大仏殿の後は法然上人の札所である指図堂へ。
<2013年1月3日参拝>
http://blog.goo.ne.jp/05100625/e/f040a7970055173f3309cd3ada4de62b
【縁起】
東大寺は治承4年(1180)、平清盛の命をうけた嫡男重衝の兵火によって、
興福寺と共に焼失したが法然上人の推挙により東大寺復興の大勧進職についた
俊乗房重源が源頼朝の支援を受け、鎌倉期の大仏殿再建に全力を注がれた。
その後、永禄10年(1567)の三好・松永の乱で大仏殿が焼失し、
その100年余り後、三度目の再建する気運が持ち上がった。
この辺り一帯は復興事務所ともいうべき勧進所の建物群が立ち並び、
大仏殿の計画図面を(指図という)を展示するお堂が立てられた。
指図堂という名称はこの事に由来している。
寛政3年(1791)そのお堂は大風で倒壊したが、浄土宗の熱心な方々の助力を受けて、
嘉永5年(1852)頃、完成したのが現在の指図堂である。
【本堂】
今日は堂守の女性達がいらっしゃって、
無事に本堂内に入ることが出来ました。
【内陣】
小さくて素朴な本堂ですが、
金色の眩い厨子が目に入ってくる。
厨子の中には法然上人が描かれた掛け軸がありました。
ここは嬉しい事に写真撮り放題です。(^^
【草鞋ばきの法然上人御画像】
【阿弥陀如来】
【阿弥陀三尊像】
とても綺麗な三尊像で、前のめりになっていましたね。
【御朱印】
観光客が通らないルートにあるお堂だけあって、
静かというか寂しいです。
南大門から大仏殿の間にあれば指図堂も賑わうのになぁ。
堂守の女性達はとても良い人達でした。
<2013年1月3日参拝>
http://blog.goo.ne.jp/05100625/e/f040a7970055173f3309cd3ada4de62b
【縁起】
東大寺は治承4年(1180)、平清盛の命をうけた嫡男重衝の兵火によって、
興福寺と共に焼失したが法然上人の推挙により東大寺復興の大勧進職についた
俊乗房重源が源頼朝の支援を受け、鎌倉期の大仏殿再建に全力を注がれた。
その後、永禄10年(1567)の三好・松永の乱で大仏殿が焼失し、
その100年余り後、三度目の再建する気運が持ち上がった。
この辺り一帯は復興事務所ともいうべき勧進所の建物群が立ち並び、
大仏殿の計画図面を(指図という)を展示するお堂が立てられた。
指図堂という名称はこの事に由来している。
寛政3年(1791)そのお堂は大風で倒壊したが、浄土宗の熱心な方々の助力を受けて、
嘉永5年(1852)頃、完成したのが現在の指図堂である。
【本堂】
今日は堂守の女性達がいらっしゃって、
無事に本堂内に入ることが出来ました。
【内陣】
小さくて素朴な本堂ですが、
金色の眩い厨子が目に入ってくる。
厨子の中には法然上人が描かれた掛け軸がありました。
ここは嬉しい事に写真撮り放題です。(^^
【草鞋ばきの法然上人御画像】
【阿弥陀如来】
【阿弥陀三尊像】
とても綺麗な三尊像で、前のめりになっていましたね。
【御朱印】
観光客が通らないルートにあるお堂だけあって、
静かというか寂しいです。
南大門から大仏殿の間にあれば指図堂も賑わうのになぁ。
堂守の女性達はとても良い人達でした。
前回の、石仏様ですけど、ああゆうのの前でも、お参りしますか?
えーと、道を歩いてて、時々、小さなお地蔵さんとか見かけたら、覗きます?お参りするものなんでしょうか?
ゴマラーさんは、どうしてるのか、教えて貰えたら、嬉しいです。
えーと、生駒の宝山寺行ったとき、道の両側にずらーっと、お地蔵さんが並んでて、私は、ひたすら山登り?に必死だったんですけど、すれ違ったおばさんが、その一つ一つにお賽銭入れてたんですよね。因みに、結構な速さの流れ作業的でしたけど。皆はどうなのかな?と、疑問に思う今日この頃です!
やっぱり違って見えますよ。
石仏やお地蔵さんは基本的に手を合わせています。
お参りをする、しないは、人それぞれでいいと思いますよ。
しかし、町の道路にある交通事故で無くなられた方を供養する為のお地蔵さんは、手を合わせないようにしてます。
万が一、成仏出来ない霊魂が、私を頼りにされても、
何も出来ないし困るから。(^^;
宝山寺はあれだけのお地蔵さんがあると、
お賽銭も大変なことになるから、1円ずつ置いていくという方々が結構いるようです。
私は全てのお地蔵さんのお顔を見て会釈して、
あの階段を登り降りしてます。