私の日帰り散策

写真でつづる山歩き、ドライブなどの日誌です。
最近は ギャラリー巡りをしています。

備中国分寺

2011-12-28 12:23:59 | ドライブ
 12月28日(水)  天気:晴れ 穏やかで温かい  室温:13.7℃  地図:総社東部

 12月24日(土) 史跡・備中高松城と 造山古墳へ行きましたが 続きの 備中国分寺と作山古墳は
こちらのページで 書きます。 備中国分寺は 以前 学んだ 「歴史教室」 の古代寺院です。
 吉備路には ”吉備史跡県立自然公園” があり 吉備津神社、吉備津彦神社、高松城跡、最上稲荷、
鬼ノ城遺跡、岩屋寺、井上宝福寺などが含まれ 歴史的な郷土景観の地で 吉備文化発祥の地でもあ
り 中でも 備中国分寺、国分尼寺辺りは 吉備路のシンボルとも言われる景観の地 です。 

 13:05 造山古墳を後にして 南の県道270号線に戻り さらに 西へ行きます。 右に 国分寺の五
重塔が 見えたので 右折して 南から 国分寺に向かいましたが 南には 駐車場がありません。
 案内図を見て 東を回って 北の駐車場に行きます。 北の広い駐車場に 13:18 駐車。 造山古墳
から 4.5km。 駐車場から 歩いて 日照山国分寺の 南門(山門)へ廻ります。



 国指定史跡・備中国分寺跡は 国分寺尼寺とともに 鎮護国家を祈るため 天平13年(741) に 聖武
天皇の勅願によって 建てられた官寺です。 寺域は 東西約160m、南北約180mで 周囲には 幅1.
3mの築地土塀がめぐらされており 寺域内には 南門、中門、金堂、講堂、塔などの伽藍が 配置されて
いました。 昭和46年の 発掘調査によって 南門跡、中門跡、建物跡、築地土塀などが 確認されており
今でも 門の心礎が 残っています。
 今は 中門、南門、築地土塀、井戸跡などの説明板があるだけで 古代寺院としての 備中国分寺の痕
跡を見るのは 難しい・・。 僅かに 伽藍配置図、築地土塀跡と井戸跡がみられるだけ・・・。 播磨国分寺
では 痕跡が 公園として 保存されていましたが・・。


 備中国分寺は 中世には 廃寺となり その後 江戸時代中期に至って 日照山国分寺として 再興されま
した。 現存する伽藍は すべて 再興後に 建てられたものです。
 日照山国分寺の山門を潜ると 右に 本堂があります。 本堂の向拝にある彫り物は 立派です。 龍の
木鼻を見るのは 初めてです。 虹梁(こうりょう)の曲がり具合も 何とも言えません。 手挟(たばさみ)の
彫刻も素晴らしい! お参りしていると 隣に居た女性が お餅が飾ってある と言っていましたが 本当は・・。




 本堂の横には 大師堂があります。 その横に 高い石塔に挟まれて 宝篋印塔があります。 これも
今までに見た中でも 一番高い? ただ 階段状に積んである基壇部に比べ 上の塔身や相輪が 小さ
いのです。 このため スマートには 見えますが なんとなく不釣り合いな感じがします。


 客殿、お庭、鐘楼などを見ながら 五重塔へ向かいます。 伽藍の配置は 奈良時代の備中国分寺
の時代と ほぼ同じようです。 西門は 通れないので 横の道を進みます。



 世の中に 三重塔は 多いが 五重塔は あまり見かけません。 さすがに 五重塔は 高い。 ここの
五重塔は 国指定の重要文化財です。 この塔は 江戸時代後期の文政四年(1821) から 弘化年中
にかけて 建立されたもので 奈良時代の備中国分寺の塔とは 別のところに建っています。 総高34
mで 三層までは 総ケヤキ造りで 四、五層は 松材が主体となっています。 心柱は 大面取をした松
材が用いられており 床下の礎石から塔の中心を貫いて 相輪に達しています。
 初層の四面、頭貫の上には 禽獣の彫刻が 施されています。 内陣には 仏壇を設けていて 象、馬、
鳥などの動物に乗った金剛界の五智如来(大日、阿閃、宝生、阿弥陀、不空成就 各如来像)が安置
されているそうです。 動物に乗った五智如来を 見てみたいものです。 初層の彫刻は 蟇股のように
見えますが・・。


 山門を潜り 駐車場のところへ戻ると 土産物屋の横に マップがあり 近くに こうもり塚や 備中
国分尼寺跡が描かれています。 近いので 行ってみましょう。 東へ 5分ほど歩くと こんもりとした
森があり これが 史跡・こうもり塚古墳でした。


 史跡・こうもり塚古墳は 全長100mの前方後円墳です。 この古墳は 六世紀後半に 自然の丘陵
を利用して 造られたもので 内部を見ることができます。 内部の石室は 巨石を用いた横穴式石室
で 長い羨道と その奥の玄室とから 成っています。 玄室には 家形の大きな石棺が 納められてい
ます。 この石棺は 井原市野上町産の浪形岩(貝殻石灰岩)を 材料とした くり抜き式 の石棺です。


 古墳を後にして さらに 東へ歩くと 史跡・備中国分尼寺跡があります。 国分尼寺も 奈良時代に
聖武天皇の発願により 造営された備中国の尼寺です。 東西108m、南北216mの広大な寺域を
有し その周囲には 築地土塀をめぐらせていました。 説明板のある所で 土塀の痕跡を見ることが
できます。 今は 何もありませんが 創建当時は 土塀で囲まれた境内には 南から北へ 南門、中門、
金堂、講堂などの建物が 一列に並ぶ伽藍配置を持っていました。 このような伽藍配置は 東大寺式?



 約1800平方メートルの平坦な広場の ほぼ中央部に 金堂があったようで 礎石などから 建物は
5間(20m)×4間(13m)の大きさだったそうで 本尊が 祀られていた。
 それらの建物は 南北朝時代の戦火で 焼失したと伝えられていますが この尼寺跡には 創建時の
金堂の礎石をはじめ 南門、中門、講堂、築地土塀などの 遺構が 現在も 比較的良好な状態で 保
存されています。


 尼寺跡を後にし 車へ戻ります。 地図には 近くに 旧松井家住宅や 松井の井戸などが 描かれてい
ますが パスしました。 14:16 車を出します。 駐車場の前を 真っ直ぐ西へ行くと 作山古墳に突き
当ります。 手前の東側から 集落に入り 狭い路地に入り込み・・。 古墳の北から西へ廻ると 駐車場
があります。 14:25 駐車。 国分寺から 2.4km。



 古墳の西から ずるずる滑る斜面を適当に登り 前方後円墳の前方部へ上がりました。 ここには
な~んにも ありません。 後援部へ行くと 頂部は平坦地で 古墳の説明板があります。
 史跡・作山古墳は つくり山と称されるほど 雄壮で 巨大な前方後円墳で 独立した小丘陵を削り
整形、加工したもので 一部に 後世改変を受けているものの 全長285m、後援部径174m、高さ
24m、前方部長さ110m、幅174mの規模をもって 三段で 築成されています。
 外周には 周溝がなく 複数の残丘を残すなど 巨大な墳丘のわりには 端正さを欠く面もあります。
この古墳の築造は 墳丘の形態などから 5世紀中葉頃 と考えられています。



 作山古墳の規模は 全国的にみても 第9位に相当し 県内では 造山古墳に次ぐもので 古墳の規模が
豪族権力の反映 または 象徴であることからすれば 本墳の被葬者が 吉備に君臨した大首長であること
が想像されます。 こちらの古墳は 見晴らしも 今一つで 見るものがありませんでした。
 14:39 車に戻り 帰路につきます。 いったん 西へ出て 作山古墳の全景を撮り 県道へ出て
総社ICへ戻ります。 国道429号線に出れば 一本道と思ったのですが・・。



 古い地図にも ナビにもない新しい道があり これに惑わされ 大回りしましたが 8km走りまわり
14:58 総社ICから 岡山道に入りました。 気が付けば もう3時です。 昼食はまだ・・。
 岡山JCTで 山陽道に入ると 吉備SAがあったので SAに入り 肉うどんを食べ 一息・・・。
山陽道をひた走り 16:02 龍野西ICを降り 国道を走り 16:34 帰着。
本日の走行距離は 往路:高松城址公園まで 92.4km 造山古墳~国分寺~作山古墳まで 13.4km
復路:97.7kmで 計:203.5kmでした。
今年も これにて 終了です。 31日(土) に ガソリンを入れようと思います。 今年は 燃費が悪い・・。
  。。。。。。。。。。                      。。。。。。。。。。。

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