こんにちは! ただち恵子です

政治と社会、日々の暮らしの小さな喜び。思いつくままに綴ります。

語り継ぐ

2015-08-21 07:06:55 | 憲法・平和
今日と明日の2日間、「第7回生活保護問題議員研修会」に参加のため神戸です。

昨日は、朝、昼、夕方、夜の会議の合間に作業をすすめ、毎月発行の後援会ニュースの編集と印刷をなんとか終わらせました。

ニュースの原稿は、皆さんからたくさん集まりました。

シリーズ「戦後70年の今年」で戦争体験を投稿していただいています。今回は2回目。


私の戦争体験と父から聞いたこと

満州から引き上げてきたときの記憶と父から聞いたことを「私の戦争体験」として書かせていただきました。
 私の父は眼に障害がありましたので徴兵検査は受けられませんでした。国策に従い、「開拓団」として植民地となった満州に行き、広い農場を持ち、馬2頭を飼い、養鶏場も持つことができました。日本から母が嫁ぎ、新しい家族のスタートとなりました。場所は現在の長春・中国東北部でした。1942年(昭和十七年)に私が生まれ、そして妹と弟も生まれました。
私たち家族は「満州人」を雇い手広く農業を経営し、収穫した作物は日本人の町で販売し、生計を立てていました。
しかし日本の敗戦となった途端、生活は一変、持って帰れる荷物はリュックサック1つ、集団での引き揚げとなりました。
家族は屋根の無い貨物列車、無蓋車(むたい車)で広い満州を何日も何日も走りました。雨が降るとずぶぬれとなりました。コレラが流行り、亡くなった人はそのまま無蓋車から次々と捨てられました。幼い私でしたがその怖さは深く心に刻まれています。
収容所での食事は高粱(コウリャン)と粟が主食で、わずかな配給でした。子どもだけが列を作り「お焦げ」などを並んでもらった事をかすかに覚えています。
真夏の暑い盛り、帰りの船中で行水をさせた弟が急性肺炎にかかり死亡、遺骨での帰国となったのが翌年8月のことでした。
1946年8月、「満州引揚団」として長崎についたときのことです。原爆投下から一年も経っているのに、ムシロを掛けただけの遺体がまだ残されていたことを聞かされました。
 戦争は、戦場に行った人たちだけが犠牲になるのではなく、すべての人間、生き物が犠牲になり、自然が破壊されます。
この体験が、「戦争反対」の私の原点です。
(東助松 T・T)
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