私の日帰り散策

写真でつづる山歩き、ドライブなどの日誌です。
最近は ギャラリー巡りをしています。

姫路の旧街道を歩く 飾磨街道篇

2020-10-18 11:22:11 | 歴史探索
 10月22日(木)    天気:曇り のち 晴れ    室温:20.5℃

 今回は 先日 イーグレひめじで 入手したFMゲンキのフリーマガジン ”秋号” に載って
いた ”気まぐれ途中下車 姫路の旧街道を歩く 飾磨街道篇” を紹介します。
 ”夏号” には ”姫路の旧街道を歩く” は なかったので もう 旧街道歩きは 終わったのか
と 思いましたが‥・。 今回の飾磨街道篇は 山陽百貨店の北側の飾磨門跡から スタート
し、飾磨駅を越えて 南下し 銀の馬車道終点の浅田化学が ゴールです。 見どころは
1.飾磨門跡から 13.圓光寺 まで 書かれています。
 私は 以前歩いたことがあり その時の 「飾磨街道をたずねて」 は <こちら>
「飾磨津散策」 は <こちら> を。
   
1.飾磨門跡
  姫路城外堀に架かる門。 飾磨津に向う街道に向かって開かれている。
2.光徳寺跡:播磨六坊の一つ?
  蓮如上人が 播磨に 浄土真宗を広めるために 派遣した6人の高弟(浄覚、順念、空善、祐全、
  善祐、誓元)が 英賀に派遣され、それぞれ一寺を建立し、これらの寺は 播磨六坊と呼ばれています。
  6人の高弟が開いたお寺は以下のとおりです。
   浄覚:光源寺(姫路市)、順念:光善寺(龍野市)、空善:法専坊(姫路市)、
   祐全:円光寺(龍野市)、善祐:永応寺(赤穂市)、誓元:万福寺(赤穂市)
3.馬車道跡
  生野銀山近代化を目指す明治政府は 飾磨津と生野を結ぶ馬車専用道路 「生野鉱山寮
  馬車道(銀の馬車道)」 を敷施。 飾磨からは 資材が、生野からは 鉱石が運ばれました。
4.法専坊
  浄土真宗本願寺派 第8世宗主 蓮如は、本願寺派の西国への布教拠点を構築するべく、
  三木氏の支配する英賀に 高弟の空善を派遣。 法専坊は 空善が開いたお寺で 播磨六坊の一つ。
5.児島高徳供養塔
  この地蔵堂にある五輪の中から、「児島」 「高徳」 と刻んだ水輪が見つかりました。
  児島高徳とは、隠岐に流された後醍醐天皇を奪還しようとして 果たせず、桜の木に漢詩を書き残した・・。
6.飯田(いだ)
  地名の由来は、安倍晴明と競って敗れ、播磨に流された陰陽師・芦屋道満の子孫 道善が
  薬草を栽培した医田が転じて 飯田になったとのこと。
7.街道筋
  江戸期に入り、飾磨街道の往来筋が 町場化し、飾磨門外から飾磨街道沿いの9町は 飾磨津
  20町と呼ばれ、町奉行の管轄となりました。
8.亀山本徳寺 (亀山御坊、亀山本徳寺) 浄土真宗本願寺派
  明応2年(1493) 空善が 建立した英賀東かりや道場が 淵源、開基蓮如上人。
  1580年4月、秀吉は 英賀城攻めを開始。 海からも陸からも 孤立した英賀は 極めて短時間で
  陥落しました。 秀吉は 英賀御堂については 制札を立て 放火を禁じ、その後 亀山に 寺領300石
  を寄進。 2年後に 本徳寺だけ 亀山に移し、残留門徒は 龍野町に移しました。
9.旧国鉄飾磨港線跡
  明治9年に 生野銀山寮馬車道が 運用を開始しますが、明治28年から 飾磨港~生野銀山の
  運転を開始。 大正に入ると 飾磨港が 筑豊の石炭の移入を行う重要港となり、石炭が飾磨港線
  によって 各地に移送されました。
10.清水薬師井戸跡
  元は 清水薬師の境内でした。 明治の初めころは 地元の人々に愛飲されていました。
11.圓光寺
  飾磨街道は 姫路藩にとって、城下と飾磨津を結ぶ 産業道路であるほか、藩の海岸線防備のための
  軍用道路の性格も持ち合わせていました。 異国船発見の場合、鐘によって姫路へ知らせるそうで
  早鐘のルートは 飾磨津浦手番所~圓光寺~本徳寺~となっていたそうで 圓光寺から 本徳寺は
  約2km。 圓光寺の方は どんな気持ちで 鐘をついておられたのでしょうか。
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コメント
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