私の日帰り散策

写真でつづる山歩き、ドライブなどの日誌です。
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歴史教室2月 嘉吉の乱と赤松満祐

2024-02-20 15:02:01 | 歴史探索

  2月20日(火)    天気:曇り   室温:19.7℃

 きょうは、公民館の歴史教室に出席しました。 今月は、元城郭研究室長の中川秀昭さんの 「嘉吉の乱と

赤松満祐」 です。 資料は、今月も A4サイズ 8ページ びっしりあり、時間内には 収まらず オーバーしま

た。 赤松家の話は、まだまだ 終わらず、3月は、「赤松家の再興と赤松政則」で、政則は 時勝の嫡男。

4月も 赤松の話が 続きます。 来月は  置塩城が話題になる?

 

    。。。。。。。 嘉吉の乱と赤松満祐 。。。。。。。。

Ⅰ 波乱の幕開け 

 1.赤松満祐ー悪評の裏にはー

  ・生年没年に 数説:応安6年(1373)~嘉吉元年(1441)9.10 69歳没

    身長最短 世の人三尺入道と号す(赤松家系図)ー気性激しく、態度は傲慢不遜

  ・室町幕府重臣 「四職家」 播磨・備前・美作 守護職

  ・正長の土一揆鎮圧

  ・二人の将軍(4代足利義持:6代足利義則)との深刻な対立ー二人の将軍による赤松庶子家の重用

  ・二つの重大事件を引き起こす:・播磨国下国事件、・嘉吉の乱

     嘉吉の変:6代将軍 足利義教 暗殺 嘉吉元年(1441)6.24

     嘉吉の乱:幕府軍(赤松氏追討軍)との闘い 嘉吉元年7~9 ー城山城で自刃、赤松氏滅亡へ

  ※変・乱・役の区別

    変:誰もが 全然 予測できない突発的な歴史的大事件

    乱:時の権力に対する反乱・内乱事件

    役:日本と外国との闘い、対外戦争

  ・祖父 則祐、父 義則に劣らぬ教養人・満祐ー和歌・連歌 ・諸芸能に造詣

  ・一宮・伊和神社の造営:惣神殿の造営:惣神殿(幣殿)の創建(永享5年(1433))

  ※赤松則祐 没 70歳 応永34年(1427).9.21 於:京都 二条西洞院邸

 2.赤松満祐 播磨国下国事件 応永34年(1427).10.26

  ・4代将軍・足利義持、赤松義則の法要が行われている龍徳寺の満祐のもとへ 南禅寺長老を送り

    「播磨国は 将軍の御料国とし、代官として 赤松春日部家の赤松持貞を任ずる」 旨を通告

  ・赤松満祐:二条西洞院の自邸に火をかけ、丹波から 播磨へ下国~一族を集めて 応戦の準備

  ・足利義持:残りの赤松氏領国を 没収し、備前国→赤松美作守 満弘(七条家)、美作国→赤松貞村(春日部家)に

  ・赤松満祐の赦免

   ◆足利義持から、満祐の処置を任された管領・畠山満家、播磨の満祐に知らせ、将軍にわび状を入れ 許しを請うよう

   ・応永34年12.18 満祐、上楽し 室町邸へ行き、足利義持に謁見ー赤松氏惣領家 家督相続、播磨・備前・美作

       守護継職が認められる。 守護の任免は 将軍の掌中にあり、世襲ではなかった(「建武式目」)

Ⅱ 籤(くじ)引き将軍、足利義教

 1.4代将軍・足利義持(この時点では 将軍代行)が 体調崩す 応永35年(1428).1

  ・足利義持の嫡子・足利義量(よしかず)が 5代将軍に就任(応永30年3.18) 17歳

       しかし、応永32年2.27 没 19歳 ー 将軍不在のまま、前将軍義持が 代行

   ◆幕府宿老たち:義持死後の家督を誰にするか 話し合い

           管領畠山満家ら、満済(醍醐寺三宝院門跡・幕府政治顧問)に 義持の意中を聞き出すよう依頼

    ・満済、義持の死後籤引きの了解をとりつけたーすぐにでも 籤を引き、開封は 死後にする

  ※中世の「籤引き」は、単なる運試しではなく「神慮(神の意向)」を問う重要な儀式だった

   ◆籤の準備と八幡宮神前での籤引きー畠山満池が 四つの籤を持ち 石清水八幡宮へ

      四つの籤の候補者:青蓮院門跡 義円、大覚寺門跡 義昭、鹿苑院主 長隆(永隆)、梶井義承(点台座主)

    ・将軍代行者・足利義持、没 応永35年(1428)1.18 43歳

   ◆義持の没後に 籤を開き、後継は 青蓮院門跡 義円に 決定 ー 義円は 還俗して、義宣(よしのぶ)と改名

    ・将軍宣下を受け、義宣は 「世を忍ぶ」に通じると 義教に改名 正長2年(1429)3.19

 2.6代将軍・足利義教の誕生:「籤引将軍」「還俗将軍」義教ー専制政治から恐怖政治へー

   ・相次ぐ重臣の死、管領の権限を抑え、権力の将軍集中を図る ・守護家の家督に口出し

   ◆将軍・義教の武断政治

    ・永享の乱(永享10年(1438)ー鎌倉公方・足利持氏 自害ー

    ・宿老・一色義貫・土岐持頼を 出陣先の大和陣中で 暗殺 (永享12年(1440).6

   ◆赤松総領家に忍び寄る危機~次は 赤松か?

    ・義教の将軍就任当初は、赤松満祐とは 良好な関係

    ・次は、赤松か の噂  ・満祐の弟・満雅の所領没収し、満祐、貞村、細川持賢の分与 永享12年

    ・義教の一色氏・土岐氏誅殺を契機に、「次は 赤松討たるるべし」と 都で 噂

   ◆結城合戦:永享12年(1440).3~嘉吉元年(1441).4

Ⅲ 嘉吉の乱(嘉吉の変、嘉吉の乱)

 1.第6代将軍 足利義教 暗殺(嘉吉の変)

  ◆結城合戦、戦勝祝賀

   ・戦勝の祝宴(義教の祝宴)が 各所で 催されたー赤松邸の招宴、嘉吉元年6.24と 決定

  ◆赤松氏の招宴:足利義教の行列、赤松邸に御成り 嘉吉元年6.24 午後4時ごろ

    将軍の供:守護、近習衆、走衆(親衛隊)ら、三条実雅、細川持之、山名持豊、畠山持永、京極高数・

   ・赤松家主役:赤松教康(19歳)、当主介添:赤松則繁 ※赤松満祐は 狂乱他家預け

  ◆将軍暗殺

   ・一刻経過し、舞台の猿楽が 3番目を演じているとき、甲冑に身を固めた数人の武士が 踊り入り、将軍の

    首を 後ろから跳ね飛ばした。 近習衆、守護、護衛役の走衆、刀を抜いて立ち向かうも、討死、重傷・・

  ◆本国・播磨へ引き上げ

   ・教康・則繁、将軍足利義教の首級をとると、すぐに 父・満祐を迎えに、赤松追討するものいない

   ・満祐、本国に引き上げを命ず。 赤松邸から 西国街道を 一路播磨を目指した

   ・満祐、自邸に火をかけた・・・義雅・則繁邸、赤松一族・被官の家々自焼

  ◆足利義教 遺骸収容:相国寺・鹿苑院住職が 赤松邸に行き、首級のない義教の遺骸を収容、鹿苑院に 安置

  ◆足利義教の首:管領は、満祐の使者を切り棄て、首級を携え 本国へ→河合城で安置→安国寺(加藤市・足利

   尊氏創建の足利家ゆかりの寺)で 盛大な葬儀を行い、首を京へ返還(相国寺 長老瑞渓周鳳が 播磨へ下向し 受領)

 

※暗殺された 足利義教の首は、足利家ゆかりの安国寺に 手厚く葬られました。 境内裏の首塚である宝篋印塔

 は、ほとんど完全な形で保存されており、室町時代中期の優れた石造物としても重要な文化財となっています。

  安国寺 足利義教公首塚

 2.嘉吉の乱

  ◆赤松氏、防備を整える ・満祐ら 坂本城へ、坂本城で 軍議:一族の武士を国境に配置

   ・大手~須磨・明石方面、・本陣(坂本城)・和坂、・搦手~大山口、・戸倉口、・三草口、・備前国、・美作口

    

※城山城については、新宮の文化財センターで ”企画展 城山城” を見たことがあります。

 

     ・・・          
    ◆足利冬氏(足利直冬の孫、義尊(よしたか))の擁立:義尊を将軍に擁立、義尊の名で御教書を作成

  ◇幕府方の対応 :管領 細川持之、宿老会議(「評定会議」)を招集(嘉吉元年6.25)

    ・将軍 足利義教の嫡男千也茶丸(のちの義勝・8歳)を後継に決定、伊勢から室町に移す(細川持之が補佐)

  ◇赤松氏追討軍の陣容編成  (※嘉吉元年.7上旬、管領、諸大名に追悼命ず)

   ・大手:細川持常、細川基之、細川成春、赤松貞村(春日部家)、赤松満政(大河内家)、赤松持家(有馬家)

   ・搦手:山名持豊(大将・但馬)、山名教清(伯耆)

 3.赤松満祐、城山城に死す

  ◇嘉吉の乱の対立構図

   ・赤松総領家(満祐、義雅、教康、則繁、則尚) ⇔  赤松庶子家(貞村、満政、持家)

                    赤松満祐  ⇔  管領・細川持之

  ◆嘉吉の乱の経過 (嘉吉元年(1441)) 

          赤松軍               幕府軍

   7.25 ・兵庫倉御所の夜襲を     7.11 ・大手軍、京出発

         試みるも 失敗        7.27 ・搦手、山名持豊、京を発ち 但馬へ

                       8.1  ・後花園天皇より 満祐父子追討の論旨下さる

     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  

  ◇論功行賞

 4.赤松氏その後

  ・赤松教康(満祐嫡男)

  ・赤松義雅(満祐弟)

  ◇千代丸(義雅遺児・9歳)

   ・義雅から託された千代丸を、満政は 室津に隠したうえ、建仁寺塔頭大昌院の宝洲宗衆に使者を送り 迎えを

    乞うた。 宝洲は、弟子の天隠龍沢を遣わし、千代丸を連れて 摂津・昆陽野で 三条家の使者に渡した。

   ・三条家は、千代丸をかこい、近江浅井郡丁野村(三条家所領)の時宗寺院・西願寺へ 千代丸を入寺させた。

    10年余ののち、千代丸は 還俗して 時勝を名乗り、建仁寺に身を潜めた。

   ・康正元年(1455)、時勝は 23歳で 急死。 子が一人残された。・・・その子が、赤松家を再興する政則。

   ※義雅の夫人が 三条家女。 父は、大納言三条実量であろう。

  ・赤松則繁(満祐弟)

  ・赤松則尚(満祐甥)

 

 ・・・・・・ まだ続きがありますが 以下は 割愛させていただきます ・・・・・・・

 

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