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ゆうゆうの教会便り

私の教会のこと、教会生活をボチボチと・・・・

「罪」の分からない罪深い私

2021-03-18 17:50:26 | 今日の聖句
新約聖書は今、「ローマの信徒への手紙」を読んでいます。
今日の聖句は7章14節~25節です。

07:14わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、わたしは肉の人であり、
罪に売り渡されています。 07:15わたしは、自分のしていることが分かりません。
自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。
07:16もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。
07:17そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪
なのです。 07:18わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知って
います。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。 07:19わたしは自分の
望む善は行わず、望まない悪を行っている。 07:20もし、わたしが望まないことをしているとすれば、
それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。 07:21それで、
善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。
07:22「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、 07:23わたしの五体にはもう一つの法則が
あって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。
07:24わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救って
くれるでしょうか。 07:25わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。
このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。


今、教会はレントの時です。 十字架に向かってイエス様が苦しみながら歩まれています。
神の御子イエス・キリストが私たちの罪を贖ってくださり血を流され黄泉に下り、その後復活なさい
ました。私たちも感謝を持って主の御苦しみを偲ぶ時なのだと思います。
私たちは罪深い人間だ、と聖書では、特にパウロは繰り返し語っています。(と思います)
実は、本当のことをいうと、私は自分がどれくらい罪深いのかよく判っていません。
聖書で言われている「罪」を理解できていないのだと思います。
私の「罪」とは具体的にどんな「行為・思い」を言うのでしょう? 漠然と感じてはいるのですが
しっかり理解できていません。
「神様の御顔を見ない、神様に背を向ける」これが最大の罪、でしょうか?
そしてヘブライ人への手紙や牧会書簡の言っている「生活規範」を破ること、つまり「律法」に
背くこと、これも罪なのですよね?きっと。 行いを正しく、気持ちを神様に常にフィードバック
しながら、神様の御顔を仰ぎながら生きること、それが罪深くないということなのでしょう。
罪=神に背くこと、神様の方を向かないこと
 =道徳的、倫理的に悪いとされること(律法との関係)ということでしょうか。
そして罪が許されるのは行いでなく信仰による、という理解で、良いのかな~~?
あ~、私はなんと罪深い人間だ!と強く思う、イエスを三度知らないと言ってその後、号泣した
ペトロのような激しい体験をしないので、鈍感な私は自分の罪深さに思いが至らないのでしょうか。
イエス様がその血で私の罪を贖ってくださったということの実感がもっとあれば、私は罪深い人間だ
という実感がもっとあれば、主の復活(イースター)の喜びが爆発的に湧き上がるのだと思います。
私は自分を造られたのは神様だという信仰で十分感謝、喜びなのですが、罪贖われた喜びの実感は
まだイマイチのような気がします。

 私の持っている唯一の聖書の参考文献「聖書事典」をまたまた読みました。
これまで何回読んだでしょうか。何回読んでも新鮮にウーム、と唸る私の記憶力の悪さ!!
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旧約聖書における「罪」
古代イスラエルの人々が考えていた罪を全く独自なものとみなすわけにはいかないが、それを表現する
ヘブライ語が数多く存在することから、彼らがこの問題を比較的深く考えていたと言うことはできる
かもしれない。様々な厳しい集団的体験を自らの罪の結果とみなして受け入れざるをえなかった歴史の
中で、罪に関する彼らの理解が幅広く展開されていったのだろう。
罪概念に集約されていく多数の用語のうち主なものは、日本語では「的を外す」「悪を行う」「背く」
などと訳されている。古代イスラエルではこのような事態は人間と人間の間のみならず、人間と神の
間にも想定されている。旧約聖書における罪の具体相を見てみると、まず単純な過失、これも神との
関係のうちに置かれることによって一段と重みを増す。罪の心情的・倫理的意味合いが現れる。
古くからあった祭儀的ニュアンスも加わる。その中には集団的なものも個人的なものもある。
集団的罪理解は神と民との契約という思想と結びついている。古代イスラエルにおいて罪の概念は
実態的概念よりも、人間と神の関係を示す概念としてとらえられたように見える。それは、神から離反
する人間のあり方に集約されることによって、新約聖書における罪概念につながっていく。


新約聖書における「罪」
キリスト教的な罪理解は、新約聖書に表されたキリスト論、特に、パウロの思想と結びつく形で組織化
されていった。新約聖書でも「罪」を表すギリシア語は複数あるが、その中心は元来「的をはずす」と
いう意味の言葉であったが、70人訳聖書を通して道徳的意味合いが強くなり、旧約聖書に見られる
多数の用語を吸収しつつ、キリスト教的罪概念を形成していった。
① 共観福音書と使徒言行録
福音書記者の描くイエスは罪について真正面から語らず、山上の説教に代表され言葉伝承や放蕩息子の
たとえなど、人間の罪の現実を示唆する。その主たる意味は神と律法からの離反である。イエスは自ら
「罪人を招く」ことにより、その克服を志向する。ここでは罪は、人間にとって避けられない現実で
あるとともに、乗り越えられるべきものとしてとらえ直されている。
その可能性を開くのがイエス・キリストなのである。

➁ ヨハネ文書
ヨハネによる福音書では、イエスと啓示者と認めないことが罪と考えられている。
「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなた達は言っている。
だからあなたたちの罪は残る」(ヨハネ15:22)ということになる。この見方は、光と暗闇、命と死など
の表象をとおして語られる二元論的発送法と重なり合っており、罪の状態を脱して啓示者へ向かう決断が
求められる。

③パウロ書簡
パウロにおいて罪理解ははじめて、救済論の重要な契機として深化されることになる。
彼の救済論は、人間における罪の普遍性を解くところから出発する。「一人の人によって罪が世に入り、
罪によって死が入り込んだ」罪の起源をアダムに帰する。パウロの思想の最重要点は、この罪が同じく
一人の人イエス・キリストによって贖われるというところにある。パウロの罪理解が一歩進んでいる点は、
人間の罪を単なる律法違反としてとらえるのではなく、律法の要求を自力で満たそうとする人間の自己
正当化の努力を最大の罪としてとらえてところにある。

「律法が『むさぼるな』と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう」(ローマ7:7)と
彼は言う。こうした自己矛盾におちいっている人間がそこから救い出されるためには、イエス・キリストの
十字架の贖いに示された「神の義」を信仰を持って受け入れるしかない。
自力によらず他力による救済を説く論理の典型といえよう。
④ その他の文書
ヘブライ人への手紙は持続する教会における生活規範の問題が現れ、牧会書簡にいたると、それが中心問題
となる。罪認識がパウロ以前の状態に戻ってしまうことにもなりかねない。ここにはまさに、救済論を
めぐる永遠のジレンマがあると言えよう。  (土屋博)

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番(つがい)で巣作りする<エナガ>です。
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