西都モノクローム

西都大好きな市議会議員が、徒然なるままに街のこと、写真のこと、空手のこと語ります。

空手の話し③

2010-03-17 22:41:06 | 日記
さて洗礼を受けた(空手の話し②に続く)私たちは、晴れて真の空手道部員になりました。やはり数名が退部を申し出ました(そりゃ、先輩の話と現実は違いすぎますから、しょうがないです)。でも退部を申し出るのには勇気がいります、それはもう一度洗礼(あの厳しい、そして最後だから容赦がない)を受けて初めて退部が受理されるのです。だいたいそれがいやで、退部するにのと普通の方は思うでしょう。これには海より深い理由があるのです、先輩曰く「将来を考え肉体的(精神的にも)に最もつらい状況でも、折れない心と体を鍛えるために心を鬼にして、涙してやっているんだ」(絶対嘘だと思いました、そして私たちがやる側になったらやはり嘘でした)。でもね、アレを見たら普通下級生はこう考えます「こりゃあかん、あの洗礼を受けないと、やめられないんだったら・・・我慢しよう」先輩の(伝統の)思わく成功ですね。ということで、やめる勇気のない部員は、その状況を受け入れようと人格を変えていきます(洗脳ですね)そして、どこに出しても恥ずかしくない大学空手道部員の一丁あがりです。私はBAKAですから、やめようという気は起こりませんでした。ただひたすら稽古の日々です。信じられないでしょうが私は4年間大学無欠席です、それは勉強したいからでなく、毎日空手の練習があるので仕方なく大学に行くからです、いったついでに授業を受けるんです(本末転倒といいます)。稽古休むとプチ洗礼が待ってます・とても学校休む勇気はないです。さてそうやって、毎日毎日僕らは鉄板の(およげタイヤキ君より)・・じゃなく道場でひたすら稽古です。私は自分から入った割にはまったく空手の知識はありません(知ってることは空手バカ一代のマンガだけ)でした。うちの大学はとにかく基本稽古ばっかりです。そして試合もありません(実は内緒で年に2回だけありましたが)。ある日先輩に聞きました、「押忍、試合はないんですか?」先輩「出来ない」私「押忍、出ないんじゃなく、出来ないでありますか」先輩「師範の命令で、試合は禁じられている」日本本土には4大流派があります(松濤館流)(剛柔流)(糸東流)(和道流)です、私の大学は松濤館流でした、(ここからちょっと専門的な話し)松濤館流の流祖は船越義珍先生です。明治元年(諸説あり)に沖縄で生を受けました。体の弱かった先生は何とか強くしようと学友の父である安里安恒先生に空手を学ばれます。成人して学校の先生になられました。成人後糸洲安恒先生にも習われています(あのころの沖縄では、いろいろな先生に習うことが普通に行われていました)。大正10年に文部省主催の第一回古武道体育展覧会が開かれ、沖縄代表として本土で初めて空手を披露します。嘉納治五郎先生(柔道の生みの親)から請われて、日本に残り空手を普及します。大学生を中心に教え始めました。枯れ野が燃え広がるように瞬く間に空手が広がっていきました。先生は唐手を空手に変え、形の名前を日本語表記に直されました(ピンアンを平安・クーシャンクーを観空など)。先生は空手は武術であり、試合を行うのは空手の道とは違うと思われていたらしく、一切の試合を禁じていました(注意 組み手を禁じてたわけではありません)でもやはり試合がしたいと思う若者が多く、先生は大変悩まれていたそうです(沖縄では空手は君子の武道と言われていました)時代が過ぎ船越先生の空手は2つの流れに分かれました「日本空手協会」「松濤会(前身)」です。私の大学の師範は可知師範といい、船越義珍先生の直系(松濤会系、但しその後松濤会は江上先生により、技術系統をがらっと変えてしまいました。私の大学は変える前の松濤会系です)の師範でした。したがって対外試合は許されませんでした。試合がないと稽古はどうなるか、基本と型と約束組み手をただひたすらやっていくのです。空手をやっている方はわかると思いますが、これが一番つらい練習です(何せ休める時間がない)。組み手の練習はけっこう楽なのです(時間の経つのも早いし、休める時間があります)。毎日基本、形をやり夏休みになりました。大学の夏休みは2ヶ月あります、後半の一ヶ月は地獄の夏合宿がありますが、前半は自由です。私は組み手がやりたくて東京に行きました。極真会のサマースクール(合宿)に参加するためです。あのころ極真会は会員をひたすら増員していて、梶原一騎先生、真樹日佐夫先生の渋谷道場が中心で通信教育のスクーリングをしていました。私はそれに加入していたのです。名古屋から東京渋谷に行きました。挨拶をするため(記憶がおぼろげですが、その日泊まるところを探すためにいったのかなあー?)とある雑居ビルに梶原プロがあり、そこに訪れました。顔のこわい真樹先生がいました。顔はとってもこわいけど、やさしい先生から泊まるところ紹介受けました。合宿は九十九里浜でおこなわれました。(後日につづく)
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