私の日帰り散策

写真でつづる山歩き、ドライブなどの日誌です。
最近は ギャラリー巡りをしています。

水攻めの備中高松城

2011-12-24 17:16:47 | ドライブ
 12月24日(土)  天気:晴れ 風は冷たい  室温:11.6℃   地図:総社東部

 きょうは 岡山県まで ドライブし 史跡を訪れました。 岡山道の総社ICで 降りて まず 備中・高松城跡
へ行き 秀吉が 水攻めにした高松城を見て 西へ行き 造山古墳へ。 造山古墳は 全国で 4番目に大き
い前方後円墳です。 さらに 西へ行き 備中国分寺へ。 備中国分寺は 以前の 「歴史教室」 の 古代寺院
つながりです。 ついでに 備中国分尼寺跡へ。 さらに 西の作山古墳を訪れました。 時間があれば 吉
備津神社や 吉備津彦神社も訪れようと 思っていましたが 高松城で 秀吉の太閤岩へ行く際 道を間違
え 思わぬ時間を消費し 時間切れとなり 断念しました。

 8:27 出発。 国道2号線に出て 西へ行き 8:49 龍野西ICから 山陽道に入ります。 山陽道を 西
へひた走り 岡山JCTで 岡山道に廻り 9:34 次の岡山総社ICで 降ります。 山陽道は 76.1km、10
50円。 国道180号線に降りて 東へ進み 庄内小学校で 左折すると 高松城址公園に出ます。 北の駐
車場に停め 尋ねると 南に駐車場、資料館があるそうです。 うろうろしていると 「清水宗治首塚」が あり
ました。 話が 前後しますが 清水宗治(むねはる)自刃のあと 秀吉は 供養塔(首塚)を作らせた。
 石井山にあったが 明治になって 現在の本丸に 移された。 横には 辞世の句碑が 立っています。
南へ行き 10:05 駐車。 総社ICから 3.6km、家から 92.4km。 1時間半ほどかかりました。


 少し前 テレビで 「THEナンバー2」 という番組を見ていると 姫路城の黒田官兵衛が 秀吉に姫路城を
明け渡し 秀吉のナンバー2として働き 秀吉が 備中高松城を攻めたとき 水攻めを進言したという話が
あり 何年か先 黒田官兵衛が NHK大河ドラマになれば 高松城も きっと 出るでしょう。 下調べを・・・。

 全国制覇を進めていた織田信長は 天正5年(1577) から 中国地方の担当武将に 羽柴秀吉を当てた。
その前に立ちはだかったのが 西国の雄・毛利氏である。 秀吉は 毛利方だった宇喜多を味方に付け 天
正8年に 播磨の三木城、天正9年に 因幡の鳥取城を兵糧攻めにして 落城させた。 天正10年 秀吉は
山陽を 西進し 備中高松城を最前線に 毛利軍と対峙した。 これら 中国地方の攻略は 「秀吉の中国攻
め」 と呼ばれ 三木城と鳥取城の兵糧攻め 備中高松城での 水攻めは 壮絶な戦となり 中国攻めの三大
攻防戦となった。 高松城は 沼沢地にある平城で 石垣も築かず 土壇だけで築かれ 沼沢が天然の外堀
となっていた。


 天正10年(1582)5月 秀吉率いる軍勢三万は 高松城を取り囲み 攻め込むが 力攻めすることが
できない。 そこで 黒田官兵衛の進言で 「水攻め」 に取りかかった。 約2.7kmの堤防を 12日間で
築き 足守川の水を引き入れ 高松城を 湖の孤城にしたのである。 時あたかも梅雨の頃で 増水した
足守川の水を流し込み たちまちにして 188haの大湖水ができた。 最近の説では 堤防は 蛙ヶ鼻(か
わずがはな) から 備中高松駅付近までの 約300mだったのでは という説が有力とか・・・。

 そうこうしているうち 6月2日 本能寺の変が起こり 信長が 明智光秀に殺害された。 翌3日 毛利方
に向かう 光秀の密使を捕まえて 信長の死を知った秀吉は 高松城主・清水宗治に 和解案を示し 宗
治の首を差し出せば 領土は取らず 城兵の命は助けると・・・。 これも 官兵衛の進言だったとか・・。



 清水宗治は 和解案を受け入れ 翌6月4日 湖上に船を浮かべ 辞世の句を残し 自刃し 織田方
と毛利方は 和睦した。  ”浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の 名を高松の 苔に残して”
 秀吉は 宗治を手厚く葬り 堤防を決壊し 撤退を開始する。 秀吉は 大軍を率いて 一週間ほどで
天王山へ引き返し 山崎で 光秀を討つ。 この電撃的な反転を 「中国大返し」 といい 秀吉が 天下人
となっていく転機となった戦であった・・・。
 現在は 公園と整備され 池は ハス池となって 当時に思いを馳せることは・・・。  資料館に寄って
資料を頂き 「蛙ヶ鼻」と 「太閤岩」 へ行く道を聞きました。 蛙ヶ鼻には 当時の築堤の東端が残って
いるらしいし 石井山にある太閤岩は 秀吉の本陣跡の奥にあり 高松城の様子を見張ったとか・・。

 下の布陣図にあるように 東から攻めてくる秀吉軍に対し 毛利軍の防衛ラインは 宇喜多家が織田
家に味方したため 備前と備中の国境まで 後退した。 この防御ラインになったのが 足守川沿いに
ほぼ 南北に並ぶ 「境目七城」 と呼ばれる七つの城: 宮路山城、冠山城、高松城、加茂城、日幡城、
庭瀬城、松島城で その中心が 高松城だった。 北に位置する 宮路山城と 冠山城は 落城。


 公園の手前にあったらしい 「清水宗治胴塚」 を見ることはできませんでしたが 城址公園を後にして
蛙ヶ鼻へ向かいます。 近くに 「自刃の地」 があるので 寄りました。 駐車場を東へ進むと 墓地の隅
に 大きな五輪塔が 立っています。 清水宗治は 船で自刃したのかと 思いましたが・・。 そうか ここ
は 水攻めに遭ったとき 湖上だったのか・・。 城址公園が 国の史跡かと思いましたが 本丸跡が
国指定の史跡で 公園は 史跡ではない? 本丸跡には これというものは ありませんでしたが・・・。



 少し南に 「ごうやぶ遺跡」 が あります。 清水宗治が 切腹する前に 月清入道の口取の与十郎と
宗治の草履取の七郎次郎が 「私たちもお伴する」 と 二人で差し違えたという。 この差し違えた場所
が 「こうやぶ」 といわれ 木の脇に 小さい五輪塔?が 二基あります。 畑の中を 適当に歩き 大き
な鳥居を目指して 東へ歩きます。 このときは 大きな鳥居だなとしか 思いませんでしたが 調べる
と 日本三大稲荷と言われる最上稲荷の鳥居でした。 高さ27mの大鳥居は 江戸ベンガラが塗られ
全国でも 屈指の大きさとか・・・。
 県道へ出て 南へ進むと道標があり 左の路地へ入り 「蛙ヶ鼻」 へ行きました。 蛙ヶ鼻は 石井山
の南に 位置し 堤防の東端の跡が 唯一残っている場所で ここから 西へ堤防が築かれた。 今は
整備されて 史跡公園になっています。



 堤防が残っていると言われても どれが堤防なのか・・。 土塁のように 盛りあがった土手があると
期待したのですが・・・。 平成10年に 築堤跡の発掘調査が行われ 水田の下 1mで 底部が確認で
き 付近の山から運んだと思われる花崗岩風化土や 土俵の痕跡の下の層に 粘土層が堆積し この
辺り一帯が 湿地であったことが 確認できたそうです。 今でも 幅1mほどの溝が 残されています。



 道があったので ここから 山へ入ったのが 大失敗! お地蔵さんの上で 落葉が積もり 道が無く
なりました。 道を探しながら 右へ左へ・・。 きょうは 山歩きの服装ではなく ヤブコギする日でもあり
ません。 誰も歩かない 凄いヤブに突入し 進むに進めず 引くに引けず・・。 雑木ヤブを 掻き分け
右に左へ 半歩づつ進み 何とか ひと山越えたところは 凄い湿地で 水が浮いています。 こんなところ
で 私が 水攻めに遭うとは・・。 これは 清水宗次のたたりか?
 ヤブの中にあった石碑?は 何だったのでしょう? 資料館でもらったパンフレットにある 明智光秀の
使者・藤田伝八郎が 僅か 20時間ほどで 京都から 敵中突破して 備中へ入って 捕えられ 秀吉が 一
刀の下に成敗した、 この使者の 「盲塚」 ? ちょっと 碑の形が違うようですが・・・。
 湿地を抜けると 今度は 池。 イケねぇ・・。 池の周りで 道を探しますが・・。 池からは いい山道を歩
き 西?へ降りました。


 竹林を抜けて 集落へ降りると なんと ここに 道標があり 降りた道が 本陣跡への道だったのです。
また 引き返しました。 歩きやすい いい山道です。 気付かなかった道標があり 左へ進むと 「首塚」が
あり 道は間違っていません。 少し先が 「本陣跡」 で 10mほどの平坦地があります。 ここから 下界
が見下ろせ 秀吉も ここから 高松城を 見張ったのでしょう・・。
さらに 先へ歩くと 「太閤岩」が ありました。 四角いテ-ブルのような岩です。 天下統一をなし得た秀吉
は 太閤(関白)として 最高の地位を 得たことから 里人は この大岩を 太閤岩と呼んでいます。
 ここは 雑木に囲まれ 見晴らしはありません。 無理して 岩に上がっても 仕方ない。 道は 続きます
が ここから 引き返しました。


 来た道を戻ります。 日が高くなり 冷たい風も少し 収まったでしょうか? 12:19 車に戻り おやつ
を食べ 一休み・・・。 もう少し 見るものが あるかと思いましたが これと いうものは ありませんでした。



 12:31 車を出して 「造山古墳」 へ向かいます。 国道180号線に出て 南へ行き 山陽道を潜り
次の信号で 右折して 県道270線に入り 西へ行きます。 造山古墳の道標を見て 右折して 北へ
進み 標識で左折すると 造山古墳の駐車場です。 12:44 駐車。 高松城址公園から 6.5km。
 駐車場の前の道を 真っ直ぐ 進み 住宅の間を抜け 階段を上がると 前方後円墳の造山古墳の
前方部に出ます。 造山古墳は 岡山県下では 最大、全国でも 第4位の規模を誇ります。
古墳の全長は 350m、後円部の直径 200m、前方部の幅 約215m、後円部の高さは 30mです。



 前方部に上がると ここには 荒神社があり 前には 鐘楼も。 ここは 宮内庁の管轄では ないようで
神社もあり 立ち入りも自由。 神社の前に 阿蘇の凝灰岩製の舟形石棺の身(蓋ではない)が あった
そうですが 気が付きませんでした。 この石棺は 九州地域の石棺の特徴をもっています。 造山古墳
は 三段構造で 一段目と二段目までは 地山で その上に 三段目を 盛り土した構造。 
 造山古墳に次ぐ大きさの作山古墳(総社市)や 両宮山古墳などの 巨大古墳の存在は 吉備が 畿内
の勢力と肩を並べるほどに 強大であったことを うかがわせます。
 埋葬施設などの詳細は 未調査のため 不明だそうですが 墳丘規模、外表施設等の有り様からみて
被葬者は 当地域の首長であったと同時に 吉備全域をも統括していた 大首長の地位にあったと考えら
れます。 造山古墳は 国指定の史跡です。


 今は 間近まで住宅が迫り 一部 前方後円墳の形も崩れていますが 昔は 周囲は 濠で囲まれてい
たようです。 前方部に上がったとき 南に 千足古墳が見えたのですが 撮り忘れ・・。 この辺りに
は 古墳が多くあるようで 造山古墳群といわれるようです。 後円部に行くと 頂部は 平坦地で 城跡?
秀吉が攻めてきたとき 毛利軍が ここに 城を築いたそうで 高松城の絶好の展望地です。



 13:05 駐車場に戻り 次の目的地 備中国分寺へ向かいますが このページも長くなったので
備中国分寺と 作山古墳は 新しいページで書きます。

  。。。。。。。。。。  。。 次の 備中国分寺のページへ つづく 。。  。。。。。。。。。

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2 コメント

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Unknown (山ちゃん)
2012-01-06 14:21:00
YS11さん
 
おめでとうございます、今年もどうぞ宜しくお願いします。
2等3角点の早期達成を願っています。

おめでとうございます (YS1)
2012-01-06 17:17:21
山ちゃん
少し遅くなりましたが
明けまして おめでとうございます。
こちらこそ よろしく お願いします。
お正月から 笠形山、東床と 雪山を楽しまれていますね。
うらやましいです。

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