もみさんの一日一冊遊書録( 2011年9月1日 スタート!: メメント・モリ ) ~たゆたえど沈まず~

年とともに人生はクロノロジー(年代記)からパースペクティブ(遠近法)になり、最後は一枚のピクチュア(絵)になる

150215 衆参両院の「テロ非難決議」を非難する!「テロの本質」を真面目に語る政治家はいないのか!

 真面目に「テロの本質」を考えれば、その原因が、決して宗教の違いにあるのではなく、世界的に広がる富の偏在、極端な格差拡大、差別構造の継承、及びパレスチナ問題、それらによる<若者たちの絶望>にあることは、実は誰もがわかっていることだろう! それを「世界には凶悪なテロリストが大勢いて、こいつらを叩き潰せばテロが無くなる」なんて話に無理やりすり替えている。誰も、「テロの本質が、日本・世界の社会構造が抱える富の偏在・格差の拡大及びパレスチナ問題の<野放し状態>にこそある」という本質を語らないし、見させようとしない。そして、凶悪なテロリストへの恐怖ばかりを煽りたてている。これはまさにオーウェルの「一九八四年」の世界と同じだ。今回の国会の「テロ非難決議」に社民党・共産党まで加わっていたのには、あきれ果てた。「誰も本質を見ようとしない。」「武力で世界中の<絶望した若者たち>を封じ込めるべきではないし、不可能だ!」

秋原葉月さん「Afternoon Cafe」ブログから

※(1)「もちろん、普通の人間は戦争を望まない。しかし、国民を戦争に参加させるのは、つねに簡単なことだ。とても単純だ。国民には攻撃されつつあると言い、平和主義者を愛国心に欠けていると非難し、国を危険にさらしていると主張する以外には、何もする必要がない。この方法はどんな国でも有効だ」byヘルマン・ゲーリング ※(2)いつの時代も大衆をファシズムに煽動する手口は同じ。なのに同じ手口に何度も騙されるのは過去に学んでいないから。格差を広げ、セイフティネットを破壊し、冷徹な自己責任論が横行する社会を継続させるのは簡単だ。今よりもっと格差を広げ、セイフティネットを破壊する政策をとればよい。そうすれば人々に自己責任論がもっと浸透し、草の根から勝手に右傾化してくれる。

辺見庸さんのブログから

・権力をあまりに人格的にとらえるのはどうかとおもう。口にするのもおぞましいドブの目をしたあの男を、ヒステリックに名指しでののしれば、反権力的そぶりになるとかんがえるのは、ドブの目をしたあの男とあまり変わらない、低い知性のあらわれである。権力の空間は、じつのところ、非人格的なのだ。だからてごわい。中心はドブの目をしたあの男=安倍晋三であるかにみえて、そうではない。ドブの目をしたあの男はひとつの(倒錯的な)社会心理学的な表象ではありえても、それを斃せば事態が革命的に変化するようなシロモノではない。権力には固定的な中心はなく、かくじつに「われわれ」をふくむ周縁があるだけだ。ドブの目をしたあの男は、陋劣な知性とふるまいで「われわれ」をいらだたせ、怒らせるとともに、「われわれ」をして社会心理学的に(かれを)蔑視せしめ、またそのことにより、「われわれ」が「われわれ」であることに無意識に満足もさせているのかもしれない。ところで、「われわれ」の内面には、濃淡の差こそあれ、ドブの目をしたあの男の貧寒とした影が棲んでいるのだ。戦争は、むろん、そう遠くない。そう切実にかんじられるかどうか。いざ戦争がはじまったら、反戦運動が愛国運動化する公算が大である。そう切実に予感できるかどうか。研ぎすまされた感性がいる。せむしの侏儒との「ふるいつきあい」がベンヤミンのなにかを決定した。そう直観できたアレントほどするどくはなくても、研ぎすまされた感性がいる。けふコビトがきた。ミスドにいった。(2015/11/11)

170830 一年前:160828 冷酷な壁片山さつきに対して怒りが収まらない。子どもの貧困問題を絶対的貧困にすり替えて誤解と偏見と差別意識を助長する確信犯だ!

2017年08月30日 23時21分16秒 | 一年前
8月30日(水):
160828 冷酷な壁片山さつきに対して怒りが収まらない。子どもの貧困問題を絶対的貧困にすり替えて誤解と偏見と差別意識を助長する確信犯だ!
8月28日(日):      日本は見下げ果てた国になってしまった!  国会議員が国民(愚民)の生殺与奪の権を握ると考える冷酷な壁、片山さつきに対する心の底からの怒りが収まら......


170830 NHK 心の時代「長き戦いの地で~医師・中村哲」(2001.11.25:55歳)

2017年08月30日 23時11分15秒 | 一日一冊読書開始
8月30日(水):

8月12日(土)深夜発見した「NHK 心の時代「長き戦いの地で~医師・中村哲」(2001.1.25:54?歳)アフガニスタン18年目」録画をもう20回近く繰り返し観直している。飽きることがない。ネット上で、書き起こし記事を見つけたので紹介させて頂きます。宜しければ、読んでみて下さい。用水路工事に取り組む2年ほど前の時点です。

「長き戦いの地で」     
                               医 師 中 村  哲(てつ)
                               ききて 迫 田 朋 子(NHK解説委員)
中村:  ちょっと病気で簡単に命が亡くなって、普通であれば助かるよ うな病気でも、何十円かですよ、の薬がないばっかりで死んで いく。こういうことがあっていいのだろうか、と。今考えると、 その中にも少し思い上がりがあって、「まあ可哀想に」という のがありましたけれども、それをもう少し超えて、そういう中 でさえも、「人間というのは幸せになれるし、人間らしい気持 を失わずにおることは出来る」というふうに、思えたのは、私 ども見返りと言えば見返りでしたね。アメリカ人が聞いても、 日本人が聞いても、アラブ人が聞いても、何となく温かくなるような、納得でき るような人間らしい感じというのは、やっぱり共通なものがあると思うんですね。 それにやっぱり訴えるということが大事なような気がするんですね。

ナレーター: 同時多発テロ、そして空爆。今、世界の注目が集まるアフガニスタンで、長く 医療援助を続けてきた、福岡のNGO(非政府協力団体)の活動報告会が開かれました。医師の中村哲さんは、十八年に亘って、パキスタンやアフガニスタンで、 国境を越えた医療活動に取り組んでいます。パキスタン・ペシャワールの病院を 本拠地に、貧しい人たちのための診療や、医者が居ない辺境の山岳部での巡回診 療などを行ってきました。内戦が激しい時代から、アフガニスタンに入り、現在 まで継続的な援助を続けています。中村さんとともに活動を支 えてきたのが、「ペシャワール会」というボランティアグルー プ(中村医師が設立したJAMS(日本─アフガン医療サービ ス)、PLS(ペシャワール・レプロシー・サービス)のパキ スタン・アフガニスタンでの医療活動を支援する目的で運営さ れているのがペシャワール会)。資金は、会員から寄せられる 会費や募金です。当日、八百人が入る会場は満席になりました。 長くアフガニスタンで活動を続けてきた中村さんから、今こそ 現地の実状を聞きたいと思う人が多く集まりました。

(報告会の会場)
中村:  みなさん、こんにちわ。現地の実状をやっぱ り説明するのは、いろんなことを話よりも、 いろんなことは新聞に書いてありますから、 私たちがしてきたこれまでの活動を通して、 ご紹介するのが一番いいのではないかと思い まして、それを通してまた理解を深めていき たいと思います。では、スライドをお願い致 します。
アフガニスタンは山の国です。国土の約半分 以上は、こういう山岳地帯なんですね。この 白い雪は決して伊達(だて)にあるわけではなくて、 観光用にあるわけではありませんで、冬に降 り積もったこういう白い雪が夏融けだして、 ああいう乾燥地帯を潤す、というサイクルを 何千万年も繰り返して、此処で人間と動物、 植物が生き抜いてきたわけですね。
こういう事情もなかなか日本には伝わり難いんですが、アフガニスタンの大干魃(かんばつ)。 これはもの凄いものでございまして、土地の長老に聞いても、自分たちが小さい 時から聞いたこともない、というふうなものでありまして、おそらく数世紀に一 度あるかないかという大干魃。それが約一年半前、去年の五月の国連機関の発表 によりますと、アフガニスタンがもっとも酷い状態でありまして、千二百万人が 被災して、四百万人が飢餓(きが)線上にある。百万人が餓死(がし)線上にある、という発表で ありました。

ナレーター: アメリカで同時多発テロが起こった時、中 村さんのグループは、干魃に苦しむアフガニ スタンで、水源確保するための井戸掘り事業 に追われていました。井戸が涸れ、清潔な水 が得られなくなった村々で、赤痢に罹った子 どもたちが、次々と命を落としていたからで す。人々が村を捨て、難民となっていくのを食い止めようと、 水源確保のプロジェクトを立ち上げ、村人とともに、六百の作 業地で、井戸掘りと、カレーズと言われる地下水路の再生に取 り組みました。すぐに涸れてしまう井戸を、根気よく掘り進め ることで、漸く得ることが出来る水。それで凡そ三十万人が、 村を捨てずに済んだ、と言われています。東部のダラエ・ヌー ル渓谷では、畑に緑が戻った所もありました。

アフガニスタン空爆開始直後の十月、中村さんたちは、新たに アフガニスタンへの食料援助を開始しまし た。干魃による飢餓に直面している上、空爆 の危険にも曝される多くの人々の手に、小麦 粉と食用油を届けようという計画です。カブ ールなどの街には、干魃で村を捨てた国内避 難民が集中しています。貧しさゆえに、国境 を越えて難民になることさえ出来ない人々 を、零下にまで冷え込む冬の寒さと、餓死か ら救うための緊急援助です。「困窮した人々が、難民になる前に救おう」というの が、中村さんたちの考え方でした。
 
迫田:  水にしても、それから今の食料支援にしても、よく中村さんがおっしゃっている、 「難民を出さない」という、そういう活動、考えでいらっしゃるわけですね。

中村:  そうです、今、国内の避難民が一番集中しているところは、首都のカブールなん ですね。元居た比較的豊かな人たちは、いわゆる難民という名前で、国外に逃げ てしまっているんです。で、一部は、欧米諸国、カナダとか、オーストラリアだ とかへ逃げて行っていますけれども、残っている大部分は、この村を捨て、水も ない食べ物もないということで、故郷を捨てて集まって来ている国内避難民が殆 どなんですね。こういう人たちはもともと物がないところから来ているところに、 またカブールというところは寒いところなんですね。もう十一月末頃から、温度 が零下になりますから、こういう人たちが、冬を越せずに死んでいくというのは 十分予想されることなんですね。今、カブールの人口が、大体百万から百五十万 人位だろうとみていますが、この一割は、これは控え目にみても、一割は生きて 冬を越せないんじゃないか、という状態なんですね。難民というと、つい国外に 戦禍を逃れて出てくる人たちを想像しますけれども、それにもなれないという人 たちが殆どなんですね。

迫田:  だからこそ、そういう人たちのところにきちんと小麦粉を届けるということ─。

中村:  そうですね。これは、本格的にこういう追い詰められた人が、大移動し始めると、 これはもう想像が出来ない悲劇になるんですね。

迫田:  その凍死とか飢餓とか?

中村:  凍死、飢餓。途中で行き倒れみたいになってしまう。これは実際、十数年前のア フガン戦争中に起きたことですから、容易に想像がつくわけですね。

迫田:  厳しい冬が来たら凍死するというようなことが、かつてご経験がおありなんだそ うですね。

中村:  これはアフガン戦争中、あの頃は、農村が主な戦場でしたから、戦禍を避けて逃 れて来る農民たちが後を絶たなかった。幸い暖かい時はいいですけれども、真冬 ですと、高地を通って来ると、必ず途中で行き倒れみたいにして、凍死して死ん でしまうんですね。そういう悲劇は無数にありましたね。数百家族が峠を越えて 来る時に、寒さのために、一晩で凍死するというふうな事件もしばしばあったん ですね。

迫田:  それは中村さんご自身もかなり強いものとして残っていらっしゃるわけですか。

中村:  それはあれを見た人は忘れられないでしょうね。

迫田:  実際に?

中村:  実際に見たことがありますが、ほんとにあれを現場にいた人は、殆どそのことは 口に出しませんね。

迫田:  それは?

中村:  それはね、時間が経てばこうやって落ち着いて話していますけれども、もう涙な しには話せんよ。鬼気(きき)迫るものがありましたね。しかもお母さんだとかが子ども に覆い被さって、やっぱり自分の子どもは守るんですね。そして、二人とも冷え て死んでいる場面とか、たくさん見ましたですね。それと似たようなことが、こ のまま放置していれば起こるでしょうね。だからこそ難民を外で叩き出して待つ のじゃなくて、難民になる前に助けなくちゃいけない、というのは、そういうこ となんですね。

迫田:  小麦粉が実際に市民の手に届いているわけですよね。

中村:  届いています。

迫田:  それはどういう形でそれは可能になっているのですか?

中村:  それはやっぱり長く居て、大体地元で起きている慣習だとか、やりかただとか、 大体会得しているということが主な背景でしょうね。特に東の地区では、もう十 年近くになりますかね、主に山岳地帯中心にして、東部一帯では、医療活動をず うっと続けてきましたし、我々は一遍行くと、逃げないという評判を得ているん ですね。今度の水のプロジェクトも一年半近くになりますが、それも爆撃で一時 中断しましたけども、今も営々と続いているわけですね。そういう信頼感が、背 景にある程度あると思います。

迫田:  その運んでいる人たちはどういう人たち?

中村:  運んでいる人たちは、うちのアフガン人スタッフ。それから勿論雇った運転手で すね。こういう人たちが運んでやっています。実際に配給に当たっているのは、 現在カブール市内に五カ所診療所がありまして、その診療所関係の人たち、それ からジャララバードという一つ手前の大きな街を中心にして、水源確保プロジェ クトがあるんですね。こういう人たちを、召集と言いますか、集めてやらせてい ます。それからパキスタン側と言いますか、ペシャワール側で買い付け、それか らトラックの契約をするグループ。それから勿論日本側の責任として、それを十 分サポートするだけの寄付を集める。この三つが上手く噛み合っているんですね。 パキスタン側では、このパキスタンの人たちが中心になっている。アフガン側で は、アフガンの人たちが中心になってやっている。それが鼎(かなえ)のようになって、三 脚になって、上手くやっているんですね。

迫田:  しかし、今の報道の中では、非常に人々がかなり追い詰められたりですね、パキ スタンとアフガンでも多分対立があるでしょうし、中の人たちでも対立があるで しょうし、そういう中で、何故そういうふうに上手く動くんでしょうか。

中村:  これはやっぱりイスラム教徒だとか、キリスト教徒だとか、そういうのを超えて ですね、これは誰が考えたって善いことだ。これが誰が考えたって悪いことじゃ ないという、百パーセント納得出来る一つのアクションというのがあるんですね。 例えば、今度の食料の配給にしても、冬越し出来ない人が何万人も居て、生きて 冬越し出来ない人がいる中で、この人たちを助けるという行為は、どんな人が見 ても納得出来る。それに向かって、みんな一致してやるということは十分可能な んですね。

迫田:  空爆があって、自分の身も危険だから、どちらかと言えば逃げたいとか、そうい うふうに思うのではないかと、普通は考えますよね。そういう人たちがたくさん いるわけですよね。

中村:  ええ。それが殆どだろうと思います。しかし、中には男気と言いますか、それを 出して、こんな時こそ自分たちの同胞のために頑張らなくちゃという人も稀では ないんですね。それこそボランティアで、爆撃の中で、大変だと思えましょうが、 やっぱりそのことによって、たとえ自分が死んでも、ほんとにたくさんの人が助 かるんだということは、人を励ますんですね。テロリストみたいに、自爆行為で、 政治的な目的を達するということも出来ますけれども、それは逆にも出来るわけ ですね。自分の命を冒して、他人(ほか)の命が助かるという気持は、そのこと事態が生 き甲斐になることも勿論あるわけですね。下手をすると、これがまた軍隊で悪用 されたり、ということもあるでしょうけれども、やはりそういう気持は大切にし なくちゃいけないと思うんですね。

迫田:  その井戸掘りですけれども、大干魃がここ二年位あって、今もまだ続いているん ですね、この空爆の最中に。

中村:  勿論そうですよ。辛うじて水が出た村は、それで生き延びているというのが実状 ですね。

迫田:  そもそも医療活動をされてきた中村さんが、何故、それこそ井戸掘りというまっ たく違うところに、手を付けなくてはならなかった、やろうと 思われたわけですか。

中村:  これは医療以前の問題ではありますが、突き詰めれば、医療と いうのは命を取り扱う仕事でして、水というのは、人間が生存 していく上で欠かせないものなんですね。そういう意味も込め て、兎に角、あの時は酷かったですね。医者がこんなことを言 ったらいけませんが、「病気は後で治せるからともかく生きて おりなさい」という状態だったんですね。その中で井戸掘りと、 清潔な水を得るという活動が始まったんですね。

迫田:  でも、「井戸を掘る」と言っても、簡単じゃないですよね。

中村:  そうですね。地層によって違うと思うんですけどね。大抵人が 集まるところは、清潔な井戸水というのはあるんですね、どこ に行っても。ところがそれも涸れるということは、その伝統的 な方法だけでは、住民も手が付けられないような状態になって いるということなんですね。庭石はまだいい方で、どうかする と、自動車の大きさ位の石がゴロゴロ出てくるんですよ。そこ まで突き当たりますと、つるはしとシャベルでは歯が立たない というところで、我々の出番になったんですけどね。
 
迫田:  何か機械でやったりするわけですか?

中村:  そうですね。いろいろ工夫してみましたが、結論的にいうと、 ドリルで穴を開けて、その中に火薬を入れまして、それで粉砕 するという形で、大抵のやつはそれで刳(く)り貫けましたね。アフガニスタンで問題 になっている地雷、それからロケット砲の不発弾、

迫田:  それはソ連製、ということですか。

中村:  前のアフガン戦争時代に、そんなのがあちこち落ちているんですね。それをどう いう経路か、我々も知りませんが、上手に持って来て、穴を開けて、火薬を取り 出して、爆発物は、我々の仲間は扱い慣れていますから。戦争中はソ連軍の戦車 を吹き飛ばしたりしていた人たちが、今、爆薬を使って、岩を吹き飛ばして、井 戸の穴を掘っているわけですね。端から見ていると、非常に愉快でね、それは。

迫田:  今までの戦いの手段を、逆に平和の方に。

中村:  ええ。平和利用するということですかね。

ナレーター: 中村さんがペシャワールでの活動を始めた のは、ソビエト軍が進攻したアフガニスタン で、戦乱がもっとも激しい時期でした。戦禍 を逃れ、六百万人が難民となりました。当時 ハンセン病の根絶計画に取り組んでいた中村 さんは、難民キャンプにさまざまな感染症に 苦しむ人がいる現実を、目のあたりにしまし た。感染病や多くの感染症の治療には、難民 が帰還した後の事態を想定した、長期計画が 必要でした。難民たちが戻る多くの村には医 者はいません。そこに診療所を開くことを考 えた中村さんは、内戦の続くアフガニスタン の山岳部へと、調査に入りました。危険が伴 う調査に同行してくれたのは、難民として、 パキスタンに逃れてきたアフガン人たちでした。ゲリラとして銃を持って戦う経 験をした人々が、故郷に診療所を開くという計画に参加したのです。内戦が終わ る日を夢見て、医療技術を学ぶアフガン人スタッフ。それは辛い戦いの記憶を希 望に変えていく歩みでもありました。

迫田:  中村さんご自身、そういう方と出会ったり、 難民キャンプで診療されて、何を思われたん ですか。

中村:  大抵の難民は、難民援助の対象にならないよ うな人たち、即ち国境地帯に、殆ど外国人が入らないような地域で、細々と暮ら しておった人たちが大部分のような気がしましたね。

迫田:  そこへ自分の今まで住んでいた所を追われて、というか、住めなくなって、出て 行ったわけですよね。

中村:  そうですね。当然強い望郷の念と言いますか、いつかは国に帰るんだという、希 望にしがみついて、一日一日を生き延びていた、と。一言で言えば、そういう現 実でしょうね。しかも救援物資はまともに届かない。自活せざるを得ない。その ために、少し技術のある人はペシャワールに出稼ぎに行くだとか、或いは、労働 に従事して、お金を得るだとか、麻薬を売るだとか、敵を襲撃して武器を奪って 武器を売るだとか、家族を養うために、そういう生活を強いられていたわけです ね。初めは生活の仕方を見て、戸惑いを覚えましたけれども、一歩中に入ってみ ると、やはり家庭の中に入れば、良きお父さんであり、良きお母さんであり、良 き息子であるわけですね。それを考えると、何となく割り切れない思いがしまし たね。

迫田:  「割り切れない」といいますと?

中村:  家の中では、我々が共有出来るような温かい気持を持っているのに、一歩外に出 て、平和な家庭生活を守るためには、人を傷付けざるを得ないような仕事もせざ るを得ないという。そのあたりの矛盾とでも言いますか、それを思いましたね。

迫田:  それで具体的な活動としては、どういうふうに進んでいくことになるんですか。

中村:  私の、ですか?

迫田:  はい。

中村:  私たちの場合は、目的が非常にはっきりしていて、医療ということですから、医 療チームを育成して、その先程言ったような、無医地区での医療計画というのを 明らかにして、協力者を次々と募っていくという形で、「誰か手伝う者、おらん か」ということで、「ああ、いいですよ」と言って、まあ付いて来る人たち。

迫田:  難民キャンプで声を掛けるわけですか?

中村:  大っぴらに声を掛けるわけじゃなくて、纏めてもらった所で、「こういう話はある けど、誰かおらんか」というと、「では、私がやりましょう」と。こういうほんと の意味のボランティアが必ずいるんですね。別な言い方をすると、やる気のある 人と言いますか、そういう人を集め、少しずつ増やしながら、活動を広げていっ たということですね。

迫田:  しかし、そういうところにいたという人、と いうことは、つまりアフガニスタンから逃れ たり、かつては戦ったりした人たちであるわ けですか?

中村:  大半はそうですね。ゲリラと言っても、これ も誤解があるんで、アフガン戦争中のゲリラは、政治党派のゲリラはむしろ少数 派ですね、殆ど村人が同時にゲリラだったんですね。お百姓さんであると同時に ゲリラだった。つまり自分の国を荒らす、国というよりは故郷を荒らす者に対し ては、立ち向かう、と。こういう人をゲリラと呼ぶなら、うちのスタッフのかな りはゲリラだったですね。

迫田:  どうして一緒に仕事をするようになったんですか?

中村:  動機はですね、やはり戦うだけでは食っていけなくなったので、就職ということ で来たんですが、だんだんうちの方針に共感してくるようになった人もおります。

迫田:  やっぱりさまざまな、いろんな戦争の思いとか、傷みたいなものを抱えているわ けですよね。

中村:  そうですね。だから、逃げて来たすぐ、と言いますか、うちに就職してすぐのア フガン人というのは、例外なく暗い顔をしていましたね。それは肉親が殺され、 それからスタッフ自身がゲリラの戦士として働いておって人を殺す。人を殺すと 暗い顔になるんですね。そういう疚(やま)しい思いを抱えてくる。悲しい思い出を抱え て来るというのはありましたね。特に歴戦の強者(つわもの)ほど暗い顔をして来る。普通は、 仲間同士で集まれば英雄なんで話しますけども、独りになるとほんと暗い顔をい ているんですね。

迫田:  その辺のどんなふうに心情が変わっていくのかということを少しお話頂けます か?

中村:  そうですね。暗さばっかりを同情したり、議論したって始まらないんですね。そ れまで、常に前線に立っていた勇敢なのがおりました、確かに。こういう人は、 もうみんな嫌気がさしているんですね。殺したり、殺されたり、もう血生臭いこ とに。しかし、そこに人間のイデオロギーと言いますか、人間の考えることの恐 ろしさというのがあるわけで、宗教的に、「これが聖戦だ」とか、「これは正義の なんとかである」と言われると、それに従わざるを得ないような気がしてくる。 しかし、どうしてもやっぱり割り切れないというのは、常に鬱積して出てくるわ けですよね。「殺した」という事実は、後まで重たく残ってくるわけですね。その 時に、それを解消する形、平たくいうと、罪の償いと言いますか、それを求めざ るを得ないというのが、普通の人間じゃないですかね。

迫田:  中村さんは、実際にどういうふうに声を掛けたり、どういうふうに具体的に接す るわけですか?「これをしなさい」とかと言うんですか?

中村:  仕事上では、「お前、あそこへ行って、あの仕事をして、こういうトレーニングを 受けて」という形で、細々(こまごま)と指示を出しますけども、僕は、一切、政治宗教の話 はしない。そういう人に対しては、それなりの任務を与える。例えば、乱暴者な らば、ともかく、「お前は先頭に立って、一所懸命やれ」と。「いろんな抵抗があ るだろうが、それによって、アフガニスタンの再建が出来るんだ」ということで、 建設的な方向に振り向けることは出来る。殺した分だけ助けるというふうな、そ れは露骨に言いませんけれども、命を大切にするような仕事の方に向けさせてい くということで、その疚(やま)しい気持というのは、希望に変わっていくんですね。そ こで、「お前、何故殺したとか」と責めたりとか、或いは、「それは辛い経験だっ たでしょうね」と、一緒に沈み込んだりするんじゃなくて、「おーい、何している。 ぼやぼやせずに、あれせ、こうせ」と。そういう希望の方に向けさせていく。「向 けさせる」というと、傲慢な感じがしますけれども、そういうふうに向けば向く ものなんですね。それがまた逆にエネルギーになっていく、ということは確かに ありますね。

迫田:  「希望」というのはどういう?

中村:  希望というのは、自分の仕事を通じて、他の人の命も助かるだろう、と。これは、 例えば、溺れかけた人を、あなたが助けた としますよね。その時にやっぱり嬉 しいでしょう。その喜びはやはり医療関係者なら分かるんですね。死ぬ筈の人が、 自分がこうしたがために、その人が助かったというのは、これは嬉しいことなん ですね。そういう体験を積み重ねていくと、そこに自分のやっていることが、こ うやって人の命が助かることに繋がっていくんだ、という希望になっていく、と いうことは確かにある。

中村:  それはやっぱり平和の方がいいと思っていることですよね。

迫田:  それはそうですよね。少なくとも、闇雲に人殺しはしないものでして、平和状態 になって、みんな農作業が忙しくなってくると、かえって武器をぶら下げている のは嫌われたり、という状態になってきましたね。

迫田:  何年か活動されて居て、やっぱりそうなんだ、と思われた瞬間みたいなものがお 有りなんですか?

中村:  それは、忘れられないのはですね、あれは一九九二年五月か、 難民が自発的に、二百万人位帰ったことがあったんですね。
 
迫田:  難民キャンプからアフガニスタンに?

中村: ええ。七ヶ月の間に。七ヶ月に、ですよ。二百七十万人のうち、 二百万人がですね、UNCHR(国連難民高等弁務官事務所) が少し手伝いましたけれども、殆ど独力と言っていい、独力で 帰ったんですね。その前に湾岸戦争があって、各国のNGO(非 政府協力団体)三百団体ですか、引き上げた後に、爆発的な難民の帰還が始まっ た。

迫田:  つまりNGOが難民の帰還を手伝おうと思って入ったけども、湾岸戦争で帰って しまった、と。その後、難民の人たちが自分たちで─。

中村:  自分たちで帰り易い条件が出来たという判断で、あの時は主に、農村が戦場でし たから、お百姓さんが殆どでしたけども、そういう人たちが、一遍に二百万人で すよ、独りでに帰ったんですね。ライフルなんか捨てて、鍬を持って畑を耕し始 めたんですね。あの時は感動的でしたね。

迫田:  それは何かある瞬間を誰かとお話されたり、 何かを見て、そう思われたわけですか。

中村:  ちょうどその頃、私は、難民が帰ることを見 越して、診療所を立ち上げる準備を内戦中か らしていたんですね。その時に、実際に帰っ て来て、今まで荒れて空き家だった村が、次 々に人が住むようになった。田圃もほんとに荒れ地だったのが、次々と水田が復 活していくというようなのを見ていて、気持が良かったですね。あの頃、前線で 勇敢に戦っていた人々は、もう殆ど人が変わったように、平和な一(いち)家庭人と言い ますか、お父つぁさん、お兄さんになっていきましたね。

ナレーター: 難民たちの帰還に備えて、一九九二年、中村さんたちのアフ ガニスタン最初の診療所が、ダラエ・ヌール渓谷に作られまし た。出来て間もない診療所に、悪性マラリアの猛威に苦しむ人 々が押し寄せました。診療所はパニックに陥ります。薬を求め る人々の波を前に、中村さんたちの医療活動は、大きな試練に 直面することになりました。

中村:  あれは一九九三年ですが、マラリアが大流行して、私たちのカバーしている地域 というのは、精々七十万か八十万人位のエリアなんですね。その中で死亡を確認 した者だけで五千数百人、

迫田:  マラリアで?

中村:  マラリアで。あれは凄かったですね。みんな家族が次々と死んでいくんですよ。 悪性マラリアという奴で、免疫がない状態で流行(はや)りますと、死亡率が非常に高い んですね。そのために村々がパニック状態に陥って薬を取りに来る。薬を取りに 来るのはいいけれども、我々朝から晩まで働いても、精々二百数十名というのが 限界なんですね。だから、何日も何時間も歩いて、家族を助けに来た人も、遅れ て辿り着くと、「すみません。明日にして下さい」と言わざるを得ない。そうする と、やっぱり不安に駆られた方は、「薬をよこせ」と言って、投石を始める。投石 ならいいけども、あの当時、内戦の直後でしたから、みんな数十人が死亡する程 度の戦闘というのは、もう慣れっこになっているんですね。だから、そのうち飛 び道具が飛んでくる。殉職したことがあったんですね。

迫田:  スタッフがですか?

中村:  正確にいうと、協力者。準スタッフとでも言いますかね。死んだことがあった。

迫田:  それは撃たれて。

中村:  ええ。弾に当たってですね。向こうは復讐社会なんですね。で、これは日本の人 々には分かり難いんですが、現地の法律を支えている、法律と言いますか、現地 社会を、しっかり人間関係を支えている要素というのは、二つあって、一つは、 「客人のもてなし」。例えば、「敵であっても助けを求めてくる者は、これは死ん でも守る」と。もう一つは、「目には目を。歯には歯を」という復讐風ですね。こ れはこの人間の基本的な人間関係のしきたりをなしているわけですね。だから、 二人やられれば、二人殺し返すというのが、大体現地の慣わしなんですね。とい うか、それをしないと、我々にとって恥になる、という社会なんですね。だから、 私が言ったのは、「発砲するな!」と。みんな気が触れたのかと思ったんですよ ね。

迫田:  「発砲するな」と言ったことについて?

中村:  こっちは発砲して、二名を血祭りにあげないと、現地の社会では受け入れられな い。その時に、対抗出来ないことはなかったんですね。周辺に協力者がたくさん いたから。それを止めまして、「撃っちゃいかん!」と。「みんな本当か」という 顔をして、僕の顔を見たのをよく覚えているんですよ。現地ではそういうことは ないですからね。「ほんとですか?」と。「ほんとだ」と。「でも、皆殺しになっ てもですか?」というから、「皆殺しになっても、撃っちゃいかん」ということを ハッキリ言ったことがある。流石にシーンとなりましてね。

迫田:  それは、だって、撃たれた側にしては、今度はそうしたら、仕 返ししようと思いますよね。

中村:  ダラエ・ヌールのケース─マラリアのケースの場合は、私たち はちょうど山間部のモデル診療体制─感染症中心とする一般診 療ですね。それの診療計画がやっと緒(ちょ)についたばかりだったん ですね。これ位のことで潰しちゃいかんというのが、僕の考え で─。

迫田:  「これ位のことで」というのは?

中村:  これ位のこと、というのは、語弊がありますが、二人の命を決して軽いという意 味ではありませんが、たかがこれ位の出来事で、全体計画が潰れると、さらに犠 牲者が増えるわけですね、病気による。だから、「騒ぐな」と。我々は、あそこに 十七、八名だったと思いますが、十七、八名が死んだとて、あの頃、七、八十名 がまだペシャワールに残っていましたから、彼らが続けるだろう、と。しかし、 ここで我々が発砲して、銃撃戦になると、永久に計画が潰れてしまうわけですね。 ともかく、「皆殺しになっても発砲しちゃいかん」と。流石にシーンとなりまして ね。覚悟していましたが、結果的には、そっちの方が良かったんですね。それ以 上暴衆はなくなったんですよね。

迫田:  それは、「復讐するな」ということなんですか?

中村:  そういうことですね。これはそういう話だけ聞くと、恰好よく聞こえますけれど も、実際ですね、現実的な判断として、人間というのは誰でもそうで、人を殺し た後は必ず後悔の念が湧くものなんですね。その時に、自分はどうしてこんなこ とをしてしまったのか、という気持に必ず殺した方はなる。その時に、確かに我 々の無抵抗な者をやった、と。これも現地社会では恥になるんですね。それなら ば、仕事は続けられるだろう、と。しかし、ここで我々が撃ち返すと、当然相手 も死にますから、どちらにとっても正義の戦いになってしまうわけですね。恰好 付きの正義の戦いになってしまう。そういう不毛な状況は好ましくない、と。人 間というのは不思議なもので、そういう時に、必ずしも錯乱状態になるわけでは なく、自分だけは、弾は当たらないのじゃないかと、楽天的な気持が湧いてくる こともあるんですね。

迫田:  格好良く言えば、その復讐の繰り返しみたいなものを断ち切る、ということです ね。

中村:  その時は、そこまで深く考えませんでしたけれども、結局、結果的に考えると、 そういうことなんですね。だから、「復讐するな」というのも、私は、たまたまク リスチャンですけども、聖書の中にも出ていますよね。だからあれは容易な言葉 ではないと、今考えると。あれはユダヤ社会の中の慣習法だったんですね、多分 ね。アフガニスタンと同じように。だから、慣習法をひっくり返すような、一つ の出来ないことをみんなに要求したわけですね。「復讐するな」というのは、成る 可く人間は仲良くしましょうね、というよう な甘いものではなかったんじゃないか、とい うふうな気がするわけですね。もっとシビア な意味があって、人間の作った掟を超えて、 なんかもっと本質的なところで一致しよう、 というハッキリしたものがあったような気が するんですね。結局、それで相手の襲撃も止 んだんですね。ダラエ・ヌール診療所は、そ の後マラリアでいろいろありましたけれど も、今でも続いています。今では、あそこは、 「リトル・ジャパン」と言っていい位、日本 人ならば、外国人とは思われない位とけ込ん でいるんですね。今度の干魃対策にしても、 ダラエ・ヌール発で、我々は、パスポート、 ビザなしで、あそこだったら自由自在に行け る、という位もうみんなと溶け込んでいい仕 事は一緒に出来るようになったんですね。
 
ナレーター: 医者の居ない山岳部に、診療所を開いてか ら、およそ十年。中村さんは、他の援助の手 が入らない、パキスタンやアフガンの辺地の 地域で、巡回診療を続け、新たな診療所を次 々と開設してきました。
片道何日もかかるような山奥の地域には、習 慣も言語も異なるさまざまな民族が暮らして います。将来、地域の人たちが、自らの手で 診療所を支えられるように、地元出身のスタッフを育てながら、 長く村々に根付く医療活動を目指しています。
村の長老たちが、中村さんの呼び掛けで集まってきました。大 事なことは、村の長老全員の合意で決定するという、地元の習 慣に従って、新しい診療所を開く計画について、話し合うため です。協力を約束してくれた長老たちに、中村さんは、建設予 定地まで、共に石を運ぶことを提案しました。その石は、これ から建設する診療所の礎となります。
国、民族、宗教の違いが生み出すさまざまな対立。中村さんの十八年は、繰り返 される対立を、一つ一つ超えていく歳月でした。

迫田:  人間への信頼みたいなものを失い掛けたことってありますか?

中村:  はっきり劇的な形ではないですけども、もうこいつらの顔を見るのは嫌だ、と思 ったことは、一時期ありましたね。

迫田:  どういう時ですか?

中村:  それは、ハンセン病棟の担当している時に、ハンセン病棟にくる人たちというの は、既に障害があって、社会から半分捨てられたような人が多いんですね。とこ ろがこの病棟の中に入りますと、今度は病棟の中でもまた差別があるんですね。 より障害が少ない人の方が、障害の強い人に対して優越感を持てる。患者の中で も、多数派の民族の人は、少数派の民族に対して優越感を持つ。その中でまた差 別と言いますか、あるんですね。そういうのを見ていると、なんか嫌気が差して きた、ということが、一時ありましたね。

迫田:  それでも人間への信頼を失わないで、ずうっと十八年間活動されてこられたのは、 どうしてですか?

中村:  これは、「嫌になった」と言っても、こっちの気分もあるんで、解消というよりは、 大抵、現地で働く日本人を見て居て、必ずそういう時期というのがあるんですね。 初めはいいところが目に付くんですよ。ああ、仲良くやっていこう、と。それか ら悪いところが目について、もう顔を見るのも嫌だ、と。それも過ぎると、良い ことと悪いことは、これは分離出来ないんだ、と分かってくるんですよ。美点が 同時に欠点になり、欠点が同時に美点になる、ということは、人間誰しもあるわ けで、そこまで我慢していることが解決法ですね。これは単に、それだけ言えば、 如何にも階層的に、虐(いじ)めの構造が重なっているように思いますけども、不思議と、 じゃ、虐めのかたまりか、というと、そうじゃなくて、ほんとにその人が困って いる時は、助けたりもするんですね。その辺が人間の複雑なところで、抑圧者と 非抑圧者という、単純な割り切り方ではちょっと違う、という面はありますよね。 例えば、そうやって下に見られていた人が、ある時ですね、足が萎(な)えて立てなく なった。すると、みんなで抱えて、ちゃんとドクターの所へ連れてきたり、あの 頃は医療スタッフが居なかったですから、私が手術した後でも、みんなが心配し て寄って来て、「彼奴(あいつ)はどうだ」と言って来たり、そういうことが、一人の人間の 中に同居しているんですね。例えば、この自分が虐められてきたものだから、他 人を虐めることでストレスを解消する。しかし、困るとやっぱり気になって助け る、と。こういう複雑なものなんですね、人間というのは。

迫田:  実際、ダラエ・ヌール診療所を作る過程で、最初からみんなが一致団結して、や ろうという感じになっていたんですか。

中村:  いや。ほんとは違うでしょうね。理念上と言いますか、頭の上では、確かにこれ は正しいことだから、一緒にやろう、と思いますけれども、例えば、カブールと いう大きな街から来た人は、田舎の人に偏見を持っている。また同じ田舎の人で も、平地の人と山の人ではお互い違うんですね。偏見とは言わないまでも、交渉 がないがためのある種の壁とでも言いますかね。

迫田:  理解がない?

中村:  そういうのはありましたね。それで不必要に怖がったりとかする。ダラエ・ヌー ルというのは、パシャイーという少数の山岳民族が住んでいますけれども、「あそ こに行くのか。あそこは人さらえの巣窟だ」とかと、みんな偏見を持っているわ けですよ。ところが実際行って見ると、何でもない。みんな普通の人なんですね。 何でもないという、体験をさせることが大事なんですね。そのためには実際的な 仕事、そこで文化の違いだとか、そういう議論をせずに、ズバリその状況におい てやらせて見ることですよね。そうすると、自然に取れてくるんですね。当たり 前のことですが、人間は二本の足で歩いて、目が二つあって、鼻が一つで、変わ らないわけですね。手術したって、肺が二つあって、胃袋が一つあって、これも 変わらないわけですね。だから、それはニュートラルな医療技術を断固実施する ということで、みんなそれに向かって集まって来ますから、その中でなんだ同じ じゃないか、という実体験が生まれてくるでしょうね。

迫田:  ずうっとやって来られて、多分、確信みたいなものをお持ちなんだと思うんです ね。何か民族や文化やいろんなものが違う中でも、ずうっと何か共通して守れる ものとか、何かそういうものがあると、確信を持って続けて来られたんじゃない かと思いますが。

中村:  何か人間らしいものがあるじゃないですか。これは言っていることは正しいけど、 という、冷たい感じを持つこともありますよね。そうじゃなくて、僕は言いたい のは、アメリカ人が聞いても、日本人が聞いても、アラブ人が聞いても、なんと なく温かくなるような、納得出来るような、人間らしい感じというのは、やっぱ り共通なものがあると思うんですね。それに訴える、ということが、大事なよう な気がするんですね。毎日餓死者が出ている難民キャンプでも、子どもは明るか ったし、みんな行けば、「お茶飲め」。饅頭はありませんけども、「飯食って行け」 と。何もないんですよ。小麦粉を焼いたこんな薄い小さなナーンを、みんなでち ぎって食べるんですね。それでもやっぱりそういうものがあるから、食事が少な いということは、カロリー量が足らないでしょうけれども、気持は豊かな感じは しましたね。

迫田:  難民の人たちに食事を分けて貰ったわけですね(笑い)。

中村:  そうですね。そういうこともありましたね。ただ、僕は日本に帰っても、今、他(ひ) 人(と)がこうやってチヤホヤしたり、或いは、「先生」と言って尊敬してくれる。自分 が、もし金がない、お医者さんという地位がない、取り柄がない、という時に、 この人は、僕に対してどういう態度を取るだろうか、ということで、つい見ます ね。その時に、やっぱりそこで、「この人は、自分がどうなっても同じように接し てくれるだろうな」「親切にしてくれるだろうな」と、その気持を私は信じます ね。それは続いていくだろう、と思います。

ナレーター: 中村さんも、アフガニスタンやパキスタンでの十八年に及ぶ活動に、共感を抱 く人々が、今続々と、「ペシャワール会」に募金を寄せています。干魃による飢餓 や、空爆に苦しむ人々を助ける、「アフガンいのちの寄金」には、この一ヶ月でお よそ一万五千件の善意が集まりました。 善意の寄付にはアフガンでの戦乱や飢餓に心を痛める人々の言葉が添えられてい ます。

ペシャワール会員:これが一日分ですね。この袋です。

ちっちゃな子どもさんを持った方なんか、そういう気持を自分の子どもに重ねたり、或い は、昔の人は昔の自分が苦しかった時代に重 ね合わせたり、そういうふうなことが書いて ありますね。なんというんですかね。食べ物 がないというのは辛いですね、ほんとに。

私もそういう体験しました。私も小さい時にやっぱり戦後子どもだったですけど ね。戦後の頃、だからそれから分かるんじゃないでしょうかね。

  これは、平成十三年十一月二十五日に、NHK教育テレビの「こころの時代」で放映されたものである。

6 099 中村哲「アフガニスタンの診療所から」(ちくまプリマーブックス:1993) 感想5

2017年08月30日 22時31分50秒 | 一日一冊読書開始
8月30日(水):      

202ページ     所要時間6:00      アマゾン260(3+257)円

著者46歳(1946生まれ)。福岡市生まれ。九州大学医学部卒。PMS(ペシャワール会医療サービス)総院長。1984年パキスタンのペシャワールに赴任、現在に至るまでハンセン病を柱に貧困層の診療に当たる。89年からアフガニスタンに活動範囲を広げ、2000年からは大旱魃に対して、井戸1300本を掘ると共に大規模な潅漑用水路も建設中。

1978年、32歳でティリチ・ミール遠征隊参加。道々、病人たちを診ながらキャラバン。1979年、33歳、夫婦でペシャワールからカイバル峠へ。1984年、38歳で家族とともに「らい根絶計画」のため、ペシャワールに着任。1988年、ソ連軍撤退。1989年43歳、アフガニスタンに活動を延長。1991年45歳、湾岸戦争勃発。1992年46歳、怒涛のアフガン難民帰還が本格化。

著者の著作の特徴だが、ただ冷静に事実が書き連ねられ、その時々の思いや感じたことを書いているだけなのだが、著者の価値観、視点がぶれない座標となって記されることによって、かなり踏み込んだ厳しい見方が出てきたりする。ハッとさせられるが、問題は読者の側、日本や欧米的近代社会の視点の側にあるのであって、よく読めば著者の座標は全くぶれていない。そして、改めて「そうだよなあ」と深く教えられることになる。

当初、感想4と思っていたが、理屈を超えた内容や事実の本というのはやっぱりあるのだ。ボランティア活動について、また国連をはじめとする国際社会の援助活動について、わかっていてつもりでいたのが、じつわわかっていなかったことを思い知らされる。著者は騒がずに、静かにひたすら挑戦的医療活動にのめり込んでいく。

本書には著者と、彼を支えるペシャワール会の現地スタッフと日本のスタッフの活動が記されているだけである。風呂敷を広げた大言壮語は一切出てこない。ある意味狭い範囲の実践の記録である。世界のごく一部の記述であるが、「この本の中に人間として必要な知恵のすべてが語られている」と読みながら思った。

読了後、ほとんどすべてのページに貼られた付箋と引いた横線を見ながら、感想5以外は考えられなかった。この本の描かれた約10年後、数百年に一度あるか無いかの大干ばつがアフガニスタンを襲い、著者はさらなる大きな挑戦として用水路開削工事に挑戦していくのだが、本書の内容を見れば、著者ははじめから全くぶれることなく「患者本位」でひたすら挑戦を繰り返していたことがよくわかった。

若き中村医師の活躍を記した本書は、これはこれですごく興味深く読めた。また、後の著作では、当たり前として簡単に記されている著者の考え方、立ち位置、スタンスが本書ではより明瞭に説明し、語られていて大変新鮮で良かった。

本書の内容について、梗概をもう少しきちんと書けたらいいのだが、俺の調子が良くないので書けない。ただ、本書の内容については太鼓判を押します。中村哲医師は、<知の人>ではなく、明確に<情の人>である。<知の人>であれば、結果だけ知れば終わるが、<情の人>の本については、結果がわかっていても、その時々のその人の<情>、どんなことを思い・考えたのかを何度でも読み返すことができる。繰り返すが、本書の感想は5である。これは、今後何度読み返しても感想5であり続けると思う。本書は<情の人>が書いた<真理の書>である。

【目次】 帰郷ーカイバル峠にて/縁ーアフガニスタンとのかかわり/アフガニスタンー闘争の歴史と風土/人びととともにーらい病棟の改善と患者たちとのふれあい/戦乱の中でー「アフガニスタン計画」の発足/希望を求めてーアフガニスタン国内活動へ/平和を力へーダラエ・ヌール診療所/支援の輪の静かな拡大ー協力者たちの苦闘/そして日本は…/あとがき

【内容紹介】*「アフガニスタン」では、貧困、内乱、難民、近代化による伝統社会の破壊、人口・環境問題など、発展途上国の悩みすべてが見られるだけでなく、数千年を凝縮したさまざまな世界がそのまま息づいています。近代化された日本でとうの昔に忘れ去られた人情、自然な相互扶助、古代から変わらぬ風土-歴史の荒波にもまれてきた人々は、てこでも動かぬ保守性や人間相応の分とでもいうべきものを身に付けています。「アフガニスタン」に象徴される発展途上国の実情を紹介し、動乱の中で現地の一般庶民がどう感じ、どう生きてきたか、そこから見える日本と「欧米国際社会」の光景や国際協力のひとつの現実を伝え、私たちの脚下をかえりみます。
*幾度も戦乱の地となり、貧困、内乱、難民、人口・環境問題、宗教対立等に悩むアフガニスタンとパキスタンで、ハンセン病治療に全力を尽くす中村医師。ペシャワールで「らい根絶治療」にたずさわり、難民援助のためにアフガニスタンに診療所を開設、現地スタッフを育成して農村医療・らい治療に力をつくす1人の日本人医師。貧困、政情不安、宗教対立、麻薬、戦争、難民。アジアのすべてが凝縮したこの地で、小さな民間の支援団体がはたす国際協力の真のあり方が見えてくる。

6 098 原作とんたにたかし、漫画鈴木マサカズ「ダンダリン一〇一」(講談社:2010)感想4+

2017年08月30日 02時23分51秒 | 一日一冊読書開始
8月29日(火):  

304ページ     所要時間2:30     アマゾン251(1+250)円

全6話。労働基準監督官の物語り。面白かった。センスも良い。どこまで事実を反映してるのかはともかく、一読の価値十分にあり!

【内容説明】 労働基準監督官。彼ら/彼女らは、労働者の保護を職務とする「労働Gメン」だ。
芸南労働基準監督署に着任したカリカリ女・段田凛(29歳、三十路手前)とグータラ男・土手山郁夫は、従業員を使い捨てにする悪い社長をガツンガツン摘発していく。
  知られざる労働基準監督官の活躍と七転八倒を描くこの物語は「はたらく人」必見! デフレ・ニッポンが切望した新ヒーロー、ついに降臨!!
  労働基準監督官は、労働者の保護を職務とする、いわば「労働Gメン」だ。なかでも段田凛と先輩・土手山のコンビは極端に熱心。タチの悪い社長には逮捕で臨むなど、監督官の権限を限界まで使い切るほどイケイケだ。彼ら監督官の活躍と七転八倒を描くこの作品は、「はたらく人」必見の新ヒーロー物語だ。


150329 タガ外せば歯止め失う 長谷部恭男・早稲田大学教授/「未来志向」は現実逃避 杉田敦・法政大学教授

 杉田 先日ドイツのメルケル首相が来日しました。戦後ドイツも様々な問題を抱えていますが、過去への反省と謝罪という「建前」を大切にし続けることで、国際的に発言力を強めてきた経緯がある。「建前」がソフトパワーにつながることを安倍さんたちは理解しているのでしょうか。  / /長谷部 そもそも談話が扱っているのは、学問的な歴史の問題ではなく、人々の情念が絡まる記憶の問題です。記念碑や記念館、映画に結実するもので、証拠の有無や正確性をいくら詰めても、決着はつかない。厳密な歴史のレベルで、仮に日本側が中国や韓国の主張に反証できたとしても、問題はむしろこじれる。相手を論破して済む話ではないから、お互いがなんとか折り合いのつく範囲内に収めようと政治的な判断をした。それが河野談話です。  / /杉田 談話の方向性や近隣との外交について「未来志向」という言い方がよくされますが、意図はどうあれ、それが過去の軽視という「見かけ」をもってしまえば、負の効果は計り知れない。安倍さんたちは、未来を向いて過去を振り払えば、政治的な自由度が高まると思っているのかもしれません。しかし政治の存在意義は様々な制約を踏まえつつ、何とか解を見いだしていくところにあります。政治的な閉塞(へいそく)感が強まる中で、自らに課せられているタガを外そうという動きが出てくる。しかし、それで万事うまくいくというのは、一種の現実逃避では。  / /長谷部 合理的な自己拘束という概念が吹っ飛んでしまっている印象です。縛られることによってより力を発揮できることがある。俳句は5・7・5と型が決まっているからこそ発想力が鍛えられる。しかし安倍さんたちは選挙に勝った自分たちは何にも縛られない、「建前」も法律も憲法解釈もすべて操作できると考えているようです。  / /杉田 俳句は好きな字数でよめばいいのだと。  / /長谷部 あらゆるタガをはずせば、短期的には楽になるかもしれません。しかし、次に政権が交代したとき、自分たちが時の政府を踏みとどまらせる歯止めもなくなる。外国の要求を、憲法の拘束があるからと断ることもできない。最後の最後、ここぞという時のよりどころが失われてしまう。その怖さを、安倍さんたちは自覚すべきです。 =敬称略(構成・高橋純子)朝日新聞『考論』

0015 オルテガ「大衆の反逆 (桑名一博訳;久野収解説)」(白水社イデー選書;1930)評価5

以下は、オルテガ所論の久野収による抜粋の抜粋である:///  オルテガによれば、政治のなかで「共存」への意志を最強力に表明し、実行していく政治スタイルこそ、自由主義的デモクラシーである。共存は、強い多数者が弱い少数者に喜んで提供する自己主張、他者説得の権利である。敵、それも最も弱い敵とさえ、積極的に共存するという、ゆるがない決意である。/その意味で、人類の自然的傾向に逆行する深いパラドックス(逆説)であるから、共存を決意した人類が、困難に面してこの決意を投げ出すほうへ後退したとしても、それは大きな悲劇ではあっても、大きな不思議とするには当たらない。/「敵と共存し、反対者と共に政治をおこなう」という意志と制度に背を向ける国家と国民が、ますます多くなっていく1930年代、オルテガは、「均質」化された「大衆」人間の直接行動こそが、あらゆる支配権力をして、反対派を圧迫させ、消滅させていく動力になるのだという。なぜなら、「大衆」人間は、自分たちと異類の非大衆人間との共存を全然望んでいないからである。略。///  「大衆」人間は、自分たちの生存の容易さ、豊かさ,無限界さを疑わない実感をもち、自己肯定と自己満足の結果として、他人に耳を貸さず、自分の意見を疑わず、自閉的となって、他人の存在そのものを考慮しなくなってしまう。そして彼と彼の同類しかいないかのように振舞ってしまう。/彼らは、配慮も、内省も、手続きも、遠慮もなしに、「直接行動」の方式に従って、自分たちの低俗な画一的意見をだれかれの区別なく、押しつけて、しかも押しつけの自覚さえもっていない。/彼らは、未開人―未開人は宗教、タブー、伝統、習慣といった社会的法廷の従順な信者である―ではなく、まさに文明の洗礼を受けた野蛮人である。文明の生み出した余裕、すなわち、贅沢、快適、安全、便益の側面だけの継承者であり、正常な生存の様式から見れば、奇形としかいいようのないライフスタイルを営んでいる新人類である。略。///  「自分がしたいことをするためにこの世に生まれあわせて来た」とする傾向、だから「したいことは何でもできる」とする信仰は、自由主義の自由の裏面、義務と責任を免除してもらう自由にほかならない。/われわれは自由主義の生みだした、この「大衆」人間的自由、自己中心的自由に対し、他者と共存する義務と責任をもった自由を保全しなければならないが、一筋縄でいかないのは、この仕事である。(160626:イギリスEU離脱について思うところ=もみ=)