私の日帰り散策

写真でつづる山歩き、ドライブなどの日誌です。
最近は ギャラリー巡りをしています。

明石 歴史 散策

2012-06-11 16:03:30 | 日記
 6月11日(月)  天気:晴れ のち 曇り   室温:27.4℃

 「県民だより ひょうご 中播磨版」 5月号を見ると 「明石で 大河ドラマ ゆかりの史跡を 訪ねる」
まち歩きコース(明石市)というのがあり ”武蔵の庭と源平合戦の一場面 明石で 歴史散策を楽
しもう” とあります。 暇人としては 行くしかありません。 ブログのネタにも 困っていることだし・・・。
 幸い 「あいたい兵庫」2012 春・夏号・ガイドブック(兵庫県 観光振興課 発行)は 手元に 2冊
もあります。  きょうは 気温が高く、暑い予報でしたが 雲が出てきて ふつーの暑さでした。

 ”県民だより” を 参考に 下記をめぐります。 この前の加古川より 少し ショートコースか・・・。
前半は 明石城周辺の宮本武蔵ゆかりの地を訪れ 次に 人丸前駅周辺の源平合戦ゆかりの
地へ行き 後半は 体力、時間と相談のうえ 西国街道周辺(休天神社、稲爪神社、本陣跡etc.)
を 歩きたいと思います。
 ①明石公園(武蔵の庭園) ②本松寺 ③月照寺 ④柿本神社 ⑤雲晴寺 ⑥馬塚・両馬川旧跡
 ⑦腕塚神社 ⑧休天神社  ⑨忠度塚 ⑩稲爪神社・・・その他 いろいろ


 明石駅周辺を歩くので 今日も電車です。 8:29 網干始発の新快速に乗ると 網干駅
で ほぼ 満席になりました。 9:04 30分ほどで 明石着。 網干ー明石=820円。
駅のホームから 明石城の櫓が見えますが 写真を撮るには ケーブルが邪魔で・・。 


 まず 明石城へ行きます。 駅を北へ出ると 明石城の正面入口です。
明石城の縄張りは 連郭梯郭混合式の平山城で 丘陵舌端に築かれ、本丸付近には 柿本
人麻呂を 祀った人丸塚があったと言われ この地は 「嘉吉の乱」で 激戦地となった。
 明石の地は、山陽道が通り、北には 丹波国、但馬国への道が分かれ、淡路島、四国へ
のルートがあり 古来より 交通の要衝であった。
 徳川幕府が 西国の外様大名の抑えの城として、姫路城についで 着目した。
天文年間初頭(1500年代前半) 豪族明石氏が 明石川の水系の谷、平野を支配するため
に 築いたといわれ 現在 城跡に 痕跡は 見られませんが、そこには 柿本神社があった?


 次に登場するのが 織田信長の命を受けた羽柴秀吉と別所小三郎長治との激突で知られ
る 三木合戦で・・・。
1617年(元和3年)信州松本城主より 明石藩主となった小笠原忠真は、明石城の西方、明
石川河口西岸にあった船上(ふなげ)城に 入城した。 譜代大名たる小笠原氏10万石の居
城として 城郭を 建設するよう 同年に 2代将軍 徳川秀忠より 築城命令が出され 明石城
が 築城され 船上城を 廃城とした。
 天和2年(1682)に 越前松平より 松平直明が 6万石で 明石へ入封する。 これ以降、こ
の越前・松平家が 明治維新に至るまで 明石藩を治めることになる。


 本丸の西南にある 天守台は 約152坪あり 広さから推察すると 5重の天守が 築か
れる予定だったが、天守は建設されず、四隅に 巽(たつみ)櫓、坤(ひつじさる)櫓、乾櫓、
艮(うしとら)櫓が 建設され 坤櫓が 天守閣の代用と言われる。 そのうちの南側の2棟
巽櫓、坤櫓が 現存し 国の重要文化財に 指定されている。
 西側は 明石川を 自然の外堀とし 南側は 運河を掘って 港を兼ねた外堀(現在の明石
港)とした。 北側は 鴻の池(剛の池)と 自然林、谷筋で 防備を固めた。

 明石城跡に広がる明石公園には かって城内にあった 武蔵が設計したという庭園が 再現
されています。 宮本武蔵は 初代明石城主・小笠原忠真に招かれ 城下町の町割りを 指導
したといわれる。 庭園は ひょうたん型の池を中心に 大小の滝や 東屋などが配され 優
雅な雰囲気を 醸し出している?  実際に 武蔵が 手掛けた庭は すべて 枯山水です。
 余談になりますが 姫路城主・本多忠政の子・忠刻の 剣の指南役が 武蔵だった・・。


 天守台から 本丸跡へ廻ります。 本丸の北東にあったのが 四間×五間の 艮(うしとら)
櫓で 本丸の鬼門にあたる櫓として 重要であったが 明治の初期 解体され 礎石が残る
のみ・・。 二ノ丸、東ノ丸を歩き 明石公園の北東部から 出ました。 城跡めぐりに 1時
間近くかかりました。 先が思いやられます・・。


 公園を出たところに お地蔵さんが ありましたが・・・。 南の階段を降りて 文化博物館の
前の坂道を 東へ進みます。 明石神社へも寄りたかったが・・。 明石上の丸教会の前を
下ると 妙見宮がありましたが スルーパス。 妙見宮は 本松寺の一部?


 カーブを曲がると 本松寺。
本松寺は 慶長元年、秀吉の家臣藤井新右衛門勝介の寄進により 明石川の西南 船上
城下に 創立された。 開山は、審理院日甫上人であるが・・・。
また 剣豪武蔵により 城下の町割が設計され、明石の中心も明石川を越えて、東へ移り
これに伴い 元禄四年 現在の地に移転した。 然る處 昭和16年10月 不幸離書院より
失火・・・小書院を復興、 庭園を整足。 また 昭和56年には 本堂の大改修を行い・・・
平成6年には 妙見宮の本殿・拝殿ともに 大修理を行い 落慶法要を・・・。 

 元和四年(1618) 明石に 迎えられた武蔵は 本松寺の庭園の作庭に当たった。 枯池
枯山水の庭園は 石組は 小振りであるが 平面構成を重視し 視点による変化を・・・。
庭園は 戸が閉まっていて 見ることができません。
裏の墓地に プロレスのジャイアント・馬場の墓があるって ホンマ?


 東の月照寺へ向かいます。 林の中を登ると 月照寺。
天文科学館の背後、緑に包まれた銀色の甍、大きな伽藍、それが 道元禅師の広めた曹洞宗
人麿山月照寺である。
 今を去る1200年ほどの昔、弘仁2年(812) 弘法大師 空海が 明石の岡、赤松山(現在の
明石城祉)に 湖南山 餘鵜楊柳寺を創建した。 仁和3年(887) 楊柳寺 覚証和尚は、大和
の柿本山広安寺より 人麿念持仏であった 船乗十一面観世音を 勧請して 奥の院に 奉祀し
寺号を 月照寺と改めた。 天正2年(1574)真言宗から 曹洞宗に改宗。 元和7年(1621)
明石築城によって 境内が 城地となり、翌8年 人丸社、月照寺の新殿が 現在地に竣工した。
 延享元年(西暦1744年)山号を 人麿山と改め、明治4年 神仏分離令により 人丸社は 月
照寺より分離して 柿本神社となった。 柿本神社は 東隣です。 鉢植のハスが・・・。

 逆光で 黒くなり見え難いが 山門は 元和四年 小笠原忠政が 徳川秀忠から 伏見城 薬医
門を拝領、明石城の切手門とする。 明治6年 月照寺の山門として 移設された。
 境内には 赤穂浪士・大石良雄が 参拝して 素願成就を祈り 持参した梅を植えたと言われ
梅は 紅梅で 一つの花から七、八個の実を結ぶので 八ッ房の梅 と称される。(三代目)


 月照寺の前に 「日本標準時子午線標示柱」 があります。 ここが 東経135度だ そうです
が 地理院の地図・須磨 では 135度の経線は 約400m西の 明石小学校の上に ありま
すが・・・。 標柱の上の丸いのは 地球で 上に 赤トンボが止まっている? 後方は 天文科
学館。  東隣の柿本神社の前は 明石大橋の絶好の展望台。 少し雲が出てきて モヤっ
としています。
ここに なぜか 蛸壺塚があり 松尾芭蕉の ”蛸壺や はかなき夢を 夏の月” の句が・・


 柿本神社の祭神は 柿本人麿公で 奈良時代宮廷に仕えた歌人で、万葉集、古今集など
合わせて 400首以上の歌が 載せられています。
 「天離(あまざか)る 夷(ひな)の長通(ながち)ゆ 恋ひ来れば 明石の門(と)より 大和
島見ゆ」など 明石で 詠まれた歌もあり 当時、明石城主であった 小笠原忠政公が 人麿
公を 歌聖として 大変 崇敬され縁深い この地に 祀った。(元和6年)
 主なご神徳は、学問・安産・火災除、更には 妻に捧げた歌もあることから、非常に愛妻家
であったことが うかがえるため 夫婦和合の神としても お祀りされる。 


 仁和3年(887)に 柿本人麻呂公の霊夢を 見た楊柳寺の覚証上人に よって 大和の柿
本寺から 柿本人麻呂公が 念持仏としていた船乗観世音像が遷され、寺の背後に 人麿
祠堂を 建てたのが 始まりといわれています。
 明石城が築城されると 建てられたのが 人麿祠堂の建つ 赤松山だったため、人麿祠堂
を自由に 参拝できなくなった民衆が 京都所司代に訴えを起こし 明石藩の統治のためには
得策でないと考え 所司代の仲介もあって 人麿祠堂は 元和8年に 月照寺とともに 現在の
場所に 移されました。
その後 明治4年の神仏分離令によって 月照寺と分けられ、柿本神社となりました。
「人丸」は「火止まる」「人生まる」 に 通じるということで、火除けや 安産の信仰があります。
学問や文芸の神様としての信仰も 厚い神社です。
 本殿の前にある狛犬は 宝暦四年(1754)の銘があり 石造りの狛犬としては 市内では
一番古い。 手水舎の手水鉢には 亀がいます。 普通 龍ですが・・。 これは 初めて 見
ました。 丘の下に 「亀の水」 があったので これに 由来するのでしょう。


 すこし遠回りしましたが 天文科学館の西に降りると 名水長寿「亀の水」があり 水を汲んで
いる人がいました。  南へ下り ちょっと 分かり難いところにある 雲晴寺に行きました。

 雲晴寺の開基は、寛永16年(1639) 明石藩主・大久保忠職が 入封のとき 明石へ移るに
あたって・・・寺院を建立し 開山のために 能山侃藝(かんげい)和尚を 伴って来ました。
里見忠義の法名である雲晴院・・・居士に因んで 「雲晴寺」 と名付けられた。
 当山は 江戸初期、明石藩のころから 明石城武家屋敷の東側、大蔵門の東に位置し、鐘楼
・・・など 伽藍が整った 明石を代表する寺院であったが・・・戦争末期の爆撃により 山門を残
して全焼した。 壇信徒や地域の方々の・・・再建を重ね・・・新本堂再建を成し遂げ・・・。
 
 雲晴寺にも 武蔵作の庭園があったという伝承があったが、平成15年の新本堂建設に伴う
発掘調査により 池の一部と・・・石橋が確認され、広い庭園であったことが 明らかとなった。 
武蔵の孫弟子にあたる柴任道隨重矩と 夫人の墓石などもあることから 武蔵との関連がある
寺であったと言える。


 雲晴寺は 代々の藩主より寄附を受け 整備などが進められる。 人丸山の麓、その東側に
あった寺院が 藩主越前松平家の菩提寺「長寿院」となったのに対して、西側に位置する雲晴
寺は、大名分であり、松平家の家老職を 代々務めた 織田家、津田家の菩提寺となった。
墓地に眠る石塔が それらの人たちの歴史を物語っています。

 また初代内閣総理大臣、伊藤博文(俊輔)ゆかりの寺でもある。
慶応2年(1866) 長州藩士伊藤俊輔は、譜代大名松平氏が治める明石藩の動静を探るため
この地に派遣され、当山に滞在した。(奥の茶室に潜伏したと伝承あり) 当時 この寺の住職
は、長州藩の武士出身であった。 長州出身の住職によって、手塚又右衛門の馬丁として 潜
り込まされた。 つまり間者、今で言う スパイである。


 JR沿いに西へ歩くと 長寿院があったので ついでに寄りました。 参道を北へ進むと
門がありますが 中は 保育園で 園児が賑やかに 遊んでいます。 門は 閉まっているし
乗り越えると 110番通報されそうなので 長寿院は パスしました。 長寿院は 歴代
明石城主の菩提寺?


 やっと 前半戦が 終わりました。 中盤戦の源平ゆかりの地へ行きましょう。
山陽電車の人丸前駅の下の道路を 北の天文科学館へと歩くと 歩道に 「馬塚」 と 標され
た石碑と標識があります。 うっかりすると 見逃しそう・・。 馬塚は 平経盛の子である平
経正(敦盛の兄) の馬を埋めたといわれているそうです。 平経正、敦盛兄弟ともに 一ノ谷
の合戦において 若い命を散らしたのでした・・・。

 南へ下ると JR神戸線のカードがらあり ガード下に 「両馬川旧跡」の碑があります。
寿永三年(1184) 一ノ谷の戦いに敗れた薩摩守・平忠度(ただのり)は 西へ落ちていっ
た・・。 源氏の将・岡部六弥太忠澄は これを見て 十騎あまりで 追った。 忠度に 付き従
っていた四人は 追手に討たれ 忠度も 両馬川まで来たとき 忠澄に 追いつかれた。
 二人の馬が 川を挟んで戦ったので 両馬川と呼ぶようになった・・・。 現在は その川も
埋められ 暗渠になり 横は 自転車置き場になって 昔を偲ぶよすがもない・・・。


 両馬川で 忠度と忠澄が 戦ったとき 二人は 組み討ちとなり 忠度は 忠澄を取り押さえ
首をかこうとした。 忠澄の郎等は 主人の一大事と駆け付け 忠度の右腕を切り落とす・・。
「もはやこれまで・・」と 忠度は 念仏を唱え 討たれる。 箙(えびら)に結び付けられた文
を広げると ”行きくれて 木の下陰を 宿とせば 花や今宵の 主ならまし” 忠度と・・
清盛の末弟・忠度は 藤原俊成に師事した歌人でもあったのです。

 山電高架の南に 腕塚神社という小さな祠があります。 線路脇に 忠度の腕を埋めたとい
う小さい祠があったが 高架工事の際 現在地に移されたものです。 木彫の右手が 奉納さ
れ それで 患部を撫でれば 治るという言い伝えが・・。 右手が 見当たりません・・・。
この辺りの町名も これに因んで 右手塚(うでづか)町であったが 天文町に変更され・・。

 国道2号線に出て 東へ行くと 陸橋の下が 休(やすみ)天神社。 休天神社は 菅公ゆ
かりの神社で 明石の駅家(うまや)の跡とされ 鳥居を入った すぐ右に 「菅公駐駕驛長宅
址」と 書かれた標柱があります。 菅原道真公は 延喜元年(901) 大宰府への旅の途中
ここに 立ち寄り・・・。 下の写真に 本殿とあるのは 間違いで 拝殿です。


 鳥居を潜り 境内に入ると 境内は 駐車場になっています。 事情があるのでしょうが
お参りする気には なれません。 境内も荒れています。 拝殿の前には 天神さんにつき
ものの 牛の像があります。
 大宰府へ行った菅原道真公が 亡くなったということを聞いた駅長が、菅原道真公を祀る
祠を 延喜3年(903)に 建てたのが休天神社の始まりといわれています。 江戸時代の
延宝4年(1673) この祠は 明石城主・松平信之の手によって 神社として祀られるよう
になりました。 道真公が 座って 休んだといわれている菅公踞石も この3年後に 近くに
ある大蔵院から ここに移設されたそうです。 本殿脇にある「菅公踞石」 には 柵があって
近づけません。

 国道2号線に出て 東へ進むと 稲爪神社。 北の裏門から入りました。
拝殿、本殿は 入母屋破風と唐破風が組合された 銅板葺きの屋根で 豪華です。


 当社の創祀は、推古天皇の頃、朝鮮半島から 鉄人が 約8000人を率い来襲しましたが、
その討伐を命じられた 伊予の国の「越智益躬」(おちのますみ)は、故郷の大山祇神(おお
やまづみのかみ)に 祈ったところ、鉄人が 明石に着いた時、稲妻と共に大山祇神が 姿を
現し、鉄人の弱点の足の裏を 射よと告げた。 これに驚いた 鉄人を 越智益躬が 矢で 射
殺した。 越智益躬は、大山祇神に感謝し、この地に 大山祇神社を勧請したと伝えられて
おります・・・。 余談ですが 越智益躬は わが町 網干の河野鉄兜・東馬の祖先です。

 楼門(随身門)の裏側の蛙股は、左甚五郎の手による、素盞鳴尊の八岐大蛇の退治する
作品とされています。 左甚五郎は この播磨(明石市)で 文禄三年(1594)に生まれた
宮大工・伊丹利勝の別名とされております。


 稲爪神社を出て 本陣跡を探しながら 適当に歩いていると 大蔵(だいぞう)院があり
ました。 嘉吉元年(1441) 赤松円心の孫?祐尚(すけなお)は 大蔵谷に 陣を構えた。
居城を 三木城に 移すにあたり 陣屋のあとを 寺院にしたといわれる。
 伝定朝作の観世音菩薩を 本尊とし 境内の祠には 青面金剛の石仏が 祀られている。
墓地に 赤松祐尚夫妻の墓があり 夫妻の法号の”見江院” と ”大倉院” が 山号と 寺名
になっている。 祐尚の墓を探す元気は ありませんでした・・。


 この後 本陣跡を 探し回ります。 東へ行けば 近くだったのに・・。 勘違いして 西の
人丸教会や 稲爪神社の辺りを 歩き回ります。 教会が多い?のは 船上城の城主だった
高山右近が キリシタン大名だったから? 後に 秀吉によって 追放された・・。


 歩いていると 忠度公園があります。 なんてことない公園ですが 平忠度の名が 付けられ
人磨呂の歌碑 ”白真弓 石辺の山の 常盤なる 命なれやも 恋ひつつをらむ” があり
前田純孝・絶筆 の歌碑も あります・・。
 忠度公園を 東へ戻ると 「忠度塚」がありました。 住宅地の路地の中 裁判所の裏?です。
忠度を祀る塚で 両馬川で討たれた 亡骸を埋めたところと 伝えられています。


 本陣跡を探し 右往左往・・。 聞いても 何もないのですから 誰も知りませんし・・・。
真っ暗な大蔵市場?を 抜けると お稲荷さんがありました。 受持姫大明神?
 前の薬局で 尋ねると ちょうど 今朝 配布されたという地図を 見せていただき この辺り
が 本陣跡? なーんもありません。 前の大蔵会館に 「立札」 があり・・

「大蔵地域 約千年の史跡」 によると 大蔵という地名は 古く 「太平記」などにも 記され
畿西と近畿をつなぐ 重要な役割を果たしていた。 江戸期には 山陽道 屈指の宿場とし
て 栄え 本陣・旅籠61軒・・・の記録があり・・。 街道には 大蔵院、西林寺、八幡神社、
稲爪神社、休天神社など 多くの史跡があり それぞれに 深い千年の歴史の彩りを 大
蔵の地は 秘めている・・・。 立札のお陰で 私の苦労も 報われました・・・。
 ついでに 南の大蔵海岸公園に行き 明石大橋を見て 気持ちも すっきり。


 もう 特に 見るべきところもなので 旧西国街道を 西へ行き 明石駅へ戻るだけです。
てくてく歩き 人丸教会へ戻ると 角に 「日本標準時 子午線」の標柱があります。
ここは 東経135度の正確な位置なのでしょうか? 私の頭のGPSでは 100m西?


 横には 子午線交番が・・。 街道を西へ歩き 県道62号線を横断して 商店街を
抜けると 魚の棚商店街。 さすがに 人通りも多く 賑わっています。 


 13:50ころ 明石駅にゴ-ル。 ホームに上がると 電車が発車寸前。 急いで 飛び乗り
ました。 飛び乗った電車は 13:51 上りの新快速でしたぁ・・・。 どんどんスピードを上げ
着いた駅は 神戸駅(14:02)。 あー 歳は 取りたくない・・・。 下りのホームに上がると 見
覚えのある景色が・・。 この前 大輪田の泊を歩いたとき ここで 電車に乗ったかも・・。


 14:10の新快速に乗り 14:46 姫路に着き 14:59 に乗り換え 15:10 網干着。
無事 帰ってきました。 このペ-ジも なんとか 2万字以内に 収まったことだし・・。
明石歴史散策は いい勉強になりました。 嘉吉の乱が出てきたり 赤松祐尚が出てき
たり 本多忠刻(千姫の夫)が でてきたり 河野東馬の先祖がでてきたり・・・。

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コメント (2)
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