ゆうゆうの教会便り

私の教会のこと、教会生活をボチボチと・・・・

「新しい誕生」

2020-06-10 15:31:43 | 説教
6月7日の礼拝は久しぶりに礼拝堂で、教会員の皆様と守ることができました。
左近深恵子牧師による礼拝説教のダイジェストを載せます。


礼拝の様子はしばらくは YouTube でも配信されるそうです。
ご希望の方はネット配信で礼拝にご参加ください。
礼拝説教も美竹教会のホームページから読むことができます。
全文をお読みになりたい方、是非クリックして御覧ください。


「新しい誕生」  6月7日(日)
テキストは「ヨハネによる福音書」3章:1節~15節

ある日の夜、主イエスのもとに、ニコデモという人が訪ねてきました。ニコデモはユダヤ教の主流を
なすファリサイ派に属し、ユダヤの最高法院の議員の一人であり、おそらく律法の教師でした。
錚々たる肩書を持つまでに至ったニコデモは、有能で、人々から信任厚い人物であったのでしょう。
このニコデモが他の人々と異なるのは、主イエスの所にやって来たというところです。
そしてこの日が、ニコデモのその後の人生の分岐点となったのでしょう。
ニコデモはこの後二度この福音書に登場します。
第一の場面では、主イエスを逮捕しようとする他の議員たちに異議を唱えています。
第二の場面は、主イエスの十字架の死の後です。主イエスの遺体を葬るために没薬と沈香を持って
きて、主イエスの弟子でありながらユダヤ人たちを恐れてそのことを隠していたアリマタヤのヨセフと
共に埋葬しています。ニコデモの社会的な立場からすれば非常に勇気の要る行動へと向かっていく
分岐点となったこの晩の訪問を、ニコデモに決意させたのは、人々の内側にどのような思いがあるのか
全てをご存じでありながら、人々を見捨てず語り続け、しるしを行い続けられた主イエスであったと
言えるでしょう。

主イエスは、ニコデモの内側を見通しておられます。ニコデモに必要なものを、主イエスの方から
「はっきり言っておく」と強い口調で、こう告げられます。「人は新たに生まれなければ、神の国を見る
ことはできない」(3:3)。新たに生まれなければと言われても、もう一度母親の胎に戻って生まれ直す
ことなどできないと理解できずにいるニコデモに、主イエスは再び「はっきりと言っておく」と言われ、
「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」(3:5)と、新しく生まれる
ことの意味を更に告げられます。

ニコデモはそもそも、新しく生まれたいと思って主イエスを訪ねたわけではなかったでしょう。
律法が定める正しい生活を注意深く積み重ねてきたニコデモは、自分の生き方にプラスになる何かを
主イエスから得たいとは思っていたでしょう。それは自力で一歩一歩階段を上るようなニコデモの
人生の歩みに、手すりを付けるようなこと、あるいは踏み台を足すようなことであり、ニコデモが
主イエスに抱いていたのはその程度の期待であったでしょう。
この階段がいつかは神の国に届くことを期待しながら、足元の段差や、上り方を評価してくれる他者の
視線ばかりを見ているニコデモに、主イエスは、今、この時、神の国を見ることを教えます

主イエスはニコデモを、ニコデモが上っていると信じている階段から、主イエスの命の値によって
もたらされる新しい命を、主に従って生きる道へと招きます。

主イエスご自身がニコデモも含めたすべての人の罪を取り除く小羊として十字架に上げられ、死者の
中から上げられ、天に挙げられることで天と地を結ぶ階段となってくださる道へと、招きます。

―――― 中略 ―――

新しい命、永遠の命とは、遠い先の未来においていつか訪れることを望むものではありません。
不老長寿を手に入れることでもありません。神さまが共に居てくださることに終わりが無いということです。
共に居てくださる神さまのご支配の中で生きていく命です。
この新しい命は、人の理想や欲が支配する道
ではなく、キリストが通してくださった道を求めます。
キリストが通してくださったのですから、私たちの視界が狭まってしまっても、曇ってしまっても、私たちは
羊飼いなる主に従って、道を見出すことができます。私たちは道すがら、現実のただ中で働いておられる
神の御業を共に喜び、私たちのために祈っておられる主によって、互いに祈り合いながら、共に
進むことができます。洗礼に置いて水と霊を受けた者は、この新しい命に既に生かされています。
日々聖霊を受けて新しくされ、聖餐の恵みによって養われつつ、神さまが永久に共に居てくださる命を、
いただいています。


私たちにはそれぞれ切実な願いがあり、不安があります。願いが叶えられること、不安が取り除かれる
ことを、日々祈り求めています。欠けを満たしてくださいと祈り、不安の原因を取り除いてくださいと祈る
しかありません。けれど主イエスによって神さまが私たちにもたらしてくださっているご支配は、私たちの
その時その時の願いや不安を超えた確かなものであることに、私たちは心の奥底で支えられています。
たとえ私たちの願い通りに欠けが満たされることが無いとしても、あるいは願い通りに不安の源が
取り除かれることが無いとしても、私たちを覆う死の力を滅ぼされた主が共におられる命を、既に生きて
いることが、私たちに深いところで安らぎをもたらします。

神さまのご意志よりも、他のものに自分を支配させてしまう罪は執拗に私たちを捕らえますが、私たちの
ために御子が命をささげて切り開いてくださった道へと、み言葉と御業に導かれ、聖霊に導かれて、
立ち返ることができます。
私たちは欠けに嘆き、不安に苛まれる日々を幾度も潜り抜けなければならないのかもしれませんが、
状況の厳しさに阻まれない、一時的な気休めではない、主の平安が常に私たちを覆っています。
私たちの中心におられる主イエスを共に礼拝し、神の国の祝宴の席を示す聖餐の食卓から霊の糧を
いただきながら、死によって終止符を打たれることの無い神さまの恵みの中を、共に歩んでいきたいと
願います。                (省略や太字などの文責はゆうゆうにあります。)

毎日聖書を読み、毎週礼拝で説教を聞いて励まされていても、私は日々の暮らしの不安や心細さ、
先行きの不安に襲われます。 そんな私を支えているのは「主、我と共にあり」という信仰です。
主は、いつも私と共にいてくださる、神様にすべてをお委ねし、私は神様の御国の民として歩んで
いるのだ、という信仰は私にこの上ない平安を与えてくれます。
深恵子牧師の説教はそんな私を、また力強く励まし支えてくださるものでした。
これで一週間、神様の御国の民として平安のうちに過ごすことができます(・・・ように!) 
深恵子牧師の説教に大きくアーメン!と唱えました。

もう一つ私を支えているのは「主は私の造り主、私の命の主人公は私ではなく神様だ」という信仰です。
この信仰によって私は自分の存在を肯定的に捉えることができます。
百年足らずで一切は無に帰す私の一生を素直に受け入れられるのは、それは神様が私を生かして
いてくださるから。 その信仰により頼んで、神様がもうよい、という最期、身許に召される日まで私は
生きて行けます。 この信仰によって私は自分の命もすべての命も肯定できます。
ただでさえ気持ちの落ち込むコロナ禍の中では、この世の不条理、人間同士の愚かな争いなどを見たり
聞いたりすると、つくづく人間でいるのが疎ましく、私は森の樹になりたい・・・・と思ったりして
しまいますが、そんな弱い私を支えてくれるのは聖書の信仰です。
そして、礼拝で説教を通して解き明かされる神様の御言葉が背中を押してくれます。



<シジュウカラの巣立ち雛> 雛たちは親鳥の近くで群れて飛んでいます。
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1 コメント

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Unknown (めぐみ)
2020-10-20 07:07:34
私も人間関係に悩み、森の木になりたいと思うことがあります。世を捨ててしまえたら楽だろうなと思います。でも信仰をもって神様に生かさせてもらってると信じて生きようと励まされました。ありがとうございます。
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