もみさんの一日一冊遊書録( 2011年9月1日 スタート!: メメント・モリ ) ~たゆたえど沈まず~

年とともに人生はクロノロジー(年代記)からパースペクティブ(遠近法)になり、最後は一枚のピクチュア(絵)になる

150215 衆参両院の「テロ非難決議」を非難する!「テロの本質」を真面目に語る政治家はいないのか!

 真面目に「テロの本質」を考えれば、その原因が、決して宗教の違いにあるのではなく、世界的に広がる富の偏在、極端な格差拡大、差別構造の継承、及びパレスチナ問題、それらによる<若者たちの絶望>にあることは、実は誰もがわかっていることだろう! それを「世界には凶悪なテロリストが大勢いて、こいつらを叩き潰せばテロが無くなる」なんて話に無理やりすり替えている。誰も、「テロの本質が、日本・世界の社会構造が抱える富の偏在・格差の拡大及びパレスチナ問題の<野放し状態>にこそある」という本質を語らないし、見させようとしない。そして、凶悪なテロリストへの恐怖ばかりを煽りたてている。これはまさにオーウェルの「一九八四年」の世界と同じだ。今回の国会の「テロ非難決議」に社民党・共産党まで加わっていたのには、あきれ果てた。「誰も本質を見ようとしない。」「武力で世界中の<絶望した若者たち>を封じ込めるべきではないし、不可能だ!」

秋原葉月さん「Afternoon Cafe」ブログから

※(1)「もちろん、普通の人間は戦争を望まない。しかし、国民を戦争に参加させるのは、つねに簡単なことだ。とても単純だ。国民には攻撃されつつあると言い、平和主義者を愛国心に欠けていると非難し、国を危険にさらしていると主張する以外には、何もする必要がない。この方法はどんな国でも有効だ」byヘルマン・ゲーリング ※(2)いつの時代も大衆をファシズムに煽動する手口は同じ。なのに同じ手口に何度も騙されるのは過去に学んでいないから。格差を広げ、セイフティネットを破壊し、冷徹な自己責任論が横行する社会を継続させるのは簡単だ。今よりもっと格差を広げ、セイフティネットを破壊する政策をとればよい。そうすれば人々に自己責任論がもっと浸透し、草の根から勝手に右傾化してくれる。

辺見庸さんのブログから

・権力をあまりに人格的にとらえるのはどうかとおもう。口にするのもおぞましいドブの目をしたあの男を、ヒステリックに名指しでののしれば、反権力的そぶりになるとかんがえるのは、ドブの目をしたあの男とあまり変わらない、低い知性のあらわれである。権力の空間は、じつのところ、非人格的なのだ。だからてごわい。中心はドブの目をしたあの男=安倍晋三であるかにみえて、そうではない。ドブの目をしたあの男はひとつの(倒錯的な)社会心理学的な表象ではありえても、それを斃せば事態が革命的に変化するようなシロモノではない。権力には固定的な中心はなく、かくじつに「われわれ」をふくむ周縁があるだけだ。ドブの目をしたあの男は、陋劣な知性とふるまいで「われわれ」をいらだたせ、怒らせるとともに、「われわれ」をして社会心理学的に(かれを)蔑視せしめ、またそのことにより、「われわれ」が「われわれ」であることに無意識に満足もさせているのかもしれない。ところで、「われわれ」の内面には、濃淡の差こそあれ、ドブの目をしたあの男の貧寒とした影が棲んでいるのだ。戦争は、むろん、そう遠くない。そう切実にかんじられるかどうか。いざ戦争がはじまったら、反戦運動が愛国運動化する公算が大である。そう切実に予感できるかどうか。研ぎすまされた感性がいる。せむしの侏儒との「ふるいつきあい」がベンヤミンのなにかを決定した。そう直観できたアレントほどするどくはなくても、研ぎすまされた感性がいる。けふコビトがきた。ミスドにいった。(2015/11/11)

140315 原発再稼働方針の欺瞞「十分な避難計画なしに、政府は本当に再稼動を認めるのだろうか」 

2014年03月15日 18時05分47秒 | <憲法の危機>は「戦後最大の危機」
3月15日(土):

3月13日(木)のテレ朝モーニングバード「そもそも総研」で「そもそも、原発再稼働、といっても事故が起きたら、即避難できるのだろうか」レポートについて、ブログ「未来を信じて!子どもたちの命と地球のために」に掲載されていた。次の発言に触発されたので、掲載します。元のブログには、写真もふんだんに載っていて読みやすいので、ぜひ「未来を信じて!子どもたちの命と地球のために」ブログに行ってみて下さい。

松尾貴史さんの「原発がぶっ壊れるくらいの災害が起きているときに道路が健全な状態で使えるなんて事は想像しにくいですよね」という言葉がすごく印象的でした。この指摘にこたえられずに原発再稼働など馬鹿馬鹿しくて議論以前の問題である!

3月13日(木)テレ朝モーニングバード「そもそも総研」

今日のテーマ:「そもそも、原発再稼働、といっても事故が起きたら、即避難できるのだろうか」

安倍晋三首相は、10日の記者会見で「原子力規制委の審査で、適合と認められた原発は、再稼動を進める方針」と発言している。世界では、事故は起きるものだ、という想定の元、原発に関する研究が進んでいる。日本で、原発で大事故が起きたとき、安全に避難できるのだろうか? そもそも、避難計画は、誰がどういうふうに作るのか?

現在、避難に関する指針は国が策定次の通りだ。
半径5km圏内の住民は、【即時避難】
半径30km圏内の住民の場合、初期は①屋内退避、その後②放射線量毎時500μSvで避難

そして、実際の避難計画は、原発から30km圏内の市町村が策定することになる。

即時避難が許されない、半径5km以上30km圏内の住民。果たして、安全に避難することが出来るのか?

玉川徹氏「今、原子力規制委員会が、原子炉に関しては世界最高水準の規制基準だ、ということで(政府は)再稼動に向かっているわけですが、本当に再稼動しても、被曝しないで(避難することは)大丈夫なのか、ということ。いかがですか?」

環境経済研究所の上岡直見氏によると「福島であれだけの事態が起こったわけですから、もうこれからは、最悪の事態が起こりうる前提で考えなければいけない、ということです。」

上岡氏「結論から言いますと、全国どこの原発であっても、30km圏内の人が被曝をしないで避難するということは、不可能であるという結論が出ました。」
玉川氏「仮に全電源喪失からメルトダウンまで30km圏内に(放射性物質が)到達してしまうのにどのくらい時間をみればいいのですか?」
上岡氏「最もシビアな場合、全電源喪失から2時間ないし3時間のところで放射性物質の放出が始まると、それが住民に到達するには、1~2時間後ということになります」すなわち、全電源喪失から数時間のうちに、原発から30km圏内に、放射性物質が拡散する。

最も住民の避難に時間がかかるのが「浜岡原発」東電が再稼動を目指している「柏崎刈羽」で約30時間…

上岡氏「福島の実態でも、普段だったら15分20分で行けるところを5時間6時間かかった。道路というのは、普段の交通量で作るわけで、地域の車が一斉に動き出せば、当然道路の方が足りない、ということになるわけです。」すなわち、日本の原発において、30km圏内の住民が、被曝しないで避難できるものは、一基も存在しない。必ず被曝するのである…
玉川氏「今政府は、避難できるという立場だと思う。なぜ避難できる、という話になるんですか?」
上岡氏「(政府は)避難できるとは言わない。計画を立てなさい、というところで留まっていると思います。」
玉川氏「(試算したら)とてもじゃないけど逃げられない、という結果になった。これでいいんですか?」
上岡氏 「日本の場合、避難計画の実現性というのが再稼動の条件に法律的にはなっていないんです。(避難計画と再稼動は)関係無い、っていうことになります」
現在、避難計画を策定している市町村もあるが、それにどのくらいの時間がかかるか、そこまで試算している市町村は少ない。

日本政府は、住民が避難できようとできまいと、原発再稼動の条件には、一切関係が無い。
◆原子力規制委員会:原子力施設の安全性を審査している。基準に適合しているかどうかの判断をするだけ。再稼動の判断は、我々はしない。
◆政府:規制委が適合だと判断すれば、再稼動をすすめる。
再稼動についての責任のなすりあいだ


さらに番組では、環境経済研究所の試算結果について、柏崎刈羽原発をかかえる新潟県の泉田裕彦氏を訪問。
玉川氏「メルトダウンが始まってから約30時間かからないと住民の避難が終わらない、ということなんですけれども、この結果をどう受け止めますか?」
泉田氏「1つの試算と受け止めています。2007年の中越沖地震とか2004年の中越の地震を経験した感覚で言うと、そんなに早く避難できないだろう、と」
玉川氏「あ、もっとかかる!?」
泉田氏「というのはですね(この試算は)道路が使える前提ですけど、(実際には)道路が使えなくなるんです。段差ができたり、渋滞したり。緊急自動車が3時間経っても辿り着けないくらい(車が)動かなくなることがありますのでそもそも高速道路も、中越沖地震のときは復旧するのに時間がかかるので緊急自動車も含めて、すぐ通る、っていうほど甘くないだろうと思っています。加えて、ここで雪が降ってたりするともっと時間がかかるということになると思います。」
スタジオの松尾貴史氏「原発がぶっ壊れるくらいの災害が起きているときに道路が健全な状態で使えるなんて事は想像しにくいですよね
さらに泉田知事へ質問が続く。
玉川氏「規制委員会が審査適合しましたと政府の規制をクリアしました、動かしましょう、ってなったときにどうするんだ、と」
泉田氏「意味ないんですよ、だから。そもそも、この規制基準というのが世界最高水準になってないんです。世界の最新の原発は、メルトダウンする、という前提でメルトダウンした後、放射性物質を出さないように受け止める【コアキャッチャー】が付いているわけです。日本はそれが付いていないわけなんです。」
(略。)
泉田氏規制委員会は(安全基準は作るが)再稼動(するかどうかの)判断には関与しない、と言っているんです。だから無責任体制になっているんです。規制委員会は、法律上設計上は各役所に勧告権を持っているんです、安全を確保するために、というミッションを背負って。それをやっていないわけなんです。やらないで、機器の性能と断層だけ見て適合しているかどうか判断したい、ということをやるから話がおかしくなるんです
玉川氏「勧告権があるんだから法改正だってちゃんとやらないといけませんよ、って本当は言えるんですね」
泉田氏「勧告すればいいんです」
玉川氏「シミュレーションだって、国でちゃんとやりなさい、っていうことももしかしたら出来るかもしれない」
泉田氏「結局、田中委員長が会ってくれない最大の原因は、答えられないから、っていうことしか無いと思うんです。」
規制委は、法律上の責務を果たしていない。その中には、救助する側の命と安全に関わる問題も。
泉田氏「放射性物質が放出されている時に誰が(避難支援に)行ってくれるんですか、と。では消防のチーム作って行くのかっていうとになると、その消防で行かれる人は、かなりヘビーな被曝をする可能性があるので、そういうことの調整もしないといけないです。ここのところが法令手つかずなんです。民間が行くのか、自治体の職員が行くのか、それとも国の組織にレスキュー隊を作って行くのか、これはもう2年以上前から議論してくれ、って言っているんですけど、(国は)答えないまま進んでいるので、きっちりやっていただきたいと思っています。」

過酷事故が起きたときに、住民の避難支援のために、中心部に行け、と誰が誰に命令するのか、なんら法整備されない状態のまま、再稼動の議論だけが進んでいる

赤江珠生アナ「世界基準のコアキャッチャーを日本が付けないのはなぜなんですか?」
玉川氏「原発を作り直さなきゃ行けないんです。(コアキャッチャーは)原子炉の下に入れなきゃいけないので、可能かもしれないけれどもの凄い莫大なお金がかかります。多分、新しく作った方が安いでしょう。世界は、使うなら、その方向でということで動いている。」
松尾氏「新しく作るとなると、反対されて身動きがとれなくなるから、あるものを動かしちゃえ、ってことなんでしょうね。」

「原発で過酷事故が起きた場合、被曝をせずに避難することはできないと考えられますが、それでも原発を再稼働させて問題ないと考えますか?」
番組から政府機関に質問したところ、
◆経産省: 「原子力規制委員会に聞いて下さい」
◆規制委: 「回答する時間が足りずお答えできません」(※回答まで1週間あったそうだが)

まとめ
「十分な避難計画なしに、政府は本当に再稼動を認めるのだろうか」

世界では、最悪の事態を前提に、原発の再稼動を判断する。今の日本の原発では、30km圏内の人が被曝無しに避難することは【不可能】なのだ。
原発の過酷事故が起きた場合、住民への安定ヨウ素剤の配布はもちろんのことだが、避難の際には自家用車での移動を禁止し、公共のバスや電車を使用して統制をとった避難することが必須。チェルノブイリ事故の半日後に、何万人の住民を強制避難できたり、汚染された原発にリクビダートルを送れたのは、旧ソ連中央政府に強い権限があったから。今の日本には不可能だ。


※とにかく一事が万事、安倍晋三極右自民党内閣の<杜撰さ><稚拙さ><軽率さ>は、呆れ返るしかない。その根っこは、国民・市民の意識や願いを汲みあげる意思の欠如としか言いようがない。安倍内閣も、野田汚物前内閣と同じマスターベーション内閣なのだ。何故、これ程までに政党政治が劣化したのか。結局、世襲議員と松下政経塾が政治の劣化に拍車をかけたということなのか。

140312 一年前 0038 斎藤環/山登敬之「世界一やさしい精神科の本」(河出書房新社;2011) 感想3+

2014年03月12日 23時51分08秒 | 日記
0038 斎藤環/山登敬之「世界一やさしい精神科の本」(河出書房新社;2011) 感想3+
3月9日(土):226ページ   所要時間2:20        図書館習慣維持のための流し読み。斎藤環50歳(1961生まれ)/山登敬之54歳(1957生まれ)。両名...

3 074 古市憲寿「誰も戦争を教えてくれなかった」(講談社;2013/8) 感想5

2014年03月11日 22時52分14秒 | 一日一冊読書開始
3月11日(火):

340ページ  所要時間 2:25  図書館

28歳(1985生まれ)の若者の本である。戦争の記憶のかけらもない若者に、青筋立てて理屈を言う気にもならない。お説拝聴といきたい。「縁結び読書」で1ページ15秒を固守して、概略を見ることに徹した。著者の本を読むのは初めてである。

書名のとおり、「誰も戦争を教えてくれなかった」ので、戦争を理解するために世界中の戦争・平和関係の博物館を片っ端から回ってみた。詳しい内容は、勿論分からないが、それなりに良いセンスで、日本と外国で戦争そのものに対する姿勢に大きな違い、隔たりがある、ことが知らされている。

例えば、日本では戦争は絶対悪であるが、アメリカなどでは良い戦争、悪い戦争の区別がある。日本では、ひめゆりの塔をはじめ、戦跡地そのものを展示することを憚り、レプリカを近くに作って展示するが、アウシュビッツなどは、現地、実物そのものをメインテナンスし続けて展示する。

ただ総じて、戦争の経験を次代に伝えるためのハコモノ博物館は集客で苦労している。中国や韓国では、テーマパークのようにアミューズメントの充実に力を入れないとやっていけない。本来の戦争被害、愛国心教育も苦戦を強いられている。日本の戦争・平和博物館は、集客努力に乏しくもっと厳しい状況である。

4分の3ぐらいまでは、比較的センスの良い博物館めぐりの紹介で感想4ぐらいだったが、「第6章 僕たちは戦争を知らない」あたりから、やおら頭をもたげるように著者は自説を強く語り始め、何やら面白くなって、最終的には感想5となった。

日本の戦争・平和博物館は同じようによくできていて、同じようにつまらない。思想的に真逆の遊就館と沖縄平和祈念資料館は、同じ乃村工藝社の設計だ。

戦争のロボット兵器化で、戦争自体が変化している。昔と同じ戦争はもう起こらない。

戦争を起こさないようにするために徴兵制が必要だという議論は一見理屈が通っているように聞こえるが、それは徴兵制を正当化するような戦争の「大きな記憶」と不可分なので空論である。

戦争なんて知らなくていい。日本の「大きな記憶」は、「日本は平和な国である」という自意識であって、平和ボケで何が悪い!「あの戦争は、もはや古すぎる。/約70年前の人々が、戦争体験をもとに社会を作り出していったように、現代を生きる人々は、今まさに長く続く「平和体験」から思想や政治を紡ぎ出していくしかない。/平和ボケでない人など、おそらくもうほとんどいない。283ページ」

*たとえば、憲法改正や歴史教育の再編によって、新しい「大きな記憶」を創造できると信じる人たちがいる。しかし、体験が伴わない思想は、おおよそ頓挫する運命にある。68年も続いた「平和経験」に基づく「大きな記憶」を覆すのは、困難を極めるだろう。/戦争博物館というハコモノや、学校での歴史教育に過剰な期待をしても仕方がない。東京裁判史観で書かれた教科書で学んだ人のうち一定数が、それを批判するようになるという事実が雄弁に語る通りである。/一方で、戦争の姿を「正確」に伝えることで、それが戦争の抑止力になると考える人もいる。しかし、アジア・太平洋戦争に関する細かい知識を暗記したところで、軍事オタクや戦史マニアに一歩近づくだけだ。総力戦だけを戦争と思い込むことは、現代の戦争に対する想像力を奪うことにもつながる。/中途半端な歴史認識がたびたび外交問題を巻き起こすのも、すっかりこの国では馴染みの後継となった。一方で、日本列島の形も、クールジャパンという言葉も知らないけれど、海外で人気を獲得するアイドルのほうが、結果的にはよっぽど日本という国の価値を高めている。285ページ

*僕たちは、戦争を知らない。そこから始めていくしかない。/背伸びして国防の意義を語るのでもなく、安直な想像力を働かせて戦死者たちと自分を同一化するのでもなく、戦争を自分に都合よく解釈し直すのでもない。/戦争を知らずに、平和な場所で生きてきた。/そのことをまず、気負わずに肯定してあげればいい。286ページ


最後は、村上春樹調のポップな感じで終わった少し甘さを感じないわけではないが、今の若者の意識を少し垣間見ることができた。本当に「もはや戦後ではない」のだ。恒常的平和の中で培われた経験を土台にするべき時代になったのだ。この本を、頭の悪さ丸出しで肩をいからせ、いきがってる安倍晋三に読ませたい。でも、頭悪いから理解できないんだろうなあ…。

目次: コピペ+α
序章 誰も戦争を教えてくれなかった
第1章 戦争を知らない若者たち:1戦争を記憶する/2戦争を知らない日本人
第2章 アウシュビッツの青空の下で:1万博としてのアウシュビッツ/2ベルリンでは戦争が続いている/3僕たちはイタリアを知らない
第3章 中国の旅2011─2012:1上海──愛国デモの季節/2長春──あの戦争は観光地になった/3瀋陽──倒された塔の物語/4大連・旅順──南満州鉄道の終着地/5再び上海──戦争博物館のディズニー映画
第4章 戦争の国から届くK-POP:1新大久保の悪夢/2感動の戦争博物館/3戦争が終わらない国で
第5章 たとえ国家が戦争を忘れても:1沖縄に散らばる記憶たち/2平和博物館のくに/3そうだ、戦争へ行こう/4大きな記憶と小さな記憶
第6章 僕たちは戦争を知らない:12013年の関ヶ原/2僕たちは、あの戦争の続きを生きる/3戦争なんて知らなくていい
終章 SEKAI no OwarI
補章 ももいろクローバーZとの対話
戦争博物館ミシュラン:1位ザクセン・ハウゼン記念館・博物館(ドイツ) 2位アウシュビッツ博物館(ポーランド) 3位戦争記念館(韓国) 4位ベルリン・ユダヤ博物館(ドイツ) 4位独立記念館(韓国:俺も行ったことがある!広過ぎて草臥れた) 以下略


※アマゾンの評価を見た:星1つ(あり得ない評価!誹謗中傷に当たるだろう!)が、たくさんつけられて、本書はかなりの数の組織的な反発・攻撃を受けていた。逆に言えば、新進の影響力のある若手評論家にこのような新たな視点を提示されると都合の悪い連中がたくさんいて、彼らの逆鱗に触れる内容(まともな内容!)だと言うことだろう。

3 073 石井光太「遺体 震災、津波の果てに」(新潮社;2011/10) 感想5

2014年03月09日 22時34分14秒 | 一日一冊読書開始
3月9日(日):

265ページ  所要時間 4:35       図書館

著者34歳(1977生まれ)。

東日本大震災が起こった三日後の3月14日から取材を開始し、この日から3カ月のうち2ヶ月半を被災地で過ごして、現地ルポを雑誌などに送る。

本書の動機は、「来る日も来る日も被災地に広がる惨状を目の当たりにするにつれ、私ははたして日本人はこれから先どうやってこれだけの人々が惨死して横たわったという事実を受け入れていくのだろうと考えるようになった。震災後間もなく、メディアは示し合わせたかのように一斉に「復興」の狼煙を上げはじめた。だが、現地にいる身としては、被災地にいる人々がこの数え切れないほどの死を認め、血肉化する覚悟を決めない限りそれはありえないと思っていた。復興とは家屋や道路や防波堤を修復して済む話ではない。人間がそこで起きた悲劇を受け入れ、それを一生涯十字架のように背負って生きていく決意を固めてはじめて進むものなのだ。/ そのことをつよく感じたとき、私は震災直後から二ヶ月半の間、あの日以来もっとも悲惨な光景がくり広げられた遺体安置所で展開する光景を記録しようと心に決めた。そこに集った人々を追うことで、彼らがどうやってこれほど死屍が無残に散乱する光景を受容し、大震災の傷跡から立ち直って生きていくのかを浮き彫りにしようとしたのだ。262~63ページ」と書かれている。

読んでいて最初に思い出したのは、山崎豊子「沈まぬ太陽(3)御巣鷹山編」を読んだ時の凄惨な内容である読後感は、「記憶遺産として、書かれる必要のある本だった!」ということに尽きる。季節が、夏ではないので、御巣鷹山ほどではないが、死後硬直に始まり、日一日と傷み、腐敗し、色が黒っぽく変色していく遺体の様子などの記述は臨場感がある。著者のように現地に身を置いて、語り部として、記録を取る人間はどうしても必要なのだ。

最近痛感していることとして、「どうしてこんなに東日本大震災の記憶が急速に希薄化してしまったのか? どうして被災者のことがこんなにも簡単に忘れられてしまっているのか? 原発の問題を論じることもすごく大事だが、阪神・淡路大震災が比較的きちんと語り継がれてきたのに比べて、東日本大震災の被害の語り継ぎの風化の早さは異常であり、信じられないほどだ。あまりにも人間が粗末に扱われている!」

 原因が、<反知性主義>の野田詭弁詐欺師民主党内閣と安倍極右自民党内閣の政治の愚劣さによるのは間違いないと思う。政治家のレベルが低過ぎるのだ。もし2月9日の都知事選で細川護煕候補が勝っていれば、2020年東京オリンピックは、東北復興オリンピックにもなっていたはずだったと考えると、つくづく残念である。宇都宮健児と共産党の政治選択も絶対に忘れない。

本書の舞台は、釜石市の海岸部のマチが津波により壊滅的被害を受けて、遺体が旧二中体育館や旧小佐野中体育館に運び込まれる。その直後、遺体を運ぶ市役所職員安置所現場のやり繰りに力を発揮する元葬祭業者の民生委員千葉淳(70歳)、検案(死亡診断)をする医師、歯型調査をする歯科医師、生存者を捜す消防団員、自衛隊員、海上漂流する遺体(傷みが激しい)を収容する海上保安官、遺体の供養をする住職、膨大な遺体のための棺を用意する葬祭業者、火葬の限界、土葬への苦渋の決断する釜石市長、他県の協力でぎりぎり全遺体の火葬にこぎつける4月上旬までの約1ヵ月である。

人口40000人の釜石市だけで死者・行方不明者1100人にのぼる。遺体で溢れかえる安置所は、多くの人間の過酷で無償の働きがあって維持される。行方のわからぬ親族を探し求める遺族の姿と探し当てたとき泣き崩れる遺族。一方で、身元不明の遺体も多数にのぼる。

やり場のない悲嘆にくれる遺族と不慮の死を遂げた遺体双方を繋ぎ救済する言葉をかけ続ける民生委員の千葉淳は、身元不明のままの遺体・遺骨にも優しい言葉をかけ続ける。人目につこうがつくまいが、共同体には、このような存在が必要だ。数日前に、この本が映画化されたことと西田敏行が出ていることを知ったが、まず間違いなく西田の役は、この千葉淳だろう。

最後まで読むと、様々な人間が登場するが、縦糸として本書を貫いて登場するのは千葉淳氏である。本書は、ノンフィクションだが、期せずして映画化された場合の主人公を用意していたことになる。しかし、惨死の遺体を映画ではどう映像化するのだろう。不可能にも思える…。

【目次】(「BOOK」データベースより)
プロローグ 津波の果てに/第1章 廃校を安置所に/第2章 遺体捜索を命じられて/第3章 歯型という生きた証/第4章 土葬か、火葬か/エピローグ―二カ月後に/取材を終えて


*だが、松岡には彼らが遺体を恐れるのには、やむを得ない面もあると思っていた。震災発生から一週間ぐらいは傷のないきれいな遺体が多かったが、日が過ぎるごとに仮置場に置かれる遺体はむごたらしい姿のものに変わっていった。瓦礫の下で見つかる者が多かったため、頭がつぶれていたり、胴体に瓦礫が刺さっていたりしたのだ。体の一部に裂傷があり、そこから腐って色の変わった内臓が出ている者もあった。略。遺体のなかには、松岡ですら直視できないようなものもあった。津波に流されて海で見つかった遺体である。三月は陸より、海中の方が温度が高かったため腐敗もかなり進行していたのに加えて、魚に喰われたり、身体がちぎれたりしていることがあった。108~09ページ

*また、隣にいる妊婦の遺体にはこう言った。/「幸子ママは、大槌町に住んでいたんだね。一晩、この寒いところでよく頑張ってくれたね。ママのお陰で、お腹のなかにいた赤ちゃんは寒くなかったんじゃないかな。この子はとっても感謝しているはずだよ。天国へ逝ったら、今度こそ無事にお腹の赤ちゃんを産んであげるんだよ。暖かいところで、伸び伸びと育ててあげなよ。そしていつか僕がそっちにいったときに大きくなった赤ちゃんを見せておくれ」/ 遺体は人に声をかけられるだけで人間としての尊厳を取りもどす。千葉はそれを重ねることで安置所の無機質で絶望感に満ちた空気を少しでも和らげたかった。185ページ 千葉さんの姿は、「納棺夫日記」の青木新門さんを彷彿とさせる。

*千葉は母親に場所を譲る。母親は棺の枠を握り、身を乗り出すようにして言う。/「ごめんね、ママがたすけてあげられなくてごめんね。いつかまたママと再開しようね。もう一度会おうね」/母親の声は嗚咽によってほとんど聞き取れない。千葉は少しだけ間を置いて遺体に語りかける。/「大丈夫。学君はママに感謝しているもんな。これから仏様になっても、ずっとママの傍にいて見守っているもんな」/母親はそれを聞くとハンカチで口元を押さえ、肩を震わせて泣きはじめる。夫が力いっぱい彼女の肩を抱きしめる。/千葉はそんな夫婦の姿を見て胸をなで下ろす。別れの際に何も言えずに終わってしまうより、感情を出し切った方が後悔は少なくていい。わずか五分余りしか割いてあげられないが、家族にはできるだけ悔いがない形で出棺をしてもらいたかった。 200ページ

140302 一年前&「ベースロード電源」の大ウソ&「僕のいた時間」8話見直し、俺も閑人。

2014年03月03日 01時23分40秒 | 日記
3月2日(日):

0034 重松清「娘に語るお父さんの歴史」(ちくまプリマー新書;2006) 感想4
3月1日(土):173ページ  所要時間2:00       図書館著者43歳(1963生まれ)。著者は、現代日本の良識・良心(決して肩肘張った感じではないが…)を代表する...


所感:原発再稼働に向けた政府の「ベースロード電源」という表現は完全な誤魔化しのまやかし。昼夜の発電量調節ができない原発の最大の欠陥・弱点の一つをプラス評価のように見せかけた大ウソである。もうウンザリ…。

一日がかりで、「僕のいた時間」8話全部を見直した。俺もひま人である。先ず俺は元々演技の上手い多部未華子のファンだ。そして、三浦春馬の演技力を発見し圧倒された。お見逸れしましたって感じである。昨年の「とんび」、年末の「あまちゃん」に次ぐ、マイブームになりそうだ。


140301 ドラマ「僕のいた時間」第1話から第8話まで、録画で一挙に見た! 感想5

2014年03月02日 00時21分29秒 | 映画・映像
3月1日(土):

朝から親戚の法事に出て、帰宅後、フジテレビ系ドラマ「僕のいた時間」を観た。ALS(筋萎縮性側索硬化症)に侵された青年(三浦春馬)と恋人(多部未華子)の純愛を中心に、取り巻く人々の人間模様や生き方を描いた作品である。

元々は録り溜めてCM抜きの編集をしてあったものだが、特に改めて観る予定はなかった、。しかし、最近ネット上で、視聴率が10%を切ってるのに、視聴者の満足度が非常に高いドラマとして話題になっていて気になっていたのだ。

当初、一度に見る気は全く無かった。って言うか、第1話すらちら見のつもりだった。しかし、大学4回生の3月ぎりぎりまでシューカツ(就職活動)に苦しむ主人公らの青春群像を描いて、今の時代性を描く。主人公を一生懸命の落ちこぼれの設定にしたのは、つかみとしてとても良かった。

主人公の青年が恋人と結ばれ、ALSを発症後、癌告知にみられるのと同様の「否認」→「怒り」→「取り引き」→「抑うつ」→「受容」などの過程をリズムよく、丁寧に描きだし、その中で恋人との別れ、恋人のために新たな恋愛を願う、医者の家に生まれ医者になることを宿命づけられた弟と弟を偏愛する母親への複雑な思いなどいろいろな話題がからむ。

ひとつひとつの物語の要素を分析すれば、主人公がALSの青年であるという新しさ以外は、どれもどこかで見たことがある様な設定だ。そのため、回を追うごとに次の展開がどうなるのかおおよそ予想がついたし、実際その通りになっていった。それだけ言うとつまらないドラマになるはずだが、そうではない。

ドラマの王道のようなストーリー展開を、主役の三浦春馬と多部未華子の演技力・存在感が、生き生きと感じさせる勢いを持っていたのだ。途中、何度も涙が出そうになった。スピード感のある展開もあって、一話が終われば、すぐ次を観たくなり、結局延々7時間近く連続で見続けることになってしまった。一緒に観ていた家内は、けっこう大泣きしていた。

オーソドックスを、しっかりオーソドックスにやりきることは、実は大変高度な技(わざ)である。また、昔から知られてはいるが、ドラマとは縁のなかったALS(筋萎縮性側索硬化症)を題材に選んだのは立派な挑戦であった。ALSに対する社会の理解を深めるための映像も随所にあって、その意味でも本作品は、視聴率こそとれなかったが、今クールの隠れた大ヒット作、名作である!

「なんかさあ、(絶望せず生きる)目標を見つけることが、(今の)俺の目標みたいだな!」は名言だ!

最終回の第11話まで、残り3話、一生懸命応援していきたいです。

150329 タガ外せば歯止め失う 長谷部恭男・早稲田大学教授/「未来志向」は現実逃避 杉田敦・法政大学教授

 杉田 先日ドイツのメルケル首相が来日しました。戦後ドイツも様々な問題を抱えていますが、過去への反省と謝罪という「建前」を大切にし続けることで、国際的に発言力を強めてきた経緯がある。「建前」がソフトパワーにつながることを安倍さんたちは理解しているのでしょうか。  / /長谷部 そもそも談話が扱っているのは、学問的な歴史の問題ではなく、人々の情念が絡まる記憶の問題です。記念碑や記念館、映画に結実するもので、証拠の有無や正確性をいくら詰めても、決着はつかない。厳密な歴史のレベルで、仮に日本側が中国や韓国の主張に反証できたとしても、問題はむしろこじれる。相手を論破して済む話ではないから、お互いがなんとか折り合いのつく範囲内に収めようと政治的な判断をした。それが河野談話です。  / /杉田 談話の方向性や近隣との外交について「未来志向」という言い方がよくされますが、意図はどうあれ、それが過去の軽視という「見かけ」をもってしまえば、負の効果は計り知れない。安倍さんたちは、未来を向いて過去を振り払えば、政治的な自由度が高まると思っているのかもしれません。しかし政治の存在意義は様々な制約を踏まえつつ、何とか解を見いだしていくところにあります。政治的な閉塞(へいそく)感が強まる中で、自らに課せられているタガを外そうという動きが出てくる。しかし、それで万事うまくいくというのは、一種の現実逃避では。  / /長谷部 合理的な自己拘束という概念が吹っ飛んでしまっている印象です。縛られることによってより力を発揮できることがある。俳句は5・7・5と型が決まっているからこそ発想力が鍛えられる。しかし安倍さんたちは選挙に勝った自分たちは何にも縛られない、「建前」も法律も憲法解釈もすべて操作できると考えているようです。  / /杉田 俳句は好きな字数でよめばいいのだと。  / /長谷部 あらゆるタガをはずせば、短期的には楽になるかもしれません。しかし、次に政権が交代したとき、自分たちが時の政府を踏みとどまらせる歯止めもなくなる。外国の要求を、憲法の拘束があるからと断ることもできない。最後の最後、ここぞという時のよりどころが失われてしまう。その怖さを、安倍さんたちは自覚すべきです。 =敬称略(構成・高橋純子)朝日新聞『考論』

0015 オルテガ「大衆の反逆 (桑名一博訳;久野収解説)」(白水社イデー選書;1930)評価5

以下は、オルテガ所論の久野収による抜粋の抜粋である:///  オルテガによれば、政治のなかで「共存」への意志を最強力に表明し、実行していく政治スタイルこそ、自由主義的デモクラシーである。共存は、強い多数者が弱い少数者に喜んで提供する自己主張、他者説得の権利である。敵、それも最も弱い敵とさえ、積極的に共存するという、ゆるがない決意である。/その意味で、人類の自然的傾向に逆行する深いパラドックス(逆説)であるから、共存を決意した人類が、困難に面してこの決意を投げ出すほうへ後退したとしても、それは大きな悲劇ではあっても、大きな不思議とするには当たらない。/「敵と共存し、反対者と共に政治をおこなう」という意志と制度に背を向ける国家と国民が、ますます多くなっていく1930年代、オルテガは、「均質」化された「大衆」人間の直接行動こそが、あらゆる支配権力をして、反対派を圧迫させ、消滅させていく動力になるのだという。なぜなら、「大衆」人間は、自分たちと異類の非大衆人間との共存を全然望んでいないからである。略。///  「大衆」人間は、自分たちの生存の容易さ、豊かさ,無限界さを疑わない実感をもち、自己肯定と自己満足の結果として、他人に耳を貸さず、自分の意見を疑わず、自閉的となって、他人の存在そのものを考慮しなくなってしまう。そして彼と彼の同類しかいないかのように振舞ってしまう。/彼らは、配慮も、内省も、手続きも、遠慮もなしに、「直接行動」の方式に従って、自分たちの低俗な画一的意見をだれかれの区別なく、押しつけて、しかも押しつけの自覚さえもっていない。/彼らは、未開人―未開人は宗教、タブー、伝統、習慣といった社会的法廷の従順な信者である―ではなく、まさに文明の洗礼を受けた野蛮人である。文明の生み出した余裕、すなわち、贅沢、快適、安全、便益の側面だけの継承者であり、正常な生存の様式から見れば、奇形としかいいようのないライフスタイルを営んでいる新人類である。略。///  「自分がしたいことをするためにこの世に生まれあわせて来た」とする傾向、だから「したいことは何でもできる」とする信仰は、自由主義の自由の裏面、義務と責任を免除してもらう自由にほかならない。/われわれは自由主義の生みだした、この「大衆」人間的自由、自己中心的自由に対し、他者と共存する義務と責任をもった自由を保全しなければならないが、一筋縄でいかないのは、この仕事である。(160626:イギリスEU離脱について思うところ=もみ=)