実に3年ぶりに再開(笑)過去の記憶シリーズ。今回のテーマは雪。
今年、実家のある秋田県鹿角市は平年の2.6倍の雪が降ったらしいと親と電話で話した時に教えてもらった。
秋田内陸で青森・岩手にも近いところであるが、実は雪国の割には降雪量はそんなでもない。
秋田県南部、青森県東部、新潟、山形、あたりの豪雪地帯に比べれば楽なほうであると思う。
雪が降るとその地域では雪よせに多大な労力が使われる。基本的にお金になる作業ではないが時間はかかるため、
この雪よせが雪国にとっては特に経済の面で大きな足枷になっていると思う。
道路の除雪費用も多額になるが全く何かを生み出す作業ではない。(除雪を請け負う業者は多少潤うのだろうが)
また屋根の雪は下ろさないと家がつぶれる可能性があり、疎かにはできない。
それはさておき、雪と生きるのは雪国の宿命である。
雪がないところに住みたい、スキー場にだけ降ればいい、このあたりは雪国の人なら一冬に一度は言う愚痴というか本音であろう。
しかし冬の間は雪と共に生きている、雪に絡む思いでやエピソードは雪国の人は多いはずである。
自分の過去の雪あるいは冬にまつわる記憶を紐解いていきたいと思う。
以下、思いついたままに箇条書きします。
・小さい時はソリに乗せられて親に引かれた思い出を持ってる人も多いはず。我が家にも当然ソリがあった。
・あとミニスキー。プラスチック製で、長靴などを履いた上で靴の下に装着する形。
これで斜面を滑る。幼児向けの、雪で遊ぶ時の必須アイテムだった。
・実家の庭に親が雪を積み上げて斜面を作り、そこでミニスキーで滑って遊んでいた記憶がある。
・幼稚園に雪の中通うと竹ほうきで先生が雪を払ってくれた。
・幼稚園では冬は持参した弁当のご飯(アルミ容器)を専用の機械?で温めて食べていた。
・幼児は雪よせでは戦力にはならないけど、おそらく多くの家庭で、子供用のプラスチック製のスコップを持っていたはず。我が家にもあった。
・親が大きなスノーダンプを使って雪よせしているのを見て親をカッコいいと思ったものである。
・夜中3時や4時に除雪車(実家のほうではブルドーザーの「ブル」と言う)がやってくるが、必ず目を覚ます上、子供の頃は除雪車が怖かった。
特に3、4歳くらいの頃、母親と歩いていてある十字路に差し掛かった時、
自分が歩いてきた方向以外の3方向から除雪車がやってきて怖くて泣き出したことがある。
・ちなみに今はむしろ除雪車が好きで、夜中に来ると起きて見るくらい。
・ちなみに雪よせにも一定の技術というかコツはあると思う。隣に雪のない所から引っ越してきた人が寄せてるのを見て、下手だと思った。
・「雪よせ」は他に「雪かき」と言う場合もあるが、父親は時折「雪とりけ」という言葉を使っていた。方言なのだろう。
・雪だるまはそんなに作らなかったかなあ。
・雪合戦もそんなにやらなかったというか、雪を丸めて投げるのが当たり前過ぎて。
・というか雪が降ると雪で、雪の上で遊ぶのが当たり前だったので、何をしたかってあまり覚えてなかったり。
・長靴や冬用の靴には滑り止めの金具がついた「スパイクシューズ」を履いていた。流行ったが今はどうなんだろう。
・防寒服として「アノラック」を着るが、石油ストーブにつけてしまって一部溶けるのは毎年のことだった。
以下小学校。
・学校帰りにどっかの軒下からつららを取ってチャンバラ(すぐ折れる)、なめる(腹こわす)ってのはよくやった。
・小学校のグラウンドが、校舎のある土地よりも結構低い位置にあり、除雪車は校舎側から下のグラウンドへ雪を捨てていた。
その捨てた雪で、雪の滑り台ができ、そこでさんざん遊んだものである。
・家の前は畑だったので、一面の雪の世界が広がっていた。スキーで走り回ったものである。
ただし圧雪されているわけでもないので、雪の中を漕ぐ感じ。
・小学校も高学年になると「スノトレ」(スノートレーニングシューズ)と呼ばれる冬用のスポーツシューズ?を履く。
・小学校2年生の時か、学校で雪上相撲大会みたいなのがあった。
・5,6年生はスキー部でクロスカントリー(ノルディックの距離部門)の選手だった。中学校1年の時も。
・しかし小6の冬は記録的な暖冬でスキー場に雪はあっても道路には雪がない状態だった。
・練習では一度褒められた。技術や体力ではなく、「練習内容に文句を言わない」ってものだった(笑)
・冬休みは毎日荷物を背負って自宅とスキー場の間を歩いて通った。片道1時間ぐらいかかる。
・小6の冬は上記の通り暖冬だったのだが、1989年1月7日は極寒だった。
その日、部活に向かうため家を出た直後、昭和天皇の崩御が発表された。
スキー場にある部室に着いてから、そのニュースを見た人から崩御を知らされた。
・小学校の卒業式は雪が舞っていたような。3月だけど寒い日だったと思う。
・自分が大きくなった、のもあるかもしれないが雪はその1988-89年の暖冬以降、すごく減ったように思う。
小さい頃のような雪の降り方はもうしていない、と思ったが・・・
中学校以降
・中学は自宅からやや離れたところにあったので自転車で通学。しかし冬は雪のため歩き。片道30分。
・いつもそうだけど、吹雪の中を歩くと、必ず自分に向かい風が吹いているように感じる。
・中学校1年の時もスキー部だったが、思い出がいろいろあり過ぎて書ききれない。
・一番は全国中学校スキー大会が1年生の時に地元であって、その大会のスローガンを考えて採用されたこと。
・高校も自転車は冬使えないので、自宅と最寄駅の間は歩きか車。車での送迎は結構多くの家庭でやっていた。
・高校3年間は汽車通学だったが、それほど雪の影響を受けた記憶がない。1度だけ雪で動かなかったことがあったけど。
・1995年1月のセンター試験を秋田市に受けに行った時が記録的な大雪で、帰りの電車が雪でしばらく止まった。
・その後スキーは学校のスキー教室を別とすればほとんどやらなくなる。
2002年ぐらいか、友人と長野の北志賀竜王、2004年に安比高原に行ったくらいだと思う。
・大学に入り地元を出ると雪の影響は少なくなった。福島に4年間いたが、寒い所だけど雪は多くなかった。
・東京もしかり。雪の影響はあっても年に1度ぐらい。
・出張は多かったので雪の影響受けたことも稀にあった。2005年2月頃かな、当時東北新幹線の終点だった八戸から青森へ向かうのに、
いつもは特急を使うのがその日の猛吹雪で特急が運休。しかも夜遅くの青森入り、結局鈍行で深夜に到着。しかも体調が猛烈に悪い頃だった。
・その時の青森は凄まじい雪で歩道から車道がロクに見えないものだった。
・一度東京から実家に戻った2005-06年の冬は正月まで大雪で山のように雪よせをした。
・2011年1月に大阪行った時に、関西が極寒の上に帰る夜に雪になり、京都から乗る夜行バスが運転できないか大幅に遅れる見込みの事態発生。
京都駅前で降り続く雪眺めて、結局バスを回避して翌日の新幹線で帰宅。
・その新幹線も雪の影響で結構遅れた。
・あと、雪が最も遅く降ったのは小さい頃5月半ばに降ったのを見た記憶がある。
・ちなみに、雪が一番多く降る時は、外で音がしない。音がしない夜は大抵大雪になっている。
他にもいろいろあったと思うけど、長くなったのでこれくらいで。
以上、雪にまつわる思い出でした。
今年、実家のある秋田県鹿角市は平年の2.6倍の雪が降ったらしいと親と電話で話した時に教えてもらった。
秋田内陸で青森・岩手にも近いところであるが、実は雪国の割には降雪量はそんなでもない。
秋田県南部、青森県東部、新潟、山形、あたりの豪雪地帯に比べれば楽なほうであると思う。
雪が降るとその地域では雪よせに多大な労力が使われる。基本的にお金になる作業ではないが時間はかかるため、
この雪よせが雪国にとっては特に経済の面で大きな足枷になっていると思う。
道路の除雪費用も多額になるが全く何かを生み出す作業ではない。(除雪を請け負う業者は多少潤うのだろうが)
また屋根の雪は下ろさないと家がつぶれる可能性があり、疎かにはできない。
それはさておき、雪と生きるのは雪国の宿命である。
雪がないところに住みたい、スキー場にだけ降ればいい、このあたりは雪国の人なら一冬に一度は言う愚痴というか本音であろう。
しかし冬の間は雪と共に生きている、雪に絡む思いでやエピソードは雪国の人は多いはずである。
自分の過去の雪あるいは冬にまつわる記憶を紐解いていきたいと思う。
以下、思いついたままに箇条書きします。
・小さい時はソリに乗せられて親に引かれた思い出を持ってる人も多いはず。我が家にも当然ソリがあった。
・あとミニスキー。プラスチック製で、長靴などを履いた上で靴の下に装着する形。
これで斜面を滑る。幼児向けの、雪で遊ぶ時の必須アイテムだった。
・実家の庭に親が雪を積み上げて斜面を作り、そこでミニスキーで滑って遊んでいた記憶がある。
・幼稚園に雪の中通うと竹ほうきで先生が雪を払ってくれた。
・幼稚園では冬は持参した弁当のご飯(アルミ容器)を専用の機械?で温めて食べていた。
・幼児は雪よせでは戦力にはならないけど、おそらく多くの家庭で、子供用のプラスチック製のスコップを持っていたはず。我が家にもあった。
・親が大きなスノーダンプを使って雪よせしているのを見て親をカッコいいと思ったものである。
・夜中3時や4時に除雪車(実家のほうではブルドーザーの「ブル」と言う)がやってくるが、必ず目を覚ます上、子供の頃は除雪車が怖かった。
特に3、4歳くらいの頃、母親と歩いていてある十字路に差し掛かった時、
自分が歩いてきた方向以外の3方向から除雪車がやってきて怖くて泣き出したことがある。
・ちなみに今はむしろ除雪車が好きで、夜中に来ると起きて見るくらい。
・ちなみに雪よせにも一定の技術というかコツはあると思う。隣に雪のない所から引っ越してきた人が寄せてるのを見て、下手だと思った。
・「雪よせ」は他に「雪かき」と言う場合もあるが、父親は時折「雪とりけ」という言葉を使っていた。方言なのだろう。
・雪だるまはそんなに作らなかったかなあ。
・雪合戦もそんなにやらなかったというか、雪を丸めて投げるのが当たり前過ぎて。
・というか雪が降ると雪で、雪の上で遊ぶのが当たり前だったので、何をしたかってあまり覚えてなかったり。
・長靴や冬用の靴には滑り止めの金具がついた「スパイクシューズ」を履いていた。流行ったが今はどうなんだろう。
・防寒服として「アノラック」を着るが、石油ストーブにつけてしまって一部溶けるのは毎年のことだった。
以下小学校。
・学校帰りにどっかの軒下からつららを取ってチャンバラ(すぐ折れる)、なめる(腹こわす)ってのはよくやった。
・小学校のグラウンドが、校舎のある土地よりも結構低い位置にあり、除雪車は校舎側から下のグラウンドへ雪を捨てていた。
その捨てた雪で、雪の滑り台ができ、そこでさんざん遊んだものである。
・家の前は畑だったので、一面の雪の世界が広がっていた。スキーで走り回ったものである。
ただし圧雪されているわけでもないので、雪の中を漕ぐ感じ。
・小学校も高学年になると「スノトレ」(スノートレーニングシューズ)と呼ばれる冬用のスポーツシューズ?を履く。
・小学校2年生の時か、学校で雪上相撲大会みたいなのがあった。
・5,6年生はスキー部でクロスカントリー(ノルディックの距離部門)の選手だった。中学校1年の時も。
・しかし小6の冬は記録的な暖冬でスキー場に雪はあっても道路には雪がない状態だった。
・練習では一度褒められた。技術や体力ではなく、「練習内容に文句を言わない」ってものだった(笑)
・冬休みは毎日荷物を背負って自宅とスキー場の間を歩いて通った。片道1時間ぐらいかかる。
・小6の冬は上記の通り暖冬だったのだが、1989年1月7日は極寒だった。
その日、部活に向かうため家を出た直後、昭和天皇の崩御が発表された。
スキー場にある部室に着いてから、そのニュースを見た人から崩御を知らされた。
・小学校の卒業式は雪が舞っていたような。3月だけど寒い日だったと思う。
・自分が大きくなった、のもあるかもしれないが雪はその1988-89年の暖冬以降、すごく減ったように思う。
小さい頃のような雪の降り方はもうしていない、と思ったが・・・
中学校以降
・中学は自宅からやや離れたところにあったので自転車で通学。しかし冬は雪のため歩き。片道30分。
・いつもそうだけど、吹雪の中を歩くと、必ず自分に向かい風が吹いているように感じる。
・中学校1年の時もスキー部だったが、思い出がいろいろあり過ぎて書ききれない。
・一番は全国中学校スキー大会が1年生の時に地元であって、その大会のスローガンを考えて採用されたこと。
・高校も自転車は冬使えないので、自宅と最寄駅の間は歩きか車。車での送迎は結構多くの家庭でやっていた。
・高校3年間は汽車通学だったが、それほど雪の影響を受けた記憶がない。1度だけ雪で動かなかったことがあったけど。
・1995年1月のセンター試験を秋田市に受けに行った時が記録的な大雪で、帰りの電車が雪でしばらく止まった。
・その後スキーは学校のスキー教室を別とすればほとんどやらなくなる。
2002年ぐらいか、友人と長野の北志賀竜王、2004年に安比高原に行ったくらいだと思う。
・大学に入り地元を出ると雪の影響は少なくなった。福島に4年間いたが、寒い所だけど雪は多くなかった。
・東京もしかり。雪の影響はあっても年に1度ぐらい。
・出張は多かったので雪の影響受けたことも稀にあった。2005年2月頃かな、当時東北新幹線の終点だった八戸から青森へ向かうのに、
いつもは特急を使うのがその日の猛吹雪で特急が運休。しかも夜遅くの青森入り、結局鈍行で深夜に到着。しかも体調が猛烈に悪い頃だった。
・その時の青森は凄まじい雪で歩道から車道がロクに見えないものだった。
・一度東京から実家に戻った2005-06年の冬は正月まで大雪で山のように雪よせをした。
・2011年1月に大阪行った時に、関西が極寒の上に帰る夜に雪になり、京都から乗る夜行バスが運転できないか大幅に遅れる見込みの事態発生。
京都駅前で降り続く雪眺めて、結局バスを回避して翌日の新幹線で帰宅。
・その新幹線も雪の影響で結構遅れた。
・あと、雪が最も遅く降ったのは小さい頃5月半ばに降ったのを見た記憶がある。
・ちなみに、雪が一番多く降る時は、外で音がしない。音がしない夜は大抵大雪になっている。
他にもいろいろあったと思うけど、長くなったのでこれくらいで。
以上、雪にまつわる思い出でした。