もみさんの一日一冊遊書録( 2011年9月1日 スタート!: メメント・モリ ) ~たゆたえど沈まず~

年とともに人生はクロノロジー(年代記)からパースペクティブ(遠近法)になり、最後は一枚のピクチュア(絵)になる

150215 衆参両院の「テロ非難決議」を非難する!「テロの本質」を真面目に語る政治家はいないのか!

 真面目に「テロの本質」を考えれば、その原因が、決して宗教の違いにあるのではなく、世界的に広がる富の偏在、極端な格差拡大、差別構造の継承、及びパレスチナ問題、それらによる<若者たちの絶望>にあることは、実は誰もがわかっていることだろう! それを「世界には凶悪なテロリストが大勢いて、こいつらを叩き潰せばテロが無くなる」なんて話に無理やりすり替えている。誰も、「テロの本質が、日本・世界の社会構造が抱える富の偏在・格差の拡大及びパレスチナ問題の<野放し状態>にこそある」という本質を語らないし、見させようとしない。そして、凶悪なテロリストへの恐怖ばかりを煽りたてている。これはまさにオーウェルの「一九八四年」の世界と同じだ。今回の国会の「テロ非難決議」に社民党・共産党まで加わっていたのには、あきれ果てた。「誰も本質を見ようとしない。」「武力で世界中の<絶望した若者たち>を封じ込めるべきではないし、不可能だ!」

秋原葉月さん「Afternoon Cafe」ブログから

※(1)「もちろん、普通の人間は戦争を望まない。しかし、国民を戦争に参加させるのは、つねに簡単なことだ。とても単純だ。国民には攻撃されつつあると言い、平和主義者を愛国心に欠けていると非難し、国を危険にさらしていると主張する以外には、何もする必要がない。この方法はどんな国でも有効だ」byヘルマン・ゲーリング ※(2)いつの時代も大衆をファシズムに煽動する手口は同じ。なのに同じ手口に何度も騙されるのは過去に学んでいないから。格差を広げ、セイフティネットを破壊し、冷徹な自己責任論が横行する社会を継続させるのは簡単だ。今よりもっと格差を広げ、セイフティネットを破壊する政策をとればよい。そうすれば人々に自己責任論がもっと浸透し、草の根から勝手に右傾化してくれる。

辺見庸さんのブログから

・権力をあまりに人格的にとらえるのはどうかとおもう。口にするのもおぞましいドブの目をしたあの男を、ヒステリックに名指しでののしれば、反権力的そぶりになるとかんがえるのは、ドブの目をしたあの男とあまり変わらない、低い知性のあらわれである。権力の空間は、じつのところ、非人格的なのだ。だからてごわい。中心はドブの目をしたあの男=安倍晋三であるかにみえて、そうではない。ドブの目をしたあの男はひとつの(倒錯的な)社会心理学的な表象ではありえても、それを斃せば事態が革命的に変化するようなシロモノではない。権力には固定的な中心はなく、かくじつに「われわれ」をふくむ周縁があるだけだ。ドブの目をしたあの男は、陋劣な知性とふるまいで「われわれ」をいらだたせ、怒らせるとともに、「われわれ」をして社会心理学的に(かれを)蔑視せしめ、またそのことにより、「われわれ」が「われわれ」であることに無意識に満足もさせているのかもしれない。ところで、「われわれ」の内面には、濃淡の差こそあれ、ドブの目をしたあの男の貧寒とした影が棲んでいるのだ。戦争は、むろん、そう遠くない。そう切実にかんじられるかどうか。いざ戦争がはじまったら、反戦運動が愛国運動化する公算が大である。そう切実に予感できるかどうか。研ぎすまされた感性がいる。せむしの侏儒との「ふるいつきあい」がベンヤミンのなにかを決定した。そう直観できたアレントほどするどくはなくても、研ぎすまされた感性がいる。けふコビトがきた。ミスドにいった。(2015/11/11)

151010 NHK「私が愛する日本人へ ~ドナルド・キーン 文豪との70年~」感想5 ノーベル賞は谷崎だった!

2015年10月10日 23時00分40秒 | 映画・映像
10月10日(土):  
NHKスペシャル「私が愛する日本人へ ~ドナルド・キーン 文豪との70年~」(午後9時00分~9時58分放映)を見るともなく見ていたが、意外なほど手厚く丁寧に作られていた。文化勲章受章者。録画してるので、もう一度ゆっくり見ようと思う。

【番組ナビゲーター】渡辺謙
【ドラマ出演】川平慈英、篠井英介、斉藤由貴、南野陽子、温水洋一、パトリック・ハーラン、木下隆行、蛭子能収(順不同)ほか


1963年(昭和38年)にドナルドキーンさんは、ノーベル文学賞委員会に1位谷崎潤一郎、2位川端康成、3位三島由紀夫で推薦をしていた。谷崎潤一郎(1886年(明治19年)7月24日 - 1965年(昭和40年)7月30日)が、あと少し長く生きていれば、1968年(昭和43年)のノーベル文学賞は川端康成ではなく、谷崎潤一郎が受賞していただろうことを再確認できた。

内容紹介:「日本人と共に生き、共に死にたい――」東日本大震災の直後、日本国籍を取得したアメリカ生まれの日本文学研究者、ドナルド・キーンさん(93歳)。キーンさんは戦後70年に渡って、日本の文学の魅力を世界に伝え続けた。吉田兼好から太宰治や三島由紀夫までを次々と英語に翻訳。キーンさんの功績なしに、日本文学が世界で読まれるようにはならなかったとも言われ、その見識の高さからノーベル文学賞の審査に影響を与えたほどだ。太平洋戦争の最中、敵国・日本の情報分析係として日本語を身につけたキーンさんは、戦場で出会った様々な日本兵の姿から日本人に深い興味を抱いた。そして戦後、文学者となったキーンさんは、幾度となく滞在した日本で、数多くの文豪たちとの交流を重ねながら「日本人とは何者なのか」という壮大な問いを考え続けてきた。番組では、ドラマとドキュメンタリーを交差させながらキーンさんの波乱に満ちた歩みを描き、キーンさんが長い時間をかけてたどり着いた日本人への暖かくて厳しいメッセージを伝えてゆく。

以下に、ドナルド・キーンさんの読書記録を再掲する。

「110冊目 ドナルド・キーン「日本の面影」(NHK人間大学4月-6月;1992) 評価5」
                         2011年12月27日 07時44分34秒 | 一日一冊読書開始
12月26日(月):
130ページ  所要時間:5:35
  著者70歳、コロンビア大学教授。速読どころか、お勉強をしてしまった。著者は先日89歳で、日本に骨を埋める意志で帰化(国籍取得)して、日本人となられた、<日本文学・文学史>の生き字引の碩学ドナルド・キーン大先生。
  非常にわかりやすい説明で、頭にすらすら入ってくる。本の帯文「日本文学のさまざまな流れや作家と作品などの話を中心に、日本人の論理と感性、日本人の伝統文化と現代社会など、キーン教授が愛する「私の日本」を語る。」     
目次:
  第1回 日本と私=最初の出会いは『源氏物語』の翻訳(18歳)。中国語の勉強から日本語へ。1942年、海軍の日本語学校入学、11ヶ月集中授業後、海外で軍務。書類・日記の翻訳。沖縄戦は一番悲劇的体験。京都大学留学(2年間)。
  第2回 「徒然草」の世界―日本人の美意識=随筆は、エッセイとは違い、東洋的な文学。徒然草243段は、ある家の壁に貼ってあった。今川了俊が発見、整理。暗示性(余情)、象徴主義。不規則性、いびつへの嗜好。偶数嫌い、7・5・3が好き。簡素(白木の美)。
  第3回 能と中世文学=京都今熊野社での17歳の義満と11歳の世阿弥の出会いが決定的事件。義満の庇護。舞台装置は影向(ようごう)の松のみ。能の象徴性。シテ(中心人物)、ワキ(観衆のためにシテに質問するだけの人)、ツレ、子方;囃子方(笛、小鼓、大鼓、太鼓)、地謡(誰でもない8人)。能の台本「謡い」は多層的で素晴らしい文章(一番翻訳しにくい)。題材は『平家物語』の悲劇が多い。夢幻能(幽霊)と現在能(現実の人間)。世阿弥の時代の能は今の2倍のスピード。遅くなったのは、徳川時代の権威付けによる。;狂言=太郎冠者(頭のいい召使い)、大名(威張って失敗する人)、女性(全部悪人)、僧侶(エラクない)。面白さは、話の筋と独特の発声法。
  第4回 芭蕉と俳句=芭蕉はキーン氏にとって最高の詩人。俳句は完成した詩型として世界で最も短い。芭蕉の俳句は、発句であって明治の俳句(正岡子規が発明)とは違う。紀行文もよい。非常に翻訳しにくい。俳句は、取り替えのできない言葉を用いるのが鉄則。ユーモア。俳句第二芸術論(桑原武夫)には反対。
  第5回 西鶴の面白さ=中世の憂き世から江戸の浮き世へ。西鶴の一番は「好色物」だが義務教育ではNG。西鶴は写実主義的、近松はロマンティック。「町人物」のテーマは、金持ちになること。「武家物」は失敗。
  第6回 近松と人形浄瑠璃=平安の傀儡子たちは、西アジアの外国人。クグツは外国語。近松は世界的な劇作家、世話物(普通の庶民の悲劇)が断然面白い。『曽根崎心中』の道行き「この世の名残り夜も名残り、死ににゆく身をたとふれば、仇しが原の道の霜、一足づつに消えてゆく、夢の夢こそ哀れなれ」は名文。万国共通でオというのは悲しい音。イは高い音で、むしろ華やか。
  第7回 近代文学1―漱石と鷗外=二葉亭四迷(ロシア語翻訳家)の言文一致は大きい。漱石の「道草」は私小説だが、読むと本当に暗くなるので要注意。
  第8回 近代文学2―谷崎と川端=谷崎は意地の悪いサディスティックな女性が好き。関東大震災で作風が変わる。「細雪」が最高峰。ノーベル賞を受賞すべき作家だった。川端はもともと前衛文学者、一番の傑作は「雪国」だが、何度も書き直している。男性をあまり書けない。キーン先生は谷崎・川端・三島と直接深く付き合っている。
  第9回 近代文学3―太宰と三島=大宰の「斜陽」は20世紀日本文学の最高傑作のひとつ。40歳自殺。太宰と三島の本質は同じ。逆に三島は太宰を毛嫌い、作風が重ならないようにした。最高峰は「金閣寺」、最大の作品は「豊饒の海」四部作。45歳自殺。おそらく神武天皇以来、外国で最も知られてる日本人は三島由紀夫である。それは自決事件のせいではない。
  第10回 日本人の日記から1―子規と一葉=日記文学というジャンルは日本だけ。「更級日記」「成尋阿闍梨母集」、阿仏尼「うたたね」、「とはずがたり」、芭蕉の紀行文。一葉の「たけくらべ」は傑作だが、日記も素晴らしい。23歳死去。子規は短歌・俳句よりも日記が最高にいい、「墨汁一滴」「病しょう六尺」、特に本音は「仰臥漫録」(自殺念慮まで記述)。
  第11回 日本人の日記2―啄木、荷風、有島武郎=啄木は天才だったという他ない。啄木が焼き捨てるように遺言した「ローマ字日記」は鷗外・漱石を凌駕する面白さ・傑作。日記の比較だと「子規は近代人、啄木は現代人」。27歳病死。戦争非協力を貫いた荷風の日記「断腸亭日乗」。有島武郎は学習院で大正天皇のご学友。札幌農学校進学は周囲を驚かせた。有島の日記「観想録」
  第12回 古典と現代―「源氏物語」を中心に=日本文学の際立った特徴①時間的継続性(時代的切れ目がない文学)、②源氏物語の影響力の巨大さex.源氏名。日本料理の席での美的宇宙の創造。手紙の料紙・墨の濃淡・字の形すべてにこだわる。<ますらおぶり>より<たおやめぶり>のほうが強い。
  第13回 日本文学の特質=余情の文学。主観の文学。座の文学。美術との密接な関係。特殊性より普遍性が強い。 
※12月27日(火)に見直して、追加・整理しました。参考になれば、うれしいです。
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151010 琉球新報、安倍改造内閣「失望」の二文字しかない/佐藤優、島尻新沖縄担当相は存在自体が日本の恥

2015年10月10日 22時04分57秒 | <憲法の危機>は「戦後最大の危機」
10月10日(土):  
琉球新報【社説】安倍改造内閣 「失望」の二文字しかない  2015年10月8日 6:01
  新鮮味が薄いだけでなく、沖縄にとっては不安な布陣としか言いようがない。第3次安倍改造内閣の顔ぶれのことだ。
  政権運営の継続性を重視する首相の立場から、主要閣僚がほぼ留任した。中でも沖縄基地負担軽減担当を兼任する菅義偉官房長官、岸田文雄外相、中谷元・防衛相の留任には「失望」の二文字しか浮かばない。
  いずれも辺野古新基地建設を強引に推し進める人物ばかりだ。新内閣でも沖縄の民意と向き合うつもりはないと宣言したに等しい。
  沖縄担当相に島尻安伊子氏を起用したことも同様だ。

  県関係・選出議員では1991年の伊江朝雄氏、93年の上原康助氏、2012年の下地幹郎氏に次いで4人目となる。女性では初めての大臣就任となる。
  沖縄から中央に直接通じるパイプができたことは喜ばしい。ただ島尻氏の過去の発言を見ると、懸念も禁じ得ない。
  島尻氏は2010年参院選で普天間飛行場の「県外移設」を公約に掲げながら、13年には公約を翻して辺野古移設容認を表明した。
  辺野古移設阻止を掲げる稲嶺進名護市長に対して「権限の乱用」と中傷し、辺野古での市民の反対運動を弾圧するかのように政府に対策を促したこともある。

  基地問題だけでなく、国内外をターゲットにした経済・観光振興など沖縄には課題が山積している。
  沖縄にとって時代の転換点ともいえる重要な時期だけに、島尻氏は国の代弁者としてでなく、地元の視線で働いてもらいたい。
  沖縄は非正規雇用や待機児童の多さなど生活に密着した課題もある。かつて選挙戦で「台所から政治を変える」と宣言した島尻氏は、真に生活者の視点に立って課題解決に取り組んでもらいたい。
  一方で屋上屋を架すような人事も首をかしげる。
  首相肝いりの「1億総活躍」担当相は地方創生や経済再生など他の大臣と所管が重複する可能性もある。看板倒れにならないか見極めたい。
 「1億総活躍」にも通じるが、首相から「女性登用」など聞き心地のよい言葉を連ねる例が目立つ。内閣改造には安保関連法やTPPといった批判や疑問が多い政策から、国民の目をそらす政権の意図が見え隠れする。国民本位と言うならば、まずは国民、沖縄県民と向き合う姿勢を首相は示すべきだ。


リテラ島尻新沖縄担当相佐藤優が「存在自体が日本の恥」「吐き気をもよおす」と激怒! その理由とは?  2015.10.10.
  「いったいなぜこの人選なんだ?」。トンデモ議員だらけの面子に批判と疑問の声が絶えない内閣改造人事だが、とりわけ疑問視されているのが、沖縄北方担当相に抜擢された島尻安伊子氏だ。
  島尻氏は2004年の参院選沖縄選挙区に無所属(自公推薦)で出馬・初当選後、自民党に入党。安倍首相が目玉として掲げる「女性の活躍推進」のひとりとして当選2回でありながら起用された。
  中央メディアでは「地元選出の議員だから」という認識しかされていない島尻氏だが、県民の8割が普天間基地の辺野古移設反対と答えている沖縄では彼女への不信感はすこぶる根強い。
  たとえば2014年2月、島尻氏は国会質疑のなかで、稲嶺進名護市長が辺野古移設を阻止すると主張していることについて「政治目的から行政の権限を濫用することは地方自治法上問題だ」と批判。さらに、住民らの反対運動に対しては「危険な行為に先んじて対策を打つことが必要」などと“反対運動の予防拘禁”と取れる提言を行い、沖縄メディアは大きく問題視した。
  のちに島尻氏は沖縄紙の取材に対し「事前に反対運動を取り締まれという趣旨ではない。反対活動家、業者側の双方に不慮の事故が起こらないよう警備をしっかりすることが重要だ」と釈明したが、ようするに“沖縄県民は黙って国策に従えばよい”という考えを持っているのは明白だ。
  実は、こうした島尻氏の発言に対し、立て続けに苛烈な批判を行っていた人物がいる。元外務省主計分析官で作家の、佐藤優氏だ。
  佐藤氏は、前述の島尻発言の直後から、「アサヒ芸能」(徳間書店)での連載で、島尻氏が宮城県出身で沖縄にルーツをもたないこと、04年に民主党公認で那覇市議補選で初当選した翌年に離党し、自公推薦で参議院議員になったこと、そして、普天間に関しては10年参院選で「沖縄県外移設」を公約に掲げて再選したが、13年には公約破棄し辺野古移設容認へ転じたことなどを示したうえで、こうこき下ろしている。
  〈島尻氏の釈明は支離滅裂で説得力がまったくない。「危険な行為に先んじて対策を打つ」というのは、まさに「事前に反対運動を取り締まれ」ということだ。糞に「綺麗な」という形容詞をつけて「綺麗なウンコ」と言えば、世の中は納得すると思っているのだろうか? このような低レベルの釈明をする国会議員が存在すること自体、日本の恥だ〉(同誌2月27日号)
〈吐き気をもよおすような下品な政治屋だ〉(同3月6日号)

  かなり直接的で苛烈な言い回しだが、佐藤氏の“怒り”は論理的に“筋”がとおっている。最近発売された『沖縄と本土』(朝日新聞出版)に寄稿した文章のなかで、佐藤氏はこのように書いているのだ。
  〈日本本土と沖縄との米軍基地負担比率は、52年の時点で9対1。72年の沖縄返還前後で5対5。いまでは1対3になり、沖縄の基地負担が年を追うごとに重くなっていったことがわかる。その理由は、主権を回復した日本本土において反基地闘争が厳しくなったことで、日本国憲法下になく、アメリカが自由に振る舞える沖縄に基地を移していったからだ。普天間基地の海兵隊はもともと山梨と岐阜に駐留していた。
  日本本土に置かれた米軍基地という面倒な施設は沖縄にもっていく。そして日本本土は平和と繁栄を維持した。こうした戦後の歩みの違いが、沖縄と日本本土との間の「ねじれ」を生み、それが構造的な差別になった。構造化されているがゆえに、中央政府には沖縄に対する差別が見えないのだ〉

  しかし、佐藤氏が指摘する沖縄への構造的差別について、島尻氏は沖縄紙の取材でこう答えている。
  〈沖縄への米軍基地の集中について「構造的差別」との指摘があることに対しては、「差別には全く当たらない。本土と沖縄の間に誤解があれば解くべきだ」〉(琉球新報14年2月7日付「社説」)。
  ようするに島尻氏は沖縄にある構造的な差別をまったく意識できていないのだ。おそらくこうした島尻氏の政治的鈍感さが、佐藤氏は許せないのだろう。
  佐藤氏は我々が考えている以上に、沖縄の基地問題における政府と沖縄の断層を深刻に捉えている。
  〈中央政府が沖縄に対する構造的差別に気づかないまま、強圧的な対応を続けていると、いずれ沖縄は自己決定権に基づいて行動するようになるだろう。そうなると中央政府は、都道府県という形での日本国の統合を維持できなくなる。踏み込んで言えば、現時点で既に統合は崩れていると思う。国家統合が機能していれば、辺野古移設という中央政府の決定を、沖縄県という一自治体がここまで抵抗してサボタージュすることはないからだ〉(前述『沖縄と本土』)
  そうしたうえで、考えられるシナリオとして、“埋め立て強行後の本格的な不服従運動による沖縄人と日本人の関係の緊張”がもたらす“分離独立運動の蜂起”を予見する。そして「もし、沖縄が独立することになったら」として、こう記すのだ。
  〈日本全体が相当な混乱に陥るだろう。沖縄にある米軍基地は日本の抑止力維持のためには使えなくなる。日本は自前で抑止力を維持するのか、アメリカにさらに大きく安全保障を依存するのかの選択を迫られる。そのときの政治状況を想像してみてほしい。実は、事態はその一歩手前まで来ているように私には見える〉
  〈現在の沖縄と中央政府との緊張が孕む本質的なテーマは、日本の国家統合が維持できるかどうかということなのだ〉(同前)
  つまり、佐藤氏は、日本の統治の問題として、沖縄に対する中央政府のゴリ推しがもたらす弊害を冷静に述べているのだ。
ゆえに、島尻氏の問題発言にも敏感に反応し、徹底した批判を加えたのだろう。
  そしてあれから1年、島尻氏が沖縄担当相に就任したことで、佐藤氏が再び島尻批判を強めることは間違いない。メディア関係者の間では、佐藤氏が島尻氏の急所を握っていて、それを暴露するのではないか、といった観測も流れている。
  というのも、佐藤氏は「アサヒ芸能」14年4月17日号の連載で、こんな宣言をしていたからだ。
  〈東京では無名だが、沖縄では悪名高い島尻安伊子参議院議員(自民党)が、何を勘違いしたのか、「佐藤優氏は私に恨みがあるのか!」というメールを送っている(筆者は証拠をこの目で見た)。
  島尻さんよ、あんたも政治家だ。俺とは面識がある。何度か嫌々ながらあんたとメシを食ったこともある。文句があるなら裏で画策せずに正面から言ってこい。公の場で、いつでも討論に応じる。ちなみにあんたとあんたの周辺(心当たりがあるだろう)の種々の事案については、複数の友人を通じて調査を始めている。すでに興味深い情報が入っているので、公開討論の場で真相を聞いてみたいと思っているよ〉
  沖縄を“捨て石”にすることしか考えていない新大臣の正体が暴露される日は近いかもしれない。  (宮島みつや)
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151010 室井佑月「野党のみなさんへ」

2015年10月10日 21時42分04秒 | <憲法の危機>は「戦後最大の危機」
10月10日(土):

週刊朝日室井佑月「野党のみなさんへ」  2015年10月16日号
  安全保障法案の成立により、批難の集まる野党。「安倍自民の暴走」を止められなかった彼らに本誌でコラム「しがみつく女」を連載する作家・室井佑月氏は、失望を表す。
*  *  *
  3週前のこのコラムで、この国の国民は売られていく子どもみたいなものじゃないか、という話を書いた。3週間経って、その思いはかなり深まった。嫌だけどさ。
  結局、この国のトップたちが心配し大事にしてるのは、もらわれていく先のご主人の下での、自分のこれからの生活だけかも。
  ご主人のお子様の遊び相手にされるのか、馬番にされるのか。うちら国民は、彼らが馬番になったらそれ以下確定ってことで。ちょっと古いけど、漫画のキャンディ・キャンディの出だしみたいだよ。
  あの漫画の主人公のキャンディはモテモテで、ラスト、大富豪のアルバートさんといい感じで終わる。彼女が愛され成功したのは、決してくじけず、確固たる自分を持った人間だったからだ。
  わかる? この嫌み。ま、自公の方々は屁とも感じないだろうし、民主の方々は気づかないんだろうな。
  これから先の展開について、あたしは怯えている。そして、岡田民主の鈍さにイラついている。
  なぜ、民主党は共産党の提案「国民連合政府」の呼びかけにすぐ乗らないのだ。安倍自民の暴走を止めてくれという国民の声がいちばん大切じゃないのか。
「どう?」と聞かれたら、「国民のために、こっちから呼びかけようと思っていたところ」ぐらいいってくれっつーの。
  心配だ。安倍政権の暴走を止めることを、国民が諦めてしまうのじゃないかと。諦めた国民は、国民同士でパイの奪い合いをはじめる。馬番の主人の下での、過酷な争いがはじまる。
  この国のトップたちは、その上の主人たちの下での身分や資産の争いだけど、そんな彼らの下にいるあたしたちは、食っていけるか生きていけるかどうかの争いになってしまうかも。そうなったらもう、誰も声をあげられっこない。毎日、誰が潰されるのかと震える家畜のようになる。自分や自分の家族の生き残りを図って、仲間を売るものも出てくるだろう。

  妄想が激しすぎる? けれどあたしは、そんなこともないと思う。安倍さんが安保法成立後に出してきた「アベノミクス新3本の矢」。スローガンだけでぜんぜん中身がないけれど、会見のとき記者は誰も突っ込まなかった。世の中の流れに目ざといメディア人は、大きな力には逆らっても無駄、そう諦めてしまったようで。そして、世の中の雰囲気が作られていく。
  あたしたち個人個人は弱いから、完全に雰囲気が作られたら、もう力には絶対に刃向かえない。だから、デモに出かけたり、SNSで意見をいったり、多勢がまだ声をあげられる今が肝心なんだと切実に思う。多勢が崩れたら、そこで終わりだ。

  野党議員のみなさんは、あたしたちへの声をダイレクトな自分たちの応援かなんかだと勘違いしてないか?
  それこそ今あたしたちは、我々と協力し合おう、そう呼びかけているのに。
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150329 タガ外せば歯止め失う 長谷部恭男・早稲田大学教授/「未来志向」は現実逃避 杉田敦・法政大学教授

 杉田 先日ドイツのメルケル首相が来日しました。戦後ドイツも様々な問題を抱えていますが、過去への反省と謝罪という「建前」を大切にし続けることで、国際的に発言力を強めてきた経緯がある。「建前」がソフトパワーにつながることを安倍さんたちは理解しているのでしょうか。  / /長谷部 そもそも談話が扱っているのは、学問的な歴史の問題ではなく、人々の情念が絡まる記憶の問題です。記念碑や記念館、映画に結実するもので、証拠の有無や正確性をいくら詰めても、決着はつかない。厳密な歴史のレベルで、仮に日本側が中国や韓国の主張に反証できたとしても、問題はむしろこじれる。相手を論破して済む話ではないから、お互いがなんとか折り合いのつく範囲内に収めようと政治的な判断をした。それが河野談話です。  / /杉田 談話の方向性や近隣との外交について「未来志向」という言い方がよくされますが、意図はどうあれ、それが過去の軽視という「見かけ」をもってしまえば、負の効果は計り知れない。安倍さんたちは、未来を向いて過去を振り払えば、政治的な自由度が高まると思っているのかもしれません。しかし政治の存在意義は様々な制約を踏まえつつ、何とか解を見いだしていくところにあります。政治的な閉塞(へいそく)感が強まる中で、自らに課せられているタガを外そうという動きが出てくる。しかし、それで万事うまくいくというのは、一種の現実逃避では。  / /長谷部 合理的な自己拘束という概念が吹っ飛んでしまっている印象です。縛られることによってより力を発揮できることがある。俳句は5・7・5と型が決まっているからこそ発想力が鍛えられる。しかし安倍さんたちは選挙に勝った自分たちは何にも縛られない、「建前」も法律も憲法解釈もすべて操作できると考えているようです。  / /杉田 俳句は好きな字数でよめばいいのだと。  / /長谷部 あらゆるタガをはずせば、短期的には楽になるかもしれません。しかし、次に政権が交代したとき、自分たちが時の政府を踏みとどまらせる歯止めもなくなる。外国の要求を、憲法の拘束があるからと断ることもできない。最後の最後、ここぞという時のよりどころが失われてしまう。その怖さを、安倍さんたちは自覚すべきです。 =敬称略(構成・高橋純子)朝日新聞『考論』

0015 オルテガ「大衆の反逆 (桑名一博訳;久野収解説)」(白水社イデー選書;1930)評価5

以下は、オルテガ所論の久野収による抜粋の抜粋である:///  オルテガによれば、政治のなかで「共存」への意志を最強力に表明し、実行していく政治スタイルこそ、自由主義的デモクラシーである。共存は、強い多数者が弱い少数者に喜んで提供する自己主張、他者説得の権利である。敵、それも最も弱い敵とさえ、積極的に共存するという、ゆるがない決意である。/その意味で、人類の自然的傾向に逆行する深いパラドックス(逆説)であるから、共存を決意した人類が、困難に面してこの決意を投げ出すほうへ後退したとしても、それは大きな悲劇ではあっても、大きな不思議とするには当たらない。/「敵と共存し、反対者と共に政治をおこなう」という意志と制度に背を向ける国家と国民が、ますます多くなっていく1930年代、オルテガは、「均質」化された「大衆」人間の直接行動こそが、あらゆる支配権力をして、反対派を圧迫させ、消滅させていく動力になるのだという。なぜなら、「大衆」人間は、自分たちと異類の非大衆人間との共存を全然望んでいないからである。略。///  「大衆」人間は、自分たちの生存の容易さ、豊かさ,無限界さを疑わない実感をもち、自己肯定と自己満足の結果として、他人に耳を貸さず、自分の意見を疑わず、自閉的となって、他人の存在そのものを考慮しなくなってしまう。そして彼と彼の同類しかいないかのように振舞ってしまう。/彼らは、配慮も、内省も、手続きも、遠慮もなしに、「直接行動」の方式に従って、自分たちの低俗な画一的意見をだれかれの区別なく、押しつけて、しかも押しつけの自覚さえもっていない。/彼らは、未開人―未開人は宗教、タブー、伝統、習慣といった社会的法廷の従順な信者である―ではなく、まさに文明の洗礼を受けた野蛮人である。文明の生み出した余裕、すなわち、贅沢、快適、安全、便益の側面だけの継承者であり、正常な生存の様式から見れば、奇形としかいいようのないライフスタイルを営んでいる新人類である。略。///  「自分がしたいことをするためにこの世に生まれあわせて来た」とする傾向、だから「したいことは何でもできる」とする信仰は、自由主義の自由の裏面、義務と責任を免除してもらう自由にほかならない。/われわれは自由主義の生みだした、この「大衆」人間的自由、自己中心的自由に対し、他者と共存する義務と責任をもった自由を保全しなければならないが、一筋縄でいかないのは、この仕事である。(160626:イギリスEU離脱について思うところ=もみ=)