私の日帰り散策

写真でつづる山歩き、ドライブなどの日誌です。
最近は ギャラリー巡りをしています。

篠山 歴史 散策

2012-06-26 16:28:35 | 日記
 6月26日(火) 天気:曇り 後 晴れ  室温:30.4℃

 きょう 天気は まずまずの予報だったので 早く起きて 篠山へ行ってきました。 歩くのは
しんどそうなので 暑い時期でもあるし 自転車を使いました。 予定したところは 大体 訪れる
ことができました。
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 「ひょうご 県民だより 中播磨版 6月月号」に載っていた みんなで体験! 「篠山城跡から城下町
への散策コース」を 調べてみました。 中播磨版には ”大書院から多彩な資料館を巡り 篠山藩
の歴史を訪ねてみよう” とあります。 また 「あいたい兵庫 2012 春・夏号」にもありますが どち
らも いまいちです。 篠山まで行くからには じっくり 調べ できるだけ いろいろ 歩かないと・・・。
 ネットで 調べると 篠山には 「丹波篠山五十三次」というのが あるようです。 旧篠山町が 選定
した丹波篠山53次は、地元の歴史・文化財にふれる大きな道標になっているそうです。
53ヵ所 全部回るのは 不可能なので 篠山城跡を中心に 城の周りを 反時計回りに 歩きたい
と思います。 「53次」 の20カ所くらい巡ることが できるでしょうか?
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 概略順路として 篠山城跡(大書院)から 青山歴史村、北西の 誓岸寺、妙福寺、武家屋敷、
安間家史料館から 南へ廻り 南の馬出、53次歴史の散歩道を 東へ。 丹波古陶館、能楽資
料館、妻入商家郡から 王地山公園(まけきらい稲荷)へ上がり 降りて 観音寺、真福寺、酒
造記念館、尊宝寺、来迎寺、歴史美術館から 春日神社を廻り・・・・車に戻るというルートです。


 平日なので 姫路のラッシュを避け 早目の6:15 出発。 姫路バイパスは 車が多く 思うよ
うには 走れません・・。 6:41 花田ICから播但道に入り 7:50 福崎ICから 中国道に入ります。
中国道を 19.7km(350円)走り 7:04 滝野社ICを降りて 信号を 左へ左へ左へ 曲がると
国道372号線に入ります。 あとは デカンショ街道をひた走ります。 白髪を見ながら 福知山
線の踏切を越え 滝野社ICから 31.7km 7:42 小枕の信号で 左折。 監物橋を渡り 篠山
城跡の東を回り 篠山城の北の駐車場へ。 7:50 駐車。 駐車料200円。 家から 90.3km、
1時間35分かかりました。
 まず 篠山城へ行きます。 大書院は 9時からなので まだ入ることはできません。


篠山城跡は
 慶長14年(1609)徳川家康の命によって、大坂城攻めの備えと、西国地方への抑えの拠点とし
 て 交通の要衝の地である 篠山盆地中央部の「笹山」と呼ばれた小丘を利用して 築城された。
 築城は 約20諸侯の西国大名に 賦役を命じた、いわゆる天下普請によって行われ 普請総奉行
 に 池田輝政(姫路城城主)、縄張り奉行に あの藤堂高虎(津城主)があたった。
 笹山という小丘を利用した一辺約400mの平山城で 防御に徹した城構え。
 築城にあたって家康は、前年の慶長13年(1608) 家康の実子との伝えがある 松平康重を常陸
 の国から 丹波八上城へ転封を命じ 篠山に築城されることとなった。
 工事は 慶長14年3月に 始まり 9月中には 石垣の本体が ほぼ完成し 同年12月に 松平康重
 が 初代の城主として 入城している。 城の工事は その後 約1年続き、町並みの整備も進められた。
 石垣は 近江の穴太衆によるもので 「野面積み」と 出角は 「算木積み」の工法が用いてある。


 縄張りは 環郭式を基本とするもので、高石垣で囲まれた 本丸と二の丸を中心にして 犬走りと
 約20メートル馬場の内濠と 三の丸、外濠の順に 方形に配置されている。
 天守台は 約20m四方の広さがありますが 天守閣は 築かれず 北東隅に 二間四方の櫓が
 築かれました。 石垣の高さは 17mあり 東に 丹波富士・高城山(八上城跡)が望めます。
 城の虎口は 北と東、南の3カ所に 馬出(うまだし)が 造られ 厳重な備えとなっている。
 外濠周辺には、家臣の屋敷が 配置され、更に 屋敷地の東側から北側及び西側には 山陰道
 を引き入れた町屋筋が 取り巻いている。
 城主は 松井松平氏1代、藤井松平氏2代、形原松平氏5代、青山氏6代と続き 明治維新を
 迎えている。
 石高は 当初 5万石であったが、第12代篠山城主青山忠裕が 老中を30年間努めた功により
 文政10年(1827)1万石を 加増され 以後 6万石となっている。
 青山神社の祭神として祀られている 青山家10代 名君・青山忠俊は 家康の孫・竹千代を 厳
 しくいさめ 教育し のち 竹千代は 三代将軍・家光となり 徳川時代の基礎を築いた。
 なお 青山神社には 教育に尽くし 藩校「振徳堂」を充実させた青山忠裕が 合祀されています。


 廃藩後、城の建物は 大書院を残して 一部の門が 移築され 他は すべて取り壊された。
 大書院も1944年まで 残っていたが 焼失し 城の建物は まったくなくなってしまったが、
 本丸及び二の丸を構成する石垣と周辺の犬走りと内濠及び、三の丸、外濠、大手馬出を除く
 南と東の馬出など城郭の主体部を構成する遺構が よく残っており、昭和31年に 国の史跡
 指定を受けた。 「日本100名城」にも選ばれています。
 二の丸御殿跡には 古絵図をもとに 台所、厠、詰所などが 平面表示の工法で 復元され・・。
 二の丸の南に見える山並の丸い山は 愛宕山でしょうか? 『兵庫丹波の山』(下巻)の太平
 三山の項に 東から見ると ”豊満な女性の乳房のような双耳峰” とありますが 北から見る
 と ただの丸い一つの山で・・・。


 大書院は 後で行くことにして お城を出ます。 北の有料駐車場の脇にあった門は 元篠山藩
地方役所跡? 北の角にある「大正ロマン館」は 落成当時 篠山の町では 最もモダンな建物で
明治・大正の代表的な洋風建築です。 ロマン館の向かいが 観光案内所です。
地図 ”やすらぎの城下町ささやま” をもらい まず 「青山歴史村」へ向かいます。


青山歴史村は
 篠山藩主・青山家の別邸であった「桂園舎」と呼ばれた建物を中心に 3棟の土蔵と長屋門から
 成っています。 全国的にも 珍しい漢学書関係の版木1200余枚、篠山城石垣修理伺い図面など
 江戸時代の歴史文化を 物語る史料を 展示しています。
 また 内庭には 石造金櫃、和算学者「万尾時春」の顕彰碑、「篠山城惜別の碑」などを屋外展示。
 さらに 青山家ゆかりの品々や 篠山藩校「振徳堂」の蔵書なども所蔵し・・・。
 有料なので パスしました。


 次に 北西部にある誓岸寺へ行きます。 自転車なので あっという間に 着きました。
清浄山誓願寺(浄土宗)は
 城下町篠山の道路が T字型に交わる要所に 砦のように建っています。 二階建て構造の
 山門である楼門は 重層屋根、入母屋造り、本瓦葺きの四脚門で 釘は使わない組み合せ
 工法で 室町時代後期の様式を残しており、その彫刻は 見事です。
 ご本尊は、阿弥陀如来座像である。 三岳修験道の小金ヶ岳・廃福泉寺より 移したもので
 法道仙人作と伝えられている。
 室町幕府13代将軍・足利義輝の子である覚山天誉を開山として 高城山の山麓に創建された。
 覚山は 晩年、西紀町宮田の廃浄福寺に 隠棲し、そこで 亡くなった。
 篠山城が築城されると、当寺は 民心の安定と 城下町造りの拠点として この地に 移築された。
 本堂・山門は 当時のままで、秀治公の肖像画と 八上城合戦図絵が残り 「知新館」跡の碑がある。


 次に 南にある妙福寺へ行きます。 ちょっと 道を間違えましたが 南へ廻って・・。
宝乗山妙福寺は
 ご本尊は 久遠実成本師釈迦牟尼仏座像で、縁起によれば 永仁~正安(1293~1302)
 のころ 摂津国島上郡五百住村に 草創されていた一寺があった。
 荒廃していた同寺を 京都本國寺・蓮光院十四世日助上人が、松永某のために 日蓮宗寺院
 として 開基、再建したのが 妙福寺のはじめという。
 弘治元年(1555) 八上城を攻略した 松永久秀は 甥の松永孫六を 城主とした。
 後に 妙福寺に参詣し 尊崇を深めた孫六は 永禄五年(1562) 当時の住職日洞上人に
 請うて 八上城下に移した。
 天正七年(1579) 八上城が落城。 慶長14年 篠山城が築かれ 城下割りが行われ
 八上城下にあった 誓願寺などとともに 妙福寺も 現在地に 移築された。
 一帯は、篠山城下町の西の護りにも なっていたようである。
 寺宝の木造日蓮上人座像は 室町期の作で 市指定文化財となっている。


御徒士町通り武家屋敷群
 江戸時代、篠山城の外堀の周縁には、その身分によって 武家屋敷が 配置されていました。
 安間家は 通称「御徒士町(おかちまち)」と呼ばれる 武家屋敷群の一角にある 標準的な
 徒士住宅で 篠山藩主・青山家の家臣で 下級武士でした。 白壁の小林家長屋門もあった?
 安間家から寄付された 安間家史料館は 天保元年(1830)以降に 建てられた武家屋敷で
 全面的な改修を行い、史料館として 一般に公開したものです。


 茅葺で 曲屋形式の母屋と 瓦葺の土蔵が 残っており 当時の武家の暮らしを伝えています。
 内部には、安間家に伝来した古文書や日常に用いられた食器類や家具をはじめ 寄贈を
 受けた 篠山藩ゆかりの武具や史料を展示し 奥に 庭園もあります。
 有料なので ここも 軽くパス・・・。


 安間家史料館の南を東へ抜けると 外堀の南西部に出ます。 ここが 南の馬出で ここから
篠山城の三の丸に入ることもできます。
南の馬出
 馬出(うまだし)は 城門の外を守る施設で、城内への出入りを 複雑にする仕掛けである。
 篠山城には 北、東、南の 三ヶ所にあったが、現在、東と南の馬出が 残っています。
 戦いが始まると 城将は 敵状を偵察したり、兵馬を集めて 外へ出撃する拠点とした。
 この馬出が 発展して「馬出曲輪」、「出丸」となっていった・・・。
 大阪冬の陣で 有名な「真田丸」は、出丸の規模が さらに 大きくなったものである。
 南の馬出は 東西100m、凹字型の高さ約4mの土塁と 幅約40mの濠に囲まれ
 規模が 大きく、搦手(裏門)の防衛を 重視したと思われる。
 土塁が 残存し 築城時の姿をとどめ 現存している日本唯一の土塁馬出として、貴重な遺構で
 昭和31年  国史跡に指定された。
 一方、東の馬出は 南の馬出より 小ぶりだが 石垣造りのスマートなたたずまいを見せている。


 南へ下ると 武家屋敷・佐藤家があります。 この辺りに 篠山藩校「振徳堂」があったので
しょうか? 10代藩主・青山忠高公は 明和三年(1766) 振徳堂を創建、学規を定めたそ
うです。 東へ進むと 「歴史の散歩道」。 53次の標柱はありますが・・・。
歴史の散歩道
 篠山城南にある馬出の堀を隔てた南、東西に通じる小道が「歴史の散歩道」で もともとは
 川筋であった。 篠山城を築くとき 城地の東方を流れていた 黒岡川を西へ直角に曲げ
 南堀端に平行するように 流路を変え 外堀、内堀に 加えて 南方の防御に備えたのである。
 戦後になって 流れを昔に戻して 廃川とし 後に 遊歩道として 整備された。 篠山市内でも
 古い景観が残るエリアで 御徒士町武家屋敷群と 河原町の商家群を結ぶ道でもある。


 散歩道を歩くのは止めて 濠に沿って東へ歩きます。 この辺りにも 古い屋敷が並んでいます。
篠山城の天守台の石垣を見るため 篠山小学校の扉を抜け 校庭を横切って 濠の傍へ・・。
プールで 水泳の授業中でしたが 誰にも見付からず・・・。


 さらに東へ歩き 信号を渡ると 河原町妻入商家群。 少し進むと 丹波古陶館があります。
河原町妻入商家群
 旧街道の面影を残した街並みの河原町は 築城後 町造りが始められ 城下町篠山の商業の中心
 として栄えました。 篠山の中でも とりわけ江戸時代の風情を残し 妻入の商家が 立ち並ぶ
 家並みは 往時の姿を今に伝える素晴らしい景観を織りなしています。

丹波古陶館
 丹波焼は、平安時代末期に 窯の煙をあげて以来800年、途絶えることなく承け継がれ
 我が国・民陶の歴史を 語る焼物として 親しまれています。
 丹波古陶館では、丹波焼の創成期から江戸時代末期に至る700年間に 作られた代表的な品々を
 年代・形・釉薬・装飾等に 分類して 展示しています。 が 有料なので 軽くパスします。


能楽資料館
 この地域は 古くから京都の風俗習慣が色濃く伝わり また 神仏心信仰も厚かった。 その中で
 社寺猿楽の系統の丹波猿楽や 鎮魂のための 神事芸能として生まれた田楽も 農民大衆の間に
 広まっていった。 時代の脚光を浴びて 能が江戸幕府の式楽となると、歴代城主が 家紋・譜代
 大名であった篠山では 武家をはじめ 領民たちの間に 能楽の習得は 必修の教養の一つとされた。
 年間を通じて、城中や春日神社の能楽殿の他各所で演能が行われ 現在も その流れは続いている。
 能楽資料館では 能の発生期からの能面、装束、楽器など 歴史的・美術工芸的に 大変貴重な
 数々の名品が展示され、春日神社の能楽殿や 各地の演能にも使用されている。


普門山観音寺
 いかにも禅寺らしい観音寺。 本尊は 仏師春日または定朝の作という釈迦牟尼如来。
 永禄五年(1562) 波多野晴秀公は 崇敬していた 知足村の観音堂を 八上城下に 移築。
 観音寺を 創建したのが 当寺の始まりである。
 篠山に築城後 寛文十年(1670) この地に移された。 観音堂の木像十一面観音立像は
 平安期の作で もと東新町割場の宝寿院の観音堂にあったのを 奉安したものであり 古くは
 山岳の寺院にあったと言われている。 また 篠山城大書院の障壁画や 南画の平地藍岳の
 襖絵がある。 最近 山門と 観音堂が 立派に 改修された。



妙長山本経寺(日蓮宗)は 総本山は 身延山久遠寺
 慶長六年(1601) 城主・松平信吉公が 実母 菩提のため 茨城県に建立した寺で
 元和五年(1619) 松平信吉公が 篠山城主として 転封の折り 現在地に建立された。
 信吉公が亡くなると その子・忠国公が 跡を継ぐが 慶安二年(1649) 明石城へ転封となる。
 本経寺と王地山稲荷神社は 現在地にとどまることを 許された。
 次代・松平康信公、青山公と 歴代城主の帰依をうけた・・。
 
 白亜紀の湖の岸に 打ち寄せられたさざ波の跡や 貝の這い跡が 化石になって隆起したもの
が見られることから むかし この付近は 湖の南岸であったと 考えられる。


開法山真福寺
 文禄2年(1593) 誓願寺覚山天誉大和尚の高弟岸空本柳和尚を開山として 八上下村
 に 創建され 東林庵と称していた。 ご本尊は 阿弥陀如来立像である。
 昔 小多田村に 高聖寺という寺院があったが 明智光秀が 織田信長の命により 丹波攻めをし
 八上城を攻略し 天正6年(1578)ころ 兵火のため 焼失した。 岸空本柳和尚が その跡を
 尋ねると 法道仙人作という薬師如来像と阿弥陀如来像が 難を逃れて 岩上にお立ちになっ
 ておられた。 そこで 薬師如来像は 善導寺に安置し 阿弥陀如来像を奉安すべき 真福寺が
 建立されたという。 篠山城が築かれ 城主松平康重の指図によって この地に 移築された。


 商家群を抜け 篠山川の土手に上がると 京口橋があり ここは 見晴らしがいい。
引き返し 本経寺の石段を上がり 上の道路を 王地山へ上がります。 勿論 自転車を
押して・・。 急な登り坂の脇は 青いアジサイの並木道です。 王地山公園の上は 階段
なので 自転車をデポして 歩いて まけきらい稲荷へ行きます。


 このページも長くなり キーボードを叩く手も疲れてきたので ここらで 休憩したいと
思います。 王地山公園に上がってからの「つづき」は 第二部に 譲ります。
  。。。。。。。。。。。。。      第二部へ つづく       。。。。。。。。。。。
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