私の日帰り散策

写真でつづる山歩き、ドライブなどの日誌です。
最近は ギャラリー巡りをしています。

播磨の戦争遺跡

2012-08-17 12:09:02 | 日記
 8月17日(金)  天気:晴れ  室温:33.2~35.3℃

 きのう しみけんさんのページに 終戦記念日にちなみ 第二次世界大戦関連の記事がありまし
たが 少し前 医院の待合室で見た 「バンカル・夏号」 (発行:姫路市文化国際交流財団 720円)
に ”播磨の戦争遺跡”で 大砲の砲弾などを使った忠魂碑が 幾つもあったことを 思い出しました。
 きょう 本を確認しようと思い 医院に行きましたが 本がありません。 仕方ない 本を買ってきま
した。 これを参考に 上郡町、たつの市揖西町、太子町福地、網干小学校、英賀神社、姫路市平
和資料館などを 訪れてみようと思います。
 そういえば 朝日山の頂上や 魚吹八幡神社にも 何かあったような・・・。


 8月18日(土)  天気:晴れ   室温:33.8℃→30.4℃ 涼しい

 きょう 早速 近場の戦争の遺跡めぐりに 行ってきました。 太子町福地の「石海村忠魂碑」、
「魚吹八幡神社」、網干小学校の「魚形水雷の台座」、英賀神社の「砲弾と奉納額」、手柄山の
「慰霊塔」(平和資料館)を巡ってきました。 揖西町の恩徳寺と上郡の忠魂碑は また 後日・・。

 8:35 出発。 JRの陸橋を越え 北へ下ると 石海小学校があり その西、公民館の前に
「石海村忠魂碑」があります。 以前 福地に住んでいたことがあり 上の娘は 石海小学校を卒
業しました。 この辺りは 勝手知ったる庭のようなもの・・。 8:43 到着。 家から 2.7km。
 「石海村忠魂碑」 は 西を向いているので 正面を撮ろうとすると 太陽が真上で 真逆光!


 碑の一番高いところにあるのが 砲弾のようですが 確認できません。 正面下に 陸軍の星
マークと海軍の錨マークが重なっています。 左横にある 羽を広げた鳩が乗る地球儀は 正面
に 日本があります。 忠魂碑の揮毫は 陸軍大将男爵 本庄繁。 忠魂碑の西後方(明るい方)
は 公民館で 東後方(暗い方)は お石海(せっかい)小学校です。
 終戦記念日に お参りした人がいるのでしょう 新しいお花が お供えしてあります。


 県道27号線を南へ下り 魚吹八幡神社へ。 宮内の信号手前に 「播州電鉄」 の遺物があ
るらしいので 寄りましょう。 ちょうど 老人がいたので 尋ねると 親切に 教えてくれましたが・・。
今は 何も残ってない? 播電の線路は この橋の手前で 県道の東から 県道を横切って 西
へ進路を変えたそうです。 でも 肝心の宮内川を渡るコンクリの橋は 痕跡がない・・・・。


 9:09 魚吹(うすき)八幡神社に着きました。 福地の忠魂碑から 4.5km。 詳しく説明
する暇は ありませんが 魚の砂吹き寄せの故事により 魚吹大神と号せられ・・・保元の頃
石清水八幡宮の別宮となり 魚吹き八幡神社と言われるようになった。
 拝殿前にある砲弾?の碑の台座には 戦利兵器奉納ノ記 とあり 明治37、8年3月役 戦
利品ノ一ニシテ 我ガ武勇ナル軍人ノ熱血ヲ濺ギ 大捷ヲ得タル記念品ナリ・・・とあります。
 後ろには 明治40年3月 陸軍大臣 寺内正毅。 砲弾には 何か 付いていたようでうが・・・。
また 大きな石柱には 本にある 「八紘」 の文字が・・。 本には 「日本書紀」 に基づく 「八
紘一宇」 というこの言葉を 日本軍が大東亜戦のスローガンとして掲げ・・・とあります。
 八紘一宇 とは 天の下では 全ての民族は 平等 という意味らしいが・・・。 


 県道を南下し 浜国道を横切り さらに南へ行くと 網干小学校があります。 北にも門があり
ますが 閉まっているし 道が狭く 車が停められません。 東に廻ると 校門があり 道も広く
停めることができます。 魚吹神社から 2.2km、9:26 道路脇に 車を停めました。
 門は 25センチほど開いていて 私なら通れます。 用のある人は 2階の職員室へと書いてあ
りますが そんな暇はないので・・。 本の写真に ブランコがあったので 見ると 右50mにあり
ます。 手前に 明治百年祭記念碑と 龍野藩脇坂蔵屋敷跡が・・・。


 本には 海軍省から 昭和九年に 下附された 魚形水雷が残っていた。 その隣の碑の建設
年は 昭和11年。 上部は取り除かれているが 関連のものがあったと思われる とあります。
 児童の教育上 好ましくないのかもしれませんが コンクリか 木製で 魚雷を残してほしかっ
た・・。 台座だけ残しても 「伸びゆく力」には ならないでしょう。 がっかり・・・。


 東へ向かい 夢前川を渡り 左折して北へいくと 英賀神社があります。 網干小学校から
6.6km、9:53 神社の北に駐車。 伊勢神宮にお参りして 姫路の英賀神社と木庭神社に
参るという慣わしが ありましたで・・。 『播磨国風土記』 よれば 伊和大神の御子 英賀彦神
英賀姫神は 祖神の命により 当地を本拠として 播磨灘沿岸地域を開拓・創始し・・・。


 本にある 木庭神社の遙拝所の碑には 伊勢神宮、宮城、橿原神宮、明治神宮と彫られて・・と
ありますが ここの立札には 伊勢、靖国をはじめ 各自の崇敬する全国各神社を遙拝するところ
とあります。 台座にあるのは 菊の御紋? 台座の上には 何があったのでしょう?
歌碑にあるのは ”瑞垣に 祥当祭の 灯明かな” 冬子



 拝殿の左に 砲弾碑があります。 「皇太子殿下(現天皇陛下)御生誕紀年」 とありますが
記念ではなく 紀年 となっています。 また なぜ 生誕紀念碑が 砲弾なのか?  建立は 昭
和9年。 「日露役戦擾紀年碑」 もあります。 また なぜか 本殿の右側には 「播磨灘物語」
(司馬遼太郎著)の碑もあります。 黒田官兵衛のおじいさんが 目薬の木で 儲けた話が・・・。


 本にあった絵馬を探すのに 一苦労・・。 拝殿には 多くの絵馬が奉納され どれも古く
風化して見難い・・・。 海軍大将 有馬良橘が書いたという 「敵国降伏」 は すぐ分かりまし
たが 姫路師団の様子を描いたという 「奉納額」 は 背後ではなく 右隅にありました。
本の写真は 僅かに見える 右上の部分だけです。 左上には 姫路城が 描かれています。
 絵馬は 多いので 探し回るのに 首を ねん挫しそうになりました。


 英賀神社は 英賀城の北端であったため 境内の北には 英賀城の土塁が残っています。
英賀神社を後にして 手柄山に向かいます。 英賀保駅の前に出て 線路に沿って走り 手
柄山に 登ろうとすると ガードマンに止められ 上の駐車場は 満車で 停められない・・。
夏休み中の土曜日 プールや遊園地、水族館に行く人が 多いようです。 慰霊塔を撮るだけ
だからと 通してもらいました。 従って 平和資料館は 建物だけ見て スルー・・。
 平和資料館では 太平洋戦争の姫路空襲を中心に 戦前・戦中・戦後の様子を 写真パネル
や 現物資料を 展示、紹介しています。 戦争の悲劇と惨禍を 後世に伝え 平和の尊さを・・・。


 本には 別のページに 「手柄山の慰霊塔」 について 詳しく書かれています。 正式には
「太平洋戦 全国戦災都市 空爆死没者 慰霊塔」 というのだそうです。 全国の市民約50万
人の霊が ここに祀られている。 慰霊塔の 剣を地中に突き立てた 異色のデザインには
「もう 戦争はしない」 という 強いメッセージが 込められている・・・。 市民レベルで 日本が
世界に「平和」 を訴える唯一の記念碑である。 なぜ この ”国際スケール” の施設が姫路
にあるのか? 昭和22年1月 当時の姫路市長の呼び掛けにより 空爆を受けた全国の・・・。


 慰霊塔は 全国からの浄財により 昭和31年 建立されました。 高さは 約27m。 正面前垂に
日本地図が 浮き彫りされ 死没者の霊 此のところに眠る と刻まれています。
 久し振りに 手柄山に登りました。 三等三角点:手柄山 49.3mに 登頂。 これで 兵庫・三等
三角点200座達成? 残念ながら 三角点を踏むことは できませんが・・・。
 手柄山の慰霊塔と 姫山の姫路城は 山陽本線を挟んで 対比する 対照的な平和のモニュメント・・。
が 慰霊塔と姫路城を 対比する形で見ることは 難しいのです。


 ここには 当時の市長の銅像もあります。 その後 日本は 高度経済成長期を迎え 建設
当時の 世界の恒久平和を希求する高い理想も 次第に冷えてゆき・・・。 今年は 慰霊塔建
設が 発議されて 60年の節目の年 だそうです。
 私も 姫路に住んで 35年。 今まで 何の関心もありませんでした。
※下の写真に 兜山 とあるのは 冑山の間違いです。 訂正します。


 駐車違反の場所に停めたので 長居はできません。 12:00 帰路につきます。 英賀
保駅の前を通り 県道415号線を走り 11:55 家に帰りました。 しみけんさんに教えて
もらった高丘中学周辺は 「陸軍」 の標石があるだけなら あまり 面白くないかも?


 本日の走行距離は 太子町福地の忠魂碑まで 2.7km、魚吹八八幡神社まで 4.5km、
網干小学校まで 2.2km、英賀神社まで 6.6km、手柄山まで 4.7km、復路 9.3kmで
計 30.0kmでした。

≪追 記≫ 9月30日(日)
 きょうの新聞に ”塔は語る 空襲の惨禍” という記事があり 平和資料館で 「手柄山慰霊
塔」企画展が始まったそうです。 全国の空襲被害を紹介し 慰霊塔が建てられた意味を 来
場者に考えてもらおうと企画されたそうです。 焼夷弾や爆弾の破片も展示してあるそうです。

≪追 記≫ 8月21日(火) 天気:晴れ  室温:33.1℃
 きょう 出かけたついでに 朝日山88mに登ってきました。 車で・・。 山の上に 大日寺が
あるので 車で上がれます。 今回は 山の上にある慰霊塔を見るのが 目的です。


 五智如来像の左に 細く高い石塔があります。 これは 網干駅構内列車遭難者 と彫ら
れているので 列車事故で亡くなられた人の慰霊碑のようです。 いつ建てられたのか?
なぜか 足元に 蛙が 一匹・・・。 調べると 昭和16年(1941)9月 特急列車が 停車中
の列車に 追突し 85名の方が 亡くなったそうです。


 五智如来像の上が 88m標高点の朝日山の頂上です。 ここに 高い宝篋印塔があります。
残念ながら 一番上の相輪が壊れ 下に置いてあります。 英霊供養塔と彫られ 昭和27年
の建立なので 戦争で亡くなられた方の供養塔のようです。 


≪ 追 記 ≫
 9月13日 一宮町の御形神社へ行くと 駐車場の手前に 大きな忠魂碑がありました。 地元の
軍人会が建てたそうですが 今は 軍人会もなくなり 管理する人がいないので 御形神社が 掃
除をしている・・・。 忠魂碑は 陸軍中将・男爵 安東貞美 書。
 神戸小学校にも 忠魂碑があるそうなので また 機会があれば・・・。 この辺りには まだまだ
いろいろ ありそうです。


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コメント (5)
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