので「タイガー・ジェット・シンスケ」とかよく言われた。
・家の自分の寝室で一人プロレスごっごをしていた。
・近所の友達に外で遊んでいるときにパイルドライバーをかけられ、頭を打って痛いと走り回った記憶がある。


高校生以降の話は「過去の記憶」と呼ぶには近いのでやめておきます。
プロレスがなければ今の自分はないでしょう。それは間違いありません。
小さい頃は純粋にプロレスが好きだった。
今はプロレスは好きだけど、少し斜めから見たりしていると思います。

過去の記憶シリーズ(1)「野球」

2012-04-22 00:17:14 | 過去の記憶
ふつうの人より記憶力には自信があると勝手に思ってる自分だが、
年齢もここまで来ると忘れてしまうことも多い。

どうにかして過去のいろいろな記憶を残せないかと思っているが、
できるだけブログに書き残しておくことぐらいしかできないものも多い。
だから今後はそれを少しずつやっていきます。

書き方は例えば「野球」「食べ物」「音楽」「鉄道」「親戚」「プロレス」とか何かキーワードを設定して、
それに沿ってざっくばらんに書いていくのが一番手っ取り早いのかなと思う。

そんな感じで今後不定期に過去の記憶シリーズを書いていこうと思います。特に小さい頃の思い出をメインに。
初回は「野球」でいきましょうか。

・自分がタイガースのファンになったのは、野球帽を買ってもらう時に、自分でタイガースのを選んだから。
洋服屋で買っってもらったが、タイガースのだけが安く売っていた(ように見えただけかも)ので、
当時家に金はないという親の教えに過剰反応していたため、それを選んだ。5歳ぐらいだったか。
また、「阪神」と自分の「シンスケ」という名前に同じ音があってさらに好きになった。

・1982年か83年に、地元の野球場(鹿角市城山球場=現・楽天イーグルスかなやまスタジアム鹿角)で、
プロ野球二軍、イースタンリーグの西武-巨人が行われ、父親と共に観戦。
西武がホームで、圧倒的に巨人ファンが多いのに巨人のグッズが売ってない事態に。
試合で覚えているのは巨人の先発がなんとあの槙原。球がとにかく速かった。てかプロ選手見たのはそれが初。
試合は2-2の引き分け。その他については全く選手も含めて覚えていない。父親と2人、という点では野球観戦はそれが最初で最後。
おそらくその後同地では二軍戦ですら行われていないような気が…

・小さい頃はよく自宅玄関前の庭で、石ころを並べてホームと一~三塁、ファウルラインを作って、
家の壁に向かってボールを投げていた。なぜかアンダースローで。タイガースにいた巨大メガネの大町とかのマネで。

・小学校1年あたりの夏のラジオ体操の後、町内対抗野球のための練習を上級生がやるのについていたが、
5年生ぐらいの野球部に入ってるある先輩か少し野球の基本を教えてもらった。
しかも、その時「相互キャッチボール」、つまりボールだけを持ち、お互いにトスのような形で投げ合ってすぐ取る、
っていうもの。あれは何だったのだろう。

・野球中継はよく見ていたが、小さい頃覚えているのが、町内の親睦会とかで行ったホテルで試合見てたら、
確か広島-阪神で、掛布のホームランを追いかけた広島のライトの選手がフェンスに激突してしばらく動けなかったこと。


・自分で記憶は全くないが、小さい頃自分は高校野球に影響されて「二松学舎に行く」と言っていたらしい。
おそらく1980年、1982年センバツに出た時のことだろうと思う。1982年は準優勝。
それから20数年経って、入ったわけではないが、二松学舎大学付属高校の建物はナマで見ることはできた。

・小学校では4年生から部活動ができるので野球部に入ったが、4年生は指導者もなく、適当に毎日試合するだけ。
しかもやり方にルールはなく、みんなピッチャーやりたくて取り合いになる。それで今でも思い出すと腹が立つことがあった。
小学校時代一番の怒り。もう26年前の話だが、未だにその件、自分の腹を立たせたバカは思い出す。
絶対に許さないが、今はそいつよりおそらくいろんな面で上にいると思う。そいつの家庭環境に同情の余地もあったけどね。

・タイガースの1985年の優勝は意外なほど覚えていない。バックスクリーン3連発は自分の誕生日だけど。
日本シリーズは見たような…


こんなところです。私が小学生の頃は男の子はほとんどが野球帽を被っていました。
各球団の帽子がありましたが、結構球団は満遍なく広がっていましたね。巨人が多い、とかはなかった。
ただ、南海とロッテの帽子はほとんどいなかったのでは…特に南海はあの色が(笑)

選手として試合に出た小学校・中学校の頃の話はまた改めて。