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~サッカーを中心に日々の雑感など~

吉田さんの問いかけ

2012年07月25日 | 音楽

 7月23日の「クローズアップ現代」でやっていた「”そこに自分の考えはあるか”音楽評論家・吉田秀和の遺言」…、吉田さんが亡くなられたのは5月22日だから、少し時間を置いての番組だけど、そのメッセージは心に残るものだった。

グレン・グールド(1932~1982年) 極端に低い椅子に座って、足を組み、声を出しながらピアノを弾いていく。このピアニストをどう評価すべきか。バッハの「ゴールドベルク変奏曲」はゆったり弾かれるのが一般的だったのを、まるでジャズの即興演奏のように弾くという型破りの演奏家が出現したからだ。

「楽譜の繰り返し記号をことごとく無視した、疾走するスポーツカーのような演奏」「私にはグールドという人が私たち常人に比べて、はるかに微視的感受性を持っていて、異常に鋭敏で迅速な感覚を持っているのではないかという気がしてならない。」「これだけの演奏を聴いて冷淡にいられるというのは、私に言わせれば到底考えられないことである」「私は日本のレコード批評の大勢がどうであるかとは別に、このことに関しては自分一人でも正しいと考えることを遠慮なく発表しようと決心した」と評した。

もう一つは1983年、当時78歳になっていた伝説のピアニスト、ウラディーミル・ホロヴィッツが来日して演奏した時。日本中が熱狂して一枚数万円にもなるチケットに長蛇の列が出来たそうだ。朝日新聞の音楽展望というコラムには「ホロヴィッツを聴いて」と題し、「今、私たちの目の前にいるのは『骨董』としてのホロヴィッツに他ならない。」「この芸術はかつては、無類の名品だったが、今は…もっとも控えめに言っても…ひびが入っている」「それも一つや二つのひびではない(略)忌憚なく言えば、この珍品には欠落があって完全な形を残していない」と。

TV画面の演奏している姿からは、確かに素人の耳にもミスではないかという音の違和感があったが、演奏会場では尋常ではない熱気が立ち込め、大きな拍手にスタンディングオベーションという最大級の賛辞で、この演奏家を見送る聴衆が映っていた。

今年の5月28日の朝日新聞の評伝という記事には…その後代理人が演奏テープを送ってきたが、「生演奏でなければ比較できない」と聴くのをこたわったという。そうした芸術に対する誠実さが、自らの心に対する偽りのない、洗練された言葉の源になった…という、どこまでも妥協しない吉田さんの仕事ぶり。

吉田さんのこうした姿勢の背景にはあの世界大戦があり、20代、音楽に関する翻訳の仕事から、内閣情報局という新聞・出版の検閲、戦争反対論を弾圧・統制する役割の仕事に回されたという戦争中の体験から、「私はどんな小さなことにしろ、自分の本当の仕事がしたくなったのだった。(略)そうして死が訪れた時に、ああ、自分は本当に生きていたのだという気がする。そういう生活に入りたいという願いだけがあった」。

さらに「私たち今日の日本人は『流行』に恐ろしく敏感になっている。(略)何かが流行るとだれもかれも同じことをしたがる。(略)こんな具合に流行を前にした無条件降伏主義、大勢順応主義と過敏症を、これほど正直にさらけ出している国民は珍しいのではないかと、私は思う」と。

朝日新聞の記事の中にあった評論家片山杜秀さんの言葉は印象的だ。「単なるクラシック評論ではない。民主主義は一人一人がものを考える力をつけ、対話しなければならない。そのためにはいい音楽を聴き、いい絵を見て文学を読み、教養を身に着けることが必要だと考えた。評論の主たる対象がたまたまクラシックだっただけで、戦後の批評家で例のない存在だった」。
このあたりに吉田さんの存在の大きさが伺える。音楽の分野に閉じこもるのではなく、一人の自立した市民を生み出す、その手助けにこそ音楽はあるという考え。

戦争体験からの強い反省が生み出した、残された命を何のために使うかという姿勢が、吉田さんの批評精神を後押ししたのだろうと思う。最晩年に強い絶望感に襲われたという福島原発事故、その後の再稼働という経緯を見れば、一人一人が考える力をつけるという日本人の民主主義は吉田さんが願うようなところには届いていないということだろうが、「そこに自分の考えはあるのか」という問いには、毎週金曜日夜や、全国の都市にも広がっている脱原発デモの流れが、もっともよく答えを出しているのかもしれない。



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