今日の聖句は「マタイによる福音書」26章26節~30節 聖晩餐のところです。
26:26一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。
「取って食べなさい。これはわたしの体である。」 26:27また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。
「皆、この杯から飲みなさい。 26:28これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。
26:29言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは
決してあるまい。」26:30一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。
これと同じような聖晩餐の記述は「マルコによる福音書」14:22~26、「ルカによる福音書」22:19~20
「コリントの信徒への手紙一」11:23~25にもあります。
美竹教会では毎月、第一主日に聖餐式が行われます。
2㎝角のパンをキリストの体と思って食べ、5㏄くらいの小さなグラスのぶどう酒をキリストの血と思って飲みます。
十字架の上で私たちを贖われたキリストの苦しみを偲び、救いに与る喜びを感謝するのですが、信仰弱い私は聖餐式に
臨む姿勢と真剣さがどこかあいまいです。聖餐式の意義をもう少ししっかり知りたいと思い、今週は私の持っている
朝岡勝著「ハイデルベルク信仰問答を読むーキリストのものとされて生きる」の問75~問79を読みました。
問答も浅倉氏の解説も私には難しくて読んだだけでは理解できず、書き出してみました。
少しは頭が整理されて、聖餐式の意義が以前よりはわかった気がしました。 ホントかな~~(・・;)
今日のブログは自分のためのメモです。 本からの引用文ばかりですみません。<(_ _)>
問75 あなたは聖晩餐において、十字架上でのキリストの唯一の犠牲とそのすべての益にあずかっていることを、
どのように思い起し、また確信させられるのですか。
答:キリストはご自身を記念するため、この裂かれたパンから食べこの杯から飲むようにと、わたしとすべての信徒にお命じに
なりましたが、その時こう約束なさいました。
第一:この方の体がわたしのために十字架上でささげられ、引き裂かれ、その血がわたしのために流されたということ。
それは主のパンが私のために裂かれ、杯が私のために分け与えられるのをわたしが(聖餐式で?)目の当たりに
しているのと同様に確実である、ということ
第二:この方ご自身が、その十字架につけられた体と流された血とをもって、確かに永遠の命へとわたしの魂を養いまた
潤してくださる、ということ。それは、主のパンと杯とをわたしが(聖餐式で?)奉仕者の手から受けまた実際に
食べるのと同様に確実である。
この約束とは (以下は朝岡氏の解説から)
第一は:「罪の赦し」:聖餐式においてパンとぶどう酒を口にするときに、私たちの食するという体験、パンを噛み、
ぶどう酒を飲み込むという感覚が確かなのと「同様」にそこに表されるイエス・キリストの十字架の死がまことに
私の罪の赦しのためであったという事実を確かな仕方で表しています。
こうして聖餐式はそれに与るたびごとに私たちが自らの罪の赦しを疑いない仕方で確認することができるようにと
与えられている恵みの礼典なのです
第二は:「永遠の命の獲得」:イエスはかつて荒野でイスラエルが天からのマナによって養われ命を保たれたように、
ご自身が永遠の命を与えるパンであると語られました。(「ヨハネによる福音書」6:32~40)
聖餐式は主イエス・キリストが私たちに永遠の命の祝福を勝ち取ってくださったことの確実な約束として、
私たちに与えられる命の養いなのです。
問76 十字架につけられたキリストの体を食べ、その流された血を飲むとはどういうことですか。
答:それは、キリストのすべての苦難と死とを、信仰の心を持って受け入れ、それによって罪の赦しと永遠の命をいただく、
ということ。それ以上にまた、キリストのうちにも私たちのうちにも住んでおられる聖霊によって、その祝福された御体と
いよいよ一つにされてゆく、ということです。
それはこの方が天におられわたしたちは地にいるにもかかわらず、わたしたちがこの方の肉の肉、骨の骨となり、ちょうど
わたしたちの体の諸部分が一つの魂によってそうされているように、わたしたちが一つの御霊によって永遠に生かされ
また支配されるためなのです。
問77 信徒がこの裂かれたパンを食べ、この杯から飲むのと同様に確実に、御自分の体と血とをもって彼らを養いまた潤して
くださると、キリストはどこで約束なさいましたか。
(問77への朝岡氏の解説から)
主イエス・キリストが定められた聖晩餐は、単にパンとぶどう酒を食するという飲み食いの儀式にとどまるものではありません。
むしろそこで起こっているのは、聖霊によって生けるキリストと一つに結び合わされるという命の交わりです。
この意義を繰り返し覚えて、この身にキリストのいのちを刻む者でありたいと願うのです。
問78 それでは、パンとぶどう酒がキリストの体と血そのものになるのですか。
答:いいえ。神聖なしるしまた保証にすぎません。聖晩餐の聖なるパン、ぶどう酒はキリストの体そのものになるわけではなく、
ただ礼典の性格と方法に従ってキリストの体と呼ばれているのです。
(問78への朝岡氏の解説から)
現実にパンとぶどう酒が変化するのか・・・・・・
当時のローマ・カトリック教会においては、パンとぶどう酒がキリストの体と血に変化し、キリストは実質的にパンとぶどう酒の
中に存在する「化体説」を主張
プロテスタント教会では
ルターの立場:主イエスの「これは私の体である」と言われた御言葉をそのまま受け取り実体的に変化せずとも、
パンとぶどう酒と「共に」「中に」「下に」キリストが現臨されるという「共存説」を主張
ツウィングリの立場:「これはわたしの体である」の「である」を「意味する、象徴する」と理解してパンとぶどう酒は
体と血の象徴に過ぎない、聖餐式はキリストの贖いの記念
カルヴァンの立場:地上におけるパンとぶどう酒を通して天におけるキリストの臨在に与らせるのは聖霊なる神の働きである
とした。私たちが信仰を持ってこれを食するときに、聖霊なる神の働きによって私たちはキリストの体と
血にあずかり、キリストとひとつにされるのだと教えた。
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冬鳥が渡ってしまい、公園は蝶や虫の世界になりました。
アカツメクサと<モンキチョウ雌雄>です。
26:26一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。
「取って食べなさい。これはわたしの体である。」 26:27また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。
「皆、この杯から飲みなさい。 26:28これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。
26:29言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは
決してあるまい。」26:30一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。
これと同じような聖晩餐の記述は「マルコによる福音書」14:22~26、「ルカによる福音書」22:19~20
「コリントの信徒への手紙一」11:23~25にもあります。
美竹教会では毎月、第一主日に聖餐式が行われます。
2㎝角のパンをキリストの体と思って食べ、5㏄くらいの小さなグラスのぶどう酒をキリストの血と思って飲みます。
十字架の上で私たちを贖われたキリストの苦しみを偲び、救いに与る喜びを感謝するのですが、信仰弱い私は聖餐式に
臨む姿勢と真剣さがどこかあいまいです。聖餐式の意義をもう少ししっかり知りたいと思い、今週は私の持っている
朝岡勝著「ハイデルベルク信仰問答を読むーキリストのものとされて生きる」の問75~問79を読みました。
問答も浅倉氏の解説も私には難しくて読んだだけでは理解できず、書き出してみました。
少しは頭が整理されて、聖餐式の意義が以前よりはわかった気がしました。 ホントかな~~(・・;)
今日のブログは自分のためのメモです。 本からの引用文ばかりですみません。<(_ _)>
問75 あなたは聖晩餐において、十字架上でのキリストの唯一の犠牲とそのすべての益にあずかっていることを、
どのように思い起し、また確信させられるのですか。
答:キリストはご自身を記念するため、この裂かれたパンから食べこの杯から飲むようにと、わたしとすべての信徒にお命じに
なりましたが、その時こう約束なさいました。
第一:この方の体がわたしのために十字架上でささげられ、引き裂かれ、その血がわたしのために流されたということ。
それは主のパンが私のために裂かれ、杯が私のために分け与えられるのをわたしが(聖餐式で?)目の当たりに
しているのと同様に確実である、ということ
第二:この方ご自身が、その十字架につけられた体と流された血とをもって、確かに永遠の命へとわたしの魂を養いまた
潤してくださる、ということ。それは、主のパンと杯とをわたしが(聖餐式で?)奉仕者の手から受けまた実際に
食べるのと同様に確実である。
この約束とは (以下は朝岡氏の解説から)
第一は:「罪の赦し」:聖餐式においてパンとぶどう酒を口にするときに、私たちの食するという体験、パンを噛み、
ぶどう酒を飲み込むという感覚が確かなのと「同様」にそこに表されるイエス・キリストの十字架の死がまことに
私の罪の赦しのためであったという事実を確かな仕方で表しています。
こうして聖餐式はそれに与るたびごとに私たちが自らの罪の赦しを疑いない仕方で確認することができるようにと
与えられている恵みの礼典なのです
第二は:「永遠の命の獲得」:イエスはかつて荒野でイスラエルが天からのマナによって養われ命を保たれたように、
ご自身が永遠の命を与えるパンであると語られました。(「ヨハネによる福音書」6:32~40)
聖餐式は主イエス・キリストが私たちに永遠の命の祝福を勝ち取ってくださったことの確実な約束として、
私たちに与えられる命の養いなのです。
問76 十字架につけられたキリストの体を食べ、その流された血を飲むとはどういうことですか。
答:それは、キリストのすべての苦難と死とを、信仰の心を持って受け入れ、それによって罪の赦しと永遠の命をいただく、
ということ。それ以上にまた、キリストのうちにも私たちのうちにも住んでおられる聖霊によって、その祝福された御体と
いよいよ一つにされてゆく、ということです。
それはこの方が天におられわたしたちは地にいるにもかかわらず、わたしたちがこの方の肉の肉、骨の骨となり、ちょうど
わたしたちの体の諸部分が一つの魂によってそうされているように、わたしたちが一つの御霊によって永遠に生かされ
また支配されるためなのです。
問77 信徒がこの裂かれたパンを食べ、この杯から飲むのと同様に確実に、御自分の体と血とをもって彼らを養いまた潤して
くださると、キリストはどこで約束なさいましたか。
(問77への朝岡氏の解説から)
主イエス・キリストが定められた聖晩餐は、単にパンとぶどう酒を食するという飲み食いの儀式にとどまるものではありません。
むしろそこで起こっているのは、聖霊によって生けるキリストと一つに結び合わされるという命の交わりです。
この意義を繰り返し覚えて、この身にキリストのいのちを刻む者でありたいと願うのです。
問78 それでは、パンとぶどう酒がキリストの体と血そのものになるのですか。
答:いいえ。神聖なしるしまた保証にすぎません。聖晩餐の聖なるパン、ぶどう酒はキリストの体そのものになるわけではなく、
ただ礼典の性格と方法に従ってキリストの体と呼ばれているのです。
(問78への朝岡氏の解説から)
現実にパンとぶどう酒が変化するのか・・・・・・
当時のローマ・カトリック教会においては、パンとぶどう酒がキリストの体と血に変化し、キリストは実質的にパンとぶどう酒の
中に存在する「化体説」を主張
プロテスタント教会では
ルターの立場:主イエスの「これは私の体である」と言われた御言葉をそのまま受け取り実体的に変化せずとも、
パンとぶどう酒と「共に」「中に」「下に」キリストが現臨されるという「共存説」を主張
ツウィングリの立場:「これはわたしの体である」の「である」を「意味する、象徴する」と理解してパンとぶどう酒は
体と血の象徴に過ぎない、聖餐式はキリストの贖いの記念
カルヴァンの立場:地上におけるパンとぶどう酒を通して天におけるキリストの臨在に与らせるのは聖霊なる神の働きである
とした。私たちが信仰を持ってこれを食するときに、聖霊なる神の働きによって私たちはキリストの体と
血にあずかり、キリストとひとつにされるのだと教えた。
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