伊賀の旅も終盤に近づいてきました。
田んぼが多かった伊賀ですが、
伊賀上野城近くになるとさすがに結構都会でした。(笑)
そんな伊賀上野城界隈には、
城下町を守る為に配置された七ヶ寺があります。
その両側にお寺が並ぶ通りを伊賀寺町通りと呼ばれています。
【伊賀寺町通り】
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4d/34/f4db98200cfb38b460fb4e214144c5a2.jpg)
なかなか良い雰囲気です。
まずは萬福寺というお寺に参拝です。
所在地:三重県伊賀市上野寺町1157
宗派:真言宗豊山派
御本尊:阿弥陀如来
創建:平安時代
開基:平清盛
勅願:後白河法皇
札所:伊賀四国八十八ヶ所霊場
【縁起】
当寺は平安時代後白河法皇の勅願により平清盛が建立したと伝え、
上野山平楽寺無量寿院といわれていました。
現在の上野城東方にあり、諸堂並びに子院三十六坊を有する大刹で、
北八大寺の随一として上野総持の道場でした。
寺の夜叉門は丹朱をもって彩色されて赤門といわれ、
寺僧は赤門法師と呼ばれていました。
天正9年(1581)織田信長の兵火により、堂宇の悉くは灰燼に帰し、
旧地に仮の草堂を建てて法灯を護っていました。
藤堂高虎の入部に伴い現在地に移転、再建されましたが、
元禄10年(1697)正月、類焼に罹り再び焼失、
その際、所蔵していた寛永11年(1634)伊賀越仇討に関する
原書や渡辺数馬・荒木又右衛門などの実記も失われました。
現在は討たれた川合又五郎の遺品の具足と境内の一画に墓石が遺されています。
【山門】
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/05/60/5ca3f312ed85ea6507521d4b33d45c05.jpg)
駐車場は小さいのがありましたが、
ちょっとの間だけなら山門前に停めていても問題ありません。
どこの寺町も警察とは話が済んでいるハズですから。
【本堂】
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7d/57/5b4cebe40a7820269f6a01d7ad9abf64.jpg)
檀家寺ではあるが、なかなか立派な本堂です。
【地蔵尊】
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/16/a1/e0ed8d0e7aac12cea3fbe8dc2ca2d040.jpg)
【宝篋印塔】
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/56/89/395e3f19aa3e1b1c4ea4439c8be57535.jpg)
【川合又五郎墓】
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/60/d1/fafa206368437545450af0490e59ed2c.jpg)
川合又五郎は備前岡山藩士。
岡山藩主池田忠雄の小姓渡辺源太夫を斬ったことにより、
岡山藩と旗本の争いに発展。
幕府は喧嘩両成敗として事件の幕引きを狙い、
旗本達の謹慎と又五郎の江戸追放を決定する。
しかし、源太夫の兄である渡辺数馬は仇討ちを決意し、
仇である川合又五郎を伊賀国上野の鍵屋の辻で討った事件を、
鍵屋の辻の決闘、または伊賀越の仇討ちとも言う。
曾我兄弟の仇討ちと赤穂浪士の討ち入りに並ぶ日本三大仇討ちの一つ。
【観音堂】
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6a/9f/0b298322d2d5635e9be911022555a211.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/01/fd/ee7355fb8996e217063039d87c5c4113.jpg)
御朱印は残念ながら御不在でいただけませんでした。
田んぼが多かった伊賀ですが、
伊賀上野城近くになるとさすがに結構都会でした。(笑)
そんな伊賀上野城界隈には、
城下町を守る為に配置された七ヶ寺があります。
その両側にお寺が並ぶ通りを伊賀寺町通りと呼ばれています。
【伊賀寺町通り】
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4d/34/f4db98200cfb38b460fb4e214144c5a2.jpg)
なかなか良い雰囲気です。
まずは萬福寺というお寺に参拝です。
所在地:三重県伊賀市上野寺町1157
宗派:真言宗豊山派
御本尊:阿弥陀如来
創建:平安時代
開基:平清盛
勅願:後白河法皇
札所:伊賀四国八十八ヶ所霊場
【縁起】
当寺は平安時代後白河法皇の勅願により平清盛が建立したと伝え、
上野山平楽寺無量寿院といわれていました。
現在の上野城東方にあり、諸堂並びに子院三十六坊を有する大刹で、
北八大寺の随一として上野総持の道場でした。
寺の夜叉門は丹朱をもって彩色されて赤門といわれ、
寺僧は赤門法師と呼ばれていました。
天正9年(1581)織田信長の兵火により、堂宇の悉くは灰燼に帰し、
旧地に仮の草堂を建てて法灯を護っていました。
藤堂高虎の入部に伴い現在地に移転、再建されましたが、
元禄10年(1697)正月、類焼に罹り再び焼失、
その際、所蔵していた寛永11年(1634)伊賀越仇討に関する
原書や渡辺数馬・荒木又右衛門などの実記も失われました。
現在は討たれた川合又五郎の遺品の具足と境内の一画に墓石が遺されています。
【山門】
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/05/60/5ca3f312ed85ea6507521d4b33d45c05.jpg)
駐車場は小さいのがありましたが、
ちょっとの間だけなら山門前に停めていても問題ありません。
どこの寺町も警察とは話が済んでいるハズですから。
【本堂】
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7d/57/5b4cebe40a7820269f6a01d7ad9abf64.jpg)
檀家寺ではあるが、なかなか立派な本堂です。
【地蔵尊】
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/16/a1/e0ed8d0e7aac12cea3fbe8dc2ca2d040.jpg)
【宝篋印塔】
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/56/89/395e3f19aa3e1b1c4ea4439c8be57535.jpg)
【川合又五郎墓】
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/60/d1/fafa206368437545450af0490e59ed2c.jpg)
川合又五郎は備前岡山藩士。
岡山藩主池田忠雄の小姓渡辺源太夫を斬ったことにより、
岡山藩と旗本の争いに発展。
幕府は喧嘩両成敗として事件の幕引きを狙い、
旗本達の謹慎と又五郎の江戸追放を決定する。
しかし、源太夫の兄である渡辺数馬は仇討ちを決意し、
仇である川合又五郎を伊賀国上野の鍵屋の辻で討った事件を、
鍵屋の辻の決闘、または伊賀越の仇討ちとも言う。
曾我兄弟の仇討ちと赤穂浪士の討ち入りに並ぶ日本三大仇討ちの一つ。
【観音堂】
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6a/9f/0b298322d2d5635e9be911022555a211.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/01/fd/ee7355fb8996e217063039d87c5c4113.jpg)
御朱印は残念ながら御不在でいただけませんでした。
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