もみさんの一日一冊遊書録( 2011年9月1日 スタート!: メメント・モリ ) ~たゆたえど沈まず~

年とともに人生はクロノロジー(年代記)からパースペクティブ(遠近法)になり、最後は一枚のピクチュア(絵)になる

150215 衆参両院の「テロ非難決議」を非難する!「テロの本質」を真面目に語る政治家はいないのか!

 真面目に「テロの本質」を考えれば、その原因が、決して宗教の違いにあるのではなく、世界的に広がる富の偏在、極端な格差拡大、差別構造の継承、及びパレスチナ問題、それらによる<若者たちの絶望>にあることは、実は誰もがわかっていることだろう! それを「世界には凶悪なテロリストが大勢いて、こいつらを叩き潰せばテロが無くなる」なんて話に無理やりすり替えている。誰も、「テロの本質が、日本・世界の社会構造が抱える富の偏在・格差の拡大及びパレスチナ問題の<野放し状態>にこそある」という本質を語らないし、見させようとしない。そして、凶悪なテロリストへの恐怖ばかりを煽りたてている。これはまさにオーウェルの「一九八四年」の世界と同じだ。今回の国会の「テロ非難決議」に社民党・共産党まで加わっていたのには、あきれ果てた。「誰も本質を見ようとしない。」「武力で世界中の<絶望した若者たち>を封じ込めるべきではないし、不可能だ!」

秋原葉月さん「Afternoon Cafe」ブログから

※(1)「もちろん、普通の人間は戦争を望まない。しかし、国民を戦争に参加させるのは、つねに簡単なことだ。とても単純だ。国民には攻撃されつつあると言い、平和主義者を愛国心に欠けていると非難し、国を危険にさらしていると主張する以外には、何もする必要がない。この方法はどんな国でも有効だ」byヘルマン・ゲーリング ※(2)いつの時代も大衆をファシズムに煽動する手口は同じ。なのに同じ手口に何度も騙されるのは過去に学んでいないから。格差を広げ、セイフティネットを破壊し、冷徹な自己責任論が横行する社会を継続させるのは簡単だ。今よりもっと格差を広げ、セイフティネットを破壊する政策をとればよい。そうすれば人々に自己責任論がもっと浸透し、草の根から勝手に右傾化してくれる。

辺見庸さんのブログから

・権力をあまりに人格的にとらえるのはどうかとおもう。口にするのもおぞましいドブの目をしたあの男を、ヒステリックに名指しでののしれば、反権力的そぶりになるとかんがえるのは、ドブの目をしたあの男とあまり変わらない、低い知性のあらわれである。権力の空間は、じつのところ、非人格的なのだ。だからてごわい。中心はドブの目をしたあの男=安倍晋三であるかにみえて、そうではない。ドブの目をしたあの男はひとつの(倒錯的な)社会心理学的な表象ではありえても、それを斃せば事態が革命的に変化するようなシロモノではない。権力には固定的な中心はなく、かくじつに「われわれ」をふくむ周縁があるだけだ。ドブの目をしたあの男は、陋劣な知性とふるまいで「われわれ」をいらだたせ、怒らせるとともに、「われわれ」をして社会心理学的に(かれを)蔑視せしめ、またそのことにより、「われわれ」が「われわれ」であることに無意識に満足もさせているのかもしれない。ところで、「われわれ」の内面には、濃淡の差こそあれ、ドブの目をしたあの男の貧寒とした影が棲んでいるのだ。戦争は、むろん、そう遠くない。そう切実にかんじられるかどうか。いざ戦争がはじまったら、反戦運動が愛国運動化する公算が大である。そう切実に予感できるかどうか。研ぎすまされた感性がいる。せむしの侏儒との「ふるいつきあい」がベンヤミンのなにかを決定した。そう直観できたアレントほどするどくはなくても、研ぎすまされた感性がいる。けふコビトがきた。ミスドにいった。(2015/11/11)

3 036 唐沢寿明「ふたり」(幻冬舎文庫;1996) 感想3+

2013年12月01日 22時02分33秒 | 一日一冊読書開始
12月1日(日):

206ページ  所要時間 2:40    ブックオフ50円

著者33歳(1963生まれ)。好きな俳優さんなので、ブックオフで見つけた時に買っておいた本である。役者にも人生がある、という当り前のことを教えてくれる。

けっこう面白かった。読んでる途中、紋切調のこわばった文章なので、「これはきっとゴーストライターが取材しながら、まとめたんだろうな。そんなのバレバレだ」と思っていたら、最後に文章構成協力者の名前が出ていて、「あっさり認められちゃったなあ」って感じである。

ただし内容は、基本的に唐沢寿明に対する超ロングインタビューをまとめた訳であり、多少の脚色はあっても唐沢寿明の実話なので、一人のトップ俳優の半生記とも言えて興味深く読めた。

「ふたり」という書名は、唐沢と山口智子のことだと、ずっと思い込んでいたが、人生の節目に必ず手を差し伸べてくれる人との出会いがあり、「ふたり」だったこと。また、本名の唐沢潔(本当は陰気)と芸名の唐沢寿明(なじめない明朗さ)の「ふたり」の統合をめざした意味も込めた書名ということらしい。

唐沢さんは、中学で役者を志し、工業高校を2年生で中退。家も飛び出して、新宿で寝泊まりし、半ばホームレス化しつつ、役者の道に邁進し、あらゆる生活を役者になるために集約した生き方をした。十代後半から二十代前半に下積みと「金が無い」貧乏を舐め尽している。その間、仲間と劇団を立ち上げたり、芸能プロ(東映アクション・クラブ)やオーディションに出続けるがまったく芽が出ないで、辛酸を舐め尽している。映画『メイン・テーマ』野村宏伸、映画『優駿』緒方直人、映画『ダウンタウン・ヒーローズ』中村橋之助、他永瀬正敏、織田裕二らに次々負けていくのも、「ああこの世代なんだなあ」と思った。

陰気で暗い唐沢潔は、負けん気が強過ぎて、かえって役者として見られる自分に気づけるのが遅かった。それが、橋爪貴志子さんや、浅野ゆう子さんに出会い、芸名“寿明”を使い始め、やがて25歳でNHK純ちゃんの応援歌に出演、主演の山口智子(24歳)と共演し、8年間の交際につながる。その後、32歳で山口と結婚。山口智子は、役者である前に人間として、女性としてやはり格の違う魅力を放っていたようだ。唐沢が、彼だけに見せる山口の魅力を引き出していた部分もあるのだろう。

月並みだが、「若い時分の苦労は買ってでもしろ」というが、唐沢は典型的な「役者バカ」であり、決してサラブレッドでないが、役者への信念を持ち続けたことでチャンスを一気にものにできたのだと思う。TVドラマ『白い巨塔』に「幸運とは、チャンスに対して準備できていることだ」(だったかな…?)という言葉があったが、変幻自在とどこかしらの可笑しさを湛えながら唐沢寿明の演技には安定感・安心感を覚えるのはやはり、厳しい下積み時代を若さで乗り切った経験があったのだと納得できた。ただ、家族との関係については、やや壊れているような気がするが、これは彼の壊れた父親の影響かと思う。


※本日頑張りました。久しぶりに閲覧数400を超えました。
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131201 自民党幹事長石破茂よ、おまえもか!乱世の予感、一刻も早く中道・リベラル軸を再建せよ!

2013年12月01日 15時21分31秒 | <憲法の危機>は「戦後最大の危機」
12月1日(日):また愚だ愚だと書きました。

朝日新聞朝刊一面で「法案反対デモ「絶叫、テロと変わらぬ」石破氏 ブログで批判」という記事が出ていた。早速、石破茂のブログを調べたら、確かに以下のように出ていた。

「今も議員会館の外では「特定機密保護法絶対阻止!」を叫ぶ大音量が鳴り響いています。いかなる勢力なのか知る由もありませんが、左右どのような主張であっても、ただひたすら己の主張を絶叫し、多くの人々の静穏を妨げるような行為は決して世論の共感を呼ぶことはないでしょう。
 主義主張を実現したければ、民主主義に従って理解者を一人でも増やし、支持の輪を広げるべきなのであって、単なる絶叫戦術はテロ行為とその本質においてあまり変わらないように思われます。」(11月29日(金)石破茂ブログ)


彼は、何年国会議員をやっているのだろう。器の小さい政治家だ。安倍晋三よりは、もう少し知恵のある政治家だと思っていたのに…。自民党が野党だった時、彼はこんな発想をできただろうか? 数の驕りとしか言いようがない。この言葉を聞いて、最初に思い出したのは、大飯原発再稼働反対デモに対する野田汚物佳彦前首相の「大きな音だね」発言だ。まったく同種類・同根の発言だ。あの時、俺はこの発言で切れた!

民主的なデモを理解できない石破茂自民党幹事長の目から見れば、長年、米軍基地移設問題に激しく反対運動を続けている沖縄県民の行為は、「テロ行為」であり、沖縄県全体が「テロリスト」の巣窟に見えている、ということをいみじくも表明したことになるだろう。沖縄県の人々の怒りも悲しみも、今の自民党政治屋さんたちには、耳障りなノイズ、迷惑な騒音にしか聞こえないのだろう。議席数の驕りとは、本当に怖いものですねえ。

かつて橋本・森・小渕内閣の頃、自民党政権では、野中広務官房長官が誠心誠意沖縄問題に取り組んでいたと記憶するが、今の自民党には、沖縄が「テロリストの巣窟」と見えてるんですね。ますます名護市長選挙が楽しみになってきました。

民主主義は国会の中だけで行われるものではない。国会の外でも、司法の場でも、あらゆる場で行われるのが草の根の民主主義というものだ。暴力に頼らず、平和に行われているデモ行進を、音が大きいと言って政権政党の幹事長が「テロ行為と同じ」とレッテルを貼ったのだ。彼は、国民・市民をテロリスト呼ばわりしたのだ

現代社会で、「テロ行為」「テロリスト」というレッテルは、昔の「アカ(共産主義者)」、暴力団、ヤクザ等と同じ、社会の平穏を脅かす危険分子であり、弾圧のために如何なる手段をとってもよい存在として使われる名称だ。

政権政党自民党の幹事長が、より良い政治を求めて集まった何百・何千人の国民のデモを「テロ行為」と呼んだ意味は大きい。もはや石破茂に、政治家の資格はない。安倍晋三も選挙運動を批判した聴衆を「左翼の人たち」と言ったそうだ。

大事なことはデモも聴衆も正当な政治的行為であり権利である。そんな何百・何千人の国民・市民を「テロリスト」や「左翼の人たち」と呼んでいいのか。おまえさんらは、国民・市民を片っ端から捕まえるというのか?早くも、この政府に秘密保護法案の運用能力が無いことがばれてしまった形だ。

衆参両選挙での自民党の大勝は、安倍晋三の魅力でも、自民党への強い支持でもない。ただ野田民主党内閣のあまりのひどさから逃れたい気持ち、民主党内閣への嫌悪感の表れでしかない。

結果として、手にした圧倒的議席で暴走を始めた自民党に対して、今国民の多くが固唾をのんで注目し、「我々は、自民党に全権を任せたわけではない」という意志表示を始めているのだ。それを「テロ行為」「テロリスト」「左翼の人たち」と呼んだのでは、すでに自民党と国民・市民との意思疎通の可能性はなくなってしまっている。

大きくなり過ぎた権力は、かじ取りが難しい。ましてや、「維新」や「みんな」という下駄の雪までがぶら下がっては、元祖下駄の雪の「公明党」も黙っていないだろう。

もうアベノミクスという幻想も限界にきた安倍晋三内閣は、反原発、対中外交、秘密保護法案反対運動、沖縄米軍基地移設問題(恐らく名護市長選挙に自民党は負ける)、反集団的自衛権、反憲法改悪、反一票の格差、震災被災者への配慮の無さ、福島原発被災者の<棄民>化、賃金が上がらず、多くの社会保障が切り捨てられたままで、来年消費税の3%増税というさまざまな問題に向かわねばならない。

大変な状況を前に、最も大切なことは、難しい政治課題に対して政府が誠心誠意、丁寧に取り組んでいるという姿勢を示し、ならぬものはならぬで、引くべきところは引いて、優先順位を過たずに政治のかじを取ることしかない。

それなのに、野党分裂状態という特殊な状況に便乗して、国民の願いとかけ離れた特定秘密保護法案を無理やり<強行採決>して見せた。そして、今後この<強行採決>が繰り返される気配が強く感じられる。そんな中で、国民・市民の反対を叫ぶ声を政府が<テロ行為>と呼んだことの意味は大きい。

今、安倍政権と国民・市民の願いは、どんどん乖離している。反原発ひとつとり出しても、小泉元総理の反原発の声を上手く掬いあげられなければ、国民の支持は消える。沖縄名護市長選挙然り、消費増税然り。アベノミクスというトリクルダウン理論の化けの皮が剥がれた以上、もはや安倍政権の支持率が上がるのは、「即時原発ゼロ」宣言を除けば、「可能性ゼロ」だろう。そして、安倍晋三の知力・胆力いずれにおいても「即時原発ゼロ」に舵をきる能力はない。何せお御輿の“お坊ちゃま”ですから。

今後、民意を失った自民党は、3年後(2年半後か?)の衆議院選挙まで、多くの地方選挙で負け続けるだろう。何故なら、元々それが自民党の真の実力だったのだから、国政で国民・市民の意志表明をを「テロ行為」「テロリスト」呼ばわりすれば、「左翼の人」でなくても自民党に投票はしないだろう。

安倍自民党政権という大きくなり過ぎた船は、今やどこで座礁してもおかしくない。そしてもし保守反動的な政策を議席数で「やり逃げ」しようという姿勢が見えたなら、それこそが民主党野田汚物佳彦前政権の二の舞で、国民・市民から強烈な憎悪を受けるだろう。次期衆院選で、自民が大敗するのは明白だ。

だからこそ野党よ、今こそ「第二自民党」に決してならない<中道・リベラル軸の受け皿>を作ってくれ。地に足のついた「国民の生活が第一」の原点に戻って、非自民・非共産の第二極を作ってもらいたい。現在の民主党は、野田汚物・前原詐欺師のタカ派気取りの<第二自民党>色の強い保守政治屋グループと、横路や江田らベテランのいる中道リベラル路線の政治家グループとが、くっついていること自体が政治をわかり難くしているので、袂を分かって明確に分離すべきだと思う。そして、後者を中心に中道・リベラル軸を作るのだ。

もし分離できないのであれば、民主党はもう一度「鳩山内閣時代のマニフェスト」の原点に戻って、タカ派保守色を捨て、反原発・特定秘密保護法案撤廃を掲げ、国民・市民を二度と裏切らないことを鮮明にして、生活の党や社民党と連立グループを組み、新・民主党として再生することだ。社民党との連立は絶対条件だ。社民党と組めている限り、民主党が「第二自民党」化することはないし、沖縄や福島を<棄民>化することはないからだ。

俺が、弱者やマイノリティの人々にこだわるのは、彼らが大切にされる人権感覚の市民社会が実現すれば、きっとすべての国民・市民にとっても安心して暮らせる社会が実現できると考えるからだ。理想主義と笑う者は笑えばよい。<棄民>を容認し、愛国心を叫ぶ国家が、俺には恐ろしくて仕方がないのだ。

自民・公明・維新・みんなの巨大与党が、<強行採決>を繰り返し、市民のデモを「テロ行為」と呼んだことの意味は、意外と大きいのかもしれない。満ちれば欠ける道理である。俺は今まで、中国の崩壊による混乱の影響を恐れていたが、その前に巨大与党の崩壊による混乱の方が怖くなってきた。憲法・沖縄などこれ以上取り返しのつかないことにだけはなっては困るのだ。

※16:50 この件について、内田樹先生もブログでコメントされてました。読んでみてはいかが?
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3 035 内田樹「村上春樹にご用心」(ARTES;2007) 感想4

2013年12月01日 02時48分02秒 | 一日一冊読書開始
11月30日(土):

253ページ  所要時間 3:50      図書館

著者57歳(1950生まれ)。先日のNHK番組で武田鉄也さんが、著者の本は「お買い得ですよ」と言っていた。

本書は、村上春樹好きの著者が、ブログをはじめ、様々なところで村上春樹について書いてきた文章を、村上春樹をキーワードに検索して集約したものから選んで、加筆・修正したものを集めて一冊にしたものである。「気が付いたら、こんなに書いてました」というものである。

冒頭、いきなり2006年10月某新聞社から依頼された幻の「村上春樹、ノーベル文学賞受賞の祝辞」から始まる。色々な文章があるが、ブログや雑誌掲載の雑文が中心なので、ざっくばらんで気楽な読み物になっている。流し読みのつもりが、気の利いた部分をチェックしていたら、付箋だらけ読書になった。

村上春樹は、日本では、蓮見重彦ら正統文芸批評家たちから、一貫して排除され続けていたそうだ。理由は、日本の匂いがしない「無国籍」的作風を強く批判されてきたのだそうだ。村上作品の愛読者である著者は、「無国籍の何が悪い、世界中の国の人々が翻訳により共通体験として読める作品になってるのは良いことではないか!むしろ、村上作品がなぜ世界で受け入れられるのかを解明すべきなのに、それをする批評家がほとんどいないことの方が問題だ」と日本の批評家のあり方を批判し、例外として加藤典洋による村上春樹批評を評価している。

ジェイズ・バーは芦屋の国道二号線から少し入ったところに存在すると読んだ著者は、そこに居を構えている。

村上春樹は、日本でも指折りの翻訳家であり、かつ自作が外国で読まれることを前提に書く作家である。フランス文学者の著者は、フランス語訳の村上春樹作品を、村上風に翻訳して、原作と比べて俺の方が村上春樹本人より村上風であると喜んで見せたりする。

*こういう交話的なフレーズを、さりげなくかつ狙い済ましたタイミングで使うことができる作家だけが、読者を物語のうちにまたたくまに拉致し去ることができる。すぐれた作家の多くはこの種の「めくばせ」の巧者である。村上春樹もこの「めくばせ」の達人である。83ページ

*村上春樹はまず一気に最後まで書いて、それをもう一度頭から全部書き直すそうである。同一の書き手が同一の文章を二度書き直すと、そこには「一人でボーカルをオーバーダビングした」ときのようなわずかな「ずれ」が生じる。同一人物でありながら、二人の書き手のあいだに、呼吸にわずかな遅速の差があり、温度差があり、ピッチのずれがあり、それが「倍音」を作り出す。/この「倍音」が読者にとっては、「とりつく島」なのである。たぶんそうだと思う。/一人で一気にハイテンションで書くと、あまりに文章がタイトで緻密で「すきま」がなくなってしまうということが起こる。後世に破綻はなく、文体もみじんの揺るぎもないが、「とりつく島がない」文章というのが現にある。/そういうのはリーダブルな文章とは言えない。101ページ

*村上:何でもいいんだけど、うなぎが好きだから、だから僕は、自分と読者との関係にうまくうなぎを呼び込んできて、僕とうなぎと読者で、3人で膝をつき合わせて、いろいろと話し合うわけですよ。そうすると、小説というものがうまく立ち上がってくるんです。115ページ

*含羞は「バランスのよいバランスの悪さ」である。「すがすがしい負けっぷり」とか「生き生きとした死に方」とか「暖かみのある冷淡さ」とかそういうものと似ている。「バランスのよいバランスの悪さ」は人間の美質のうちで私がいちばん評価するもの一つである。162ページ

*「眼高手低」という。創造よりも批評に傾く人は、クリエーターとしてはたいした仕事はできない。略。私自身がそうであるからよくわかる。/「作家的才能」というのはそういうものである。努力とか勉強とかでどうこうなるものではない。/人間の種類が違うのである。作家と編集者の間には上下の格差や階層差があるわけではない。能力の種類に違いがあるだけである。けれども、これを人間的資質の差や才能の差だと思う人がいる。不幸な錯覚であるけれど、思ってしまったものは仕方がない。164~165ページ (村上春樹の原稿を売り払った編集者安原顯の行為をめぐって)

*「ものを書く」というのは、「バーを経営する」というのとそんなに変わらない、というのが村上春樹の考え方である。店に来た客のうち、「あ、この店いいな、また来よう」と思うのは十人に一人くらいである。その十人に一人に照準して店をやるのが、経営の要諦である。略。来る人は来る。来ない人は来ない。そういうものである。「ものを書く」のもそれと同じであると村上春樹は書いている。193~194ページ

*すぐれた小説はこの二つをいきなり接合してしまう。日常性と非日常性が気づかないうちに架橋される、その技巧の妙に作家の才能は発揮される。村上春樹はその技術において天才である。/現実的な小説を書く人はたくさんいる。奇想天外な小説を書く人はまれである。その中でも村上春樹の才能は突出しているといってよいと思う。250ページ

※目次:
極東のアヴァター~『羊をめぐる冒険』と『ロング・グッドバイ』/すぐれた物語は身体に効く/『冬のソナタ』と村上春樹/霊的な配電盤について/フランス語で読む村上春樹/太宰治と村上春樹/倍音的エクリチュール/うなぎくん、小説を救う/なぜ村上春樹は文芸批評家から憎まれるのか?/村上春樹とハードボイルド・イーヴル・ランド/ハーバーライトを守る人/100パーセントの女の子とウェーバー的直感について


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150329 タガ外せば歯止め失う 長谷部恭男・早稲田大学教授/「未来志向」は現実逃避 杉田敦・法政大学教授

 杉田 先日ドイツのメルケル首相が来日しました。戦後ドイツも様々な問題を抱えていますが、過去への反省と謝罪という「建前」を大切にし続けることで、国際的に発言力を強めてきた経緯がある。「建前」がソフトパワーにつながることを安倍さんたちは理解しているのでしょうか。  / /長谷部 そもそも談話が扱っているのは、学問的な歴史の問題ではなく、人々の情念が絡まる記憶の問題です。記念碑や記念館、映画に結実するもので、証拠の有無や正確性をいくら詰めても、決着はつかない。厳密な歴史のレベルで、仮に日本側が中国や韓国の主張に反証できたとしても、問題はむしろこじれる。相手を論破して済む話ではないから、お互いがなんとか折り合いのつく範囲内に収めようと政治的な判断をした。それが河野談話です。  / /杉田 談話の方向性や近隣との外交について「未来志向」という言い方がよくされますが、意図はどうあれ、それが過去の軽視という「見かけ」をもってしまえば、負の効果は計り知れない。安倍さんたちは、未来を向いて過去を振り払えば、政治的な自由度が高まると思っているのかもしれません。しかし政治の存在意義は様々な制約を踏まえつつ、何とか解を見いだしていくところにあります。政治的な閉塞(へいそく)感が強まる中で、自らに課せられているタガを外そうという動きが出てくる。しかし、それで万事うまくいくというのは、一種の現実逃避では。  / /長谷部 合理的な自己拘束という概念が吹っ飛んでしまっている印象です。縛られることによってより力を発揮できることがある。俳句は5・7・5と型が決まっているからこそ発想力が鍛えられる。しかし安倍さんたちは選挙に勝った自分たちは何にも縛られない、「建前」も法律も憲法解釈もすべて操作できると考えているようです。  / /杉田 俳句は好きな字数でよめばいいのだと。  / /長谷部 あらゆるタガをはずせば、短期的には楽になるかもしれません。しかし、次に政権が交代したとき、自分たちが時の政府を踏みとどまらせる歯止めもなくなる。外国の要求を、憲法の拘束があるからと断ることもできない。最後の最後、ここぞという時のよりどころが失われてしまう。その怖さを、安倍さんたちは自覚すべきです。 =敬称略(構成・高橋純子)朝日新聞『考論』

0015 オルテガ「大衆の反逆 (桑名一博訳;久野収解説)」(白水社イデー選書;1930)評価5

以下は、オルテガ所論の久野収による抜粋の抜粋である:///  オルテガによれば、政治のなかで「共存」への意志を最強力に表明し、実行していく政治スタイルこそ、自由主義的デモクラシーである。共存は、強い多数者が弱い少数者に喜んで提供する自己主張、他者説得の権利である。敵、それも最も弱い敵とさえ、積極的に共存するという、ゆるがない決意である。/その意味で、人類の自然的傾向に逆行する深いパラドックス(逆説)であるから、共存を決意した人類が、困難に面してこの決意を投げ出すほうへ後退したとしても、それは大きな悲劇ではあっても、大きな不思議とするには当たらない。/「敵と共存し、反対者と共に政治をおこなう」という意志と制度に背を向ける国家と国民が、ますます多くなっていく1930年代、オルテガは、「均質」化された「大衆」人間の直接行動こそが、あらゆる支配権力をして、反対派を圧迫させ、消滅させていく動力になるのだという。なぜなら、「大衆」人間は、自分たちと異類の非大衆人間との共存を全然望んでいないからである。略。///  「大衆」人間は、自分たちの生存の容易さ、豊かさ,無限界さを疑わない実感をもち、自己肯定と自己満足の結果として、他人に耳を貸さず、自分の意見を疑わず、自閉的となって、他人の存在そのものを考慮しなくなってしまう。そして彼と彼の同類しかいないかのように振舞ってしまう。/彼らは、配慮も、内省も、手続きも、遠慮もなしに、「直接行動」の方式に従って、自分たちの低俗な画一的意見をだれかれの区別なく、押しつけて、しかも押しつけの自覚さえもっていない。/彼らは、未開人―未開人は宗教、タブー、伝統、習慣といった社会的法廷の従順な信者である―ではなく、まさに文明の洗礼を受けた野蛮人である。文明の生み出した余裕、すなわち、贅沢、快適、安全、便益の側面だけの継承者であり、正常な生存の様式から見れば、奇形としかいいようのないライフスタイルを営んでいる新人類である。略。///  「自分がしたいことをするためにこの世に生まれあわせて来た」とする傾向、だから「したいことは何でもできる」とする信仰は、自由主義の自由の裏面、義務と責任を免除してもらう自由にほかならない。/われわれは自由主義の生みだした、この「大衆」人間的自由、自己中心的自由に対し、他者と共存する義務と責任をもった自由を保全しなければならないが、一筋縄でいかないのは、この仕事である。(160626:イギリスEU離脱について思うところ=もみ=)