写真の話②です、今回も私がやってきた写真展の説明文を載せ、語っていきます。
私の場合、写真展の準備はこのように行います。
1.写真展の内容をおぼろげながら決める(例えばポートレートでいこう、とかです)。
2.写真展の場所を探す(展示内容にあった所)
3.場所の空いている日時の中から、適当な日時を決める(最低3ヶ月は欲しい)。4.ベタ(ネガからそのまま陽画にしたもの)を見る。
5.ベタをひたすら見る。
6.おおざっぱに写真展の展示数より多めにセレクトする。
7.セレクトしたコマをプリントする(だいたい大4つ)
8.プリントを見て、並べる順番を考える
9.最終プリント作成。
10.それを見て写真展の文を書いていく。
11・写真展へ
というわけで、私の写真展に必ずある、説明文は写真展全体のエキスみたいなものです。
それでは今回は日本写真界の生きる神話「東松照明氏」に会いに行くため長崎に行った時のものです。
《日時はいつでもどこでも、同じように、正確に刻むもの。一日は春だろうが秋だろうがいつだって24時間であり、その長さに違いは無い。けれど、時間に気持ちや感情が入ると、どの一日も同じ24時間だが、違ってくる。そのときの時間の感じ方に早い遅いの違いは言うに及ばず、過去を振り返った記憶という事においては歴然とした違いがある(しかし、なんと忘れている事の多いことか・・・)。
2003年12月7日ー8日の2日間は、いくつかの特別な日の中の一つであった。そのたった2日(でも私にとって特別な2日)のようすが今回の写真展である。
┌───────────────────────────────┐
│ 橋口登志郎 写真展 │
│ │
│ 長崎 NAGASAKI │
└───────────────────────────────┘
生ける伝説
30才前後で写真が好きになった私は、写真の情報をもっぱら本から得ていた(写真クラブに入った事もなけりゃ、廻りに写真好きな人はだーれもいなかった)。
当時名古屋に住んでいた私は鶴舞にあった古本屋街に浸り、アサヒカメラ、日本カメラ、毎日カメラ(このときはすでに廃刊になっていたけど)などのカメラ雑誌、写真集、写真に関する評論など、山のように買い、むさぼるように読んでいた。
カメラが欲しいという物欲からこの世界に入ったけれど、写真雑誌、写真集を見ている内に写真自体が好きになった。
そのころ好きだったのは外国ではユージン・スミス、メープルソープであり、日本では荒木経惟、森山大道だった。
荒木さんや森山さん、またその時代に活躍していた写真家の記事等を読んだりしていると、彼らがあこがれたり、畏怖していた人物が浮かびあった。
それは日本の写真界に輝き、ある種写真表現の方向性を導いた写真家、東松照明であった。
そのころの私(仕事の合間に、チョコチョコ撮ったり、家族が寝静まった後洗濯機の上に小型の引き伸ばし機を据え、キャビネのプリントをつくり悦に入っていた)にとって東松照明は知識として知ってはいるけど、まず会うことなど想像だにできないまさしく“生ける伝説”だった。そして、東松照明という存在は、写真にのめり込み、写真を知れば知るほど、(その凄さをさらに知る事になる)尚のこと遠い存在となっていった。 ところで、故郷に帰る 長男の宿命で故郷西都に帰ってきた私は、思いっきり下がった給料に嘆きながらも、それまでのマンション暮らしでは叶えられなかった事をやった。
暗室を作ることである、名古屋時代の狭い洗面所の洗濯機の上に引き伸ばし機を据え付けてコソコソやっていた暗室作業が、常時作業可能な暗ー室ー♪での作業になる。
作った暗室は狭く、夏暑く冬寒く、その上水道設備はないけど、いつでもネガが現像でき、プリントが出来るだけで幸せだった。
プリントがいつでも出来るとなると、行き着く先は写真雑誌のフォトコンテストの応募である。
名古屋時代にもフォトコンテストに応募していたし、何度か入選していたけど、今度は環境が違う。
どんどんプリントした、とりあえず日本カメラにターゲットを絞り数年間応募し続けた。
幸運が続き、入選し出すと(作品と名前と地元名が雑誌に載る)宮崎にも雑誌を見ている人が結構いるとみえ、私の事を知ってくれる人が徐々に増えてきた。
ある写真家の方が突然、「今度グループ展をするけど一緒に出展しませんか?」と電話をかけてきた、魁展というグループ展だった。
コンテスト以外で世間に写真を発表するのは初めてだった、それは楽しかった、作品をたくさんの人に見て貰うことによって充実感が得られた。
写真展をする事に嵌ってしまった、そしてそれから機会ある毎に写真展をした。
ドキュメンタリーフォトフェスティバル宮崎
考えてもいなかったことだが、写真展をする事によって・・、たくさんの人を知ることとなった。
知った人が別の人を紹介してくれ、いつのまにかたくさんの知人が出来た、それは写真の世界だけでなく、色々な分野に広がっていった。
その中でドキュメンタリーフォトフェスティバル宮崎のメンバー芥川さん、永友さんと知り合えた事と、そのフェスティバルに関われたことは幸せなことだとつくづく思う。このフェスティバルは写真展だけでなく写真作家の講演会、写真芸術の普及活動、アジアの写真家の紹介、写真展に伴う図録の作成販売、青少年の写真芸術に対する応援など、宮崎という地方都市では考えられないイベント(2005年には日本写真家協会賞を受賞)で、毎年行っている。
さて、ここからが今回の写真展に関係すること。(長~い、前フリだな)
フェスティバル5周年記念の作家を選考する際、誰ともなく東松照明の名前が挙がったのである。私の中での生ける伝説東松照明がである。
その時私はメンバーの中では若輩ものだったので、言葉に出しては言えなかったけど、心の中で「good!good!good!nice select!」と叫んでた。
そして、第5回は記念回として東松照明単独開催と決定した。
伝説の写真家に会える、私は興奮していた。
芥川さんがその会議の時言った「写真展開催で東松さんと直接会って、お願いした方が良いと思うんだけど誰か時間の都合のつけて、私と一緒に長崎に行ける人いますか?」12月は毎年仕事でとーっても忙しい月なのだが、「空いています、私その日は大丈夫です、私がお供します」言ってしまった、・・仕事・・そんなもの伝説の写真家に会う為なら野となれ山となれ・・。
というわけで大写真家、東松照明と会える機会を得た、あれほどあこがれた写真家東松照明に・・私は興奮した。
芥川さんは仕事の都合で会う日に長崎入りする事になったが、私はさっさと仕事の都合をつけ会う前日に長崎入りすることになった。
東松照明に明日会えると思いながら見る、長崎は私の心を強く揺さぶった。
そういった心の状態で見て、そして撮った私の私的な長崎が、今回の写真展、長崎NAGASAKIなのだ。》
以上が説明文です、この中に書いていないのですが私が写真展をしようと思ったのには原爆資料館の原爆投下の時の映像を見たことも強く影響しています。
とてつもない衝撃でした。それは写真のキャプションとして次のように書きました。 《 原爆資料館に入るとすぐモニターがあった。そこには、原爆の爆発している映像が流されていた。それは実際の映像であり、すさまじい光を放っていた。
1945年の8月、お昼前、(戦争中ではあったけど)市民はそこで普通に日常生活を送っていたわけであり、家庭では昼食の準備をしたり、子供達はお昼近くになり、おなかをすかせながら勉強をしており、どこかでは恋を語っていた恋人達もいたかもしれない、母は子供のことを井戸端で近所の人と話し、父は仕事場で汗を流し、お年寄りは戦争に行った子どもの無事を願っていただろう。
8月9日もいつものように流れる普通の日々であり、そこには普通の喜び、怒り、哀しみ、楽しみがあり、それは明日も続くと思っていたのに・・・。
モニターに映し出された光が放たれた瞬間、誰にでも約束されていたと思っていた、普通の生活は終わってしまった。》今回の写真の話しはここまでです。
写真は物を写すだけでなく、写している人(撮影者)の心の有り様を写します。
私のこの時の心は、東松氏に会える喜びと、1945年8月9日の長崎の人々の苦しみ、哀しみが渦巻いていました。
私の場合、写真展の準備はこのように行います。
1.写真展の内容をおぼろげながら決める(例えばポートレートでいこう、とかです)。
2.写真展の場所を探す(展示内容にあった所)
3.場所の空いている日時の中から、適当な日時を決める(最低3ヶ月は欲しい)。4.ベタ(ネガからそのまま陽画にしたもの)を見る。
5.ベタをひたすら見る。
6.おおざっぱに写真展の展示数より多めにセレクトする。
7.セレクトしたコマをプリントする(だいたい大4つ)
8.プリントを見て、並べる順番を考える
9.最終プリント作成。
10.それを見て写真展の文を書いていく。
11・写真展へ
というわけで、私の写真展に必ずある、説明文は写真展全体のエキスみたいなものです。
それでは今回は日本写真界の生きる神話「東松照明氏」に会いに行くため長崎に行った時のものです。
《日時はいつでもどこでも、同じように、正確に刻むもの。一日は春だろうが秋だろうがいつだって24時間であり、その長さに違いは無い。けれど、時間に気持ちや感情が入ると、どの一日も同じ24時間だが、違ってくる。そのときの時間の感じ方に早い遅いの違いは言うに及ばず、過去を振り返った記憶という事においては歴然とした違いがある(しかし、なんと忘れている事の多いことか・・・)。
2003年12月7日ー8日の2日間は、いくつかの特別な日の中の一つであった。そのたった2日(でも私にとって特別な2日)のようすが今回の写真展である。
┌───────────────────────────────┐
│ 橋口登志郎 写真展 │
│ │
│ 長崎 NAGASAKI │
└───────────────────────────────┘
生ける伝説
30才前後で写真が好きになった私は、写真の情報をもっぱら本から得ていた(写真クラブに入った事もなけりゃ、廻りに写真好きな人はだーれもいなかった)。
当時名古屋に住んでいた私は鶴舞にあった古本屋街に浸り、アサヒカメラ、日本カメラ、毎日カメラ(このときはすでに廃刊になっていたけど)などのカメラ雑誌、写真集、写真に関する評論など、山のように買い、むさぼるように読んでいた。
カメラが欲しいという物欲からこの世界に入ったけれど、写真雑誌、写真集を見ている内に写真自体が好きになった。
そのころ好きだったのは外国ではユージン・スミス、メープルソープであり、日本では荒木経惟、森山大道だった。
荒木さんや森山さん、またその時代に活躍していた写真家の記事等を読んだりしていると、彼らがあこがれたり、畏怖していた人物が浮かびあった。
それは日本の写真界に輝き、ある種写真表現の方向性を導いた写真家、東松照明であった。
そのころの私(仕事の合間に、チョコチョコ撮ったり、家族が寝静まった後洗濯機の上に小型の引き伸ばし機を据え、キャビネのプリントをつくり悦に入っていた)にとって東松照明は知識として知ってはいるけど、まず会うことなど想像だにできないまさしく“生ける伝説”だった。そして、東松照明という存在は、写真にのめり込み、写真を知れば知るほど、(その凄さをさらに知る事になる)尚のこと遠い存在となっていった。 ところで、故郷に帰る 長男の宿命で故郷西都に帰ってきた私は、思いっきり下がった給料に嘆きながらも、それまでのマンション暮らしでは叶えられなかった事をやった。
暗室を作ることである、名古屋時代の狭い洗面所の洗濯機の上に引き伸ばし機を据え付けてコソコソやっていた暗室作業が、常時作業可能な暗ー室ー♪での作業になる。
作った暗室は狭く、夏暑く冬寒く、その上水道設備はないけど、いつでもネガが現像でき、プリントが出来るだけで幸せだった。
プリントがいつでも出来るとなると、行き着く先は写真雑誌のフォトコンテストの応募である。
名古屋時代にもフォトコンテストに応募していたし、何度か入選していたけど、今度は環境が違う。
どんどんプリントした、とりあえず日本カメラにターゲットを絞り数年間応募し続けた。
幸運が続き、入選し出すと(作品と名前と地元名が雑誌に載る)宮崎にも雑誌を見ている人が結構いるとみえ、私の事を知ってくれる人が徐々に増えてきた。
ある写真家の方が突然、「今度グループ展をするけど一緒に出展しませんか?」と電話をかけてきた、魁展というグループ展だった。
コンテスト以外で世間に写真を発表するのは初めてだった、それは楽しかった、作品をたくさんの人に見て貰うことによって充実感が得られた。
写真展をする事に嵌ってしまった、そしてそれから機会ある毎に写真展をした。
ドキュメンタリーフォトフェスティバル宮崎
考えてもいなかったことだが、写真展をする事によって・・、たくさんの人を知ることとなった。
知った人が別の人を紹介してくれ、いつのまにかたくさんの知人が出来た、それは写真の世界だけでなく、色々な分野に広がっていった。
その中でドキュメンタリーフォトフェスティバル宮崎のメンバー芥川さん、永友さんと知り合えた事と、そのフェスティバルに関われたことは幸せなことだとつくづく思う。このフェスティバルは写真展だけでなく写真作家の講演会、写真芸術の普及活動、アジアの写真家の紹介、写真展に伴う図録の作成販売、青少年の写真芸術に対する応援など、宮崎という地方都市では考えられないイベント(2005年には日本写真家協会賞を受賞)で、毎年行っている。
さて、ここからが今回の写真展に関係すること。(長~い、前フリだな)
フェスティバル5周年記念の作家を選考する際、誰ともなく東松照明の名前が挙がったのである。私の中での生ける伝説東松照明がである。
その時私はメンバーの中では若輩ものだったので、言葉に出しては言えなかったけど、心の中で「good!good!good!nice select!」と叫んでた。
そして、第5回は記念回として東松照明単独開催と決定した。
伝説の写真家に会える、私は興奮していた。
芥川さんがその会議の時言った「写真展開催で東松さんと直接会って、お願いした方が良いと思うんだけど誰か時間の都合のつけて、私と一緒に長崎に行ける人いますか?」12月は毎年仕事でとーっても忙しい月なのだが、「空いています、私その日は大丈夫です、私がお供します」言ってしまった、・・仕事・・そんなもの伝説の写真家に会う為なら野となれ山となれ・・。
というわけで大写真家、東松照明と会える機会を得た、あれほどあこがれた写真家東松照明に・・私は興奮した。
芥川さんは仕事の都合で会う日に長崎入りする事になったが、私はさっさと仕事の都合をつけ会う前日に長崎入りすることになった。
東松照明に明日会えると思いながら見る、長崎は私の心を強く揺さぶった。
そういった心の状態で見て、そして撮った私の私的な長崎が、今回の写真展、長崎NAGASAKIなのだ。》
以上が説明文です、この中に書いていないのですが私が写真展をしようと思ったのには原爆資料館の原爆投下の時の映像を見たことも強く影響しています。
とてつもない衝撃でした。それは写真のキャプションとして次のように書きました。 《 原爆資料館に入るとすぐモニターがあった。そこには、原爆の爆発している映像が流されていた。それは実際の映像であり、すさまじい光を放っていた。
1945年の8月、お昼前、(戦争中ではあったけど)市民はそこで普通に日常生活を送っていたわけであり、家庭では昼食の準備をしたり、子供達はお昼近くになり、おなかをすかせながら勉強をしており、どこかでは恋を語っていた恋人達もいたかもしれない、母は子供のことを井戸端で近所の人と話し、父は仕事場で汗を流し、お年寄りは戦争に行った子どもの無事を願っていただろう。
8月9日もいつものように流れる普通の日々であり、そこには普通の喜び、怒り、哀しみ、楽しみがあり、それは明日も続くと思っていたのに・・・。
モニターに映し出された光が放たれた瞬間、誰にでも約束されていたと思っていた、普通の生活は終わってしまった。》今回の写真の話しはここまでです。
写真は物を写すだけでなく、写している人(撮影者)の心の有り様を写します。
私のこの時の心は、東松氏に会える喜びと、1945年8月9日の長崎の人々の苦しみ、哀しみが渦巻いていました。