ゆうゆうの教会便り

私の教会のこと、教会生活をボチボチと・・・・

イースター礼拝

2014-04-21 12:09:27 | 説教
昨日のイースター礼拝の説教 
テキストは「イザヤ書」60章1節~3節 と 「ルカによる福音書」24章1節~9節 タイトルは「復活の朝日」 でした。

イースターの礼拝をささげられることを感謝します。
十字架の出来事、イースターの喜びがあるゆえに日曜日、皆で集まることが始まり教会が生まれました。 
イエスの復活以降、日曜日は休みとなり主の礼拝を守ることに繋がったのです。

教会が大事にしてきた聖書の読み方は、聖書を歴史を貫いてきた証言の書として読むという姿勢です。
証言とは体験、経験したことを言葉で言い表し伝えることです。
戦争や収容所での体験、権力者の暴虐行為、自然災害などは映像でも見られることではありますが、
証しをする言葉によってしか知り得ないことがあるのです。 
証言を聴く者はその中に真理を聴きます。 20世紀から21世紀は証言の世紀といわれます。

聖書の民は出会った神の姿、神の言葉を証言しました。 
そして神に出会った人だけではなく、それ以降の人もまた語り続けました。
旧約聖書を Old testament 新約聖書を New testament と言いますが、testament には証言と言う意味があります。
伝えることで生かされ、また語ることを通して歴史の中で生き抜く営みの中で、聖書は受け継がれてきました。
神に選ばれた生身の人が次の世代に語り、それを受け入れ再体験し、それが共同体に組み込まれていったのです。 
新しく語る人の命のリレーをもって私たちに伝えられ、私たちは又、それを語り継ぐべく神に選ばれているのです。

リチャード・ボウカム著「イエスとその目撃者たち」の中に、福音書は証言記事であるという視点を持って読むことが大事、
聖書は証言と言う形の歴史的記述である、と書かれています。 
無批判の信用を前提としていないが、証拠があるから信用すると言う読み方もしない。
非合理的なものではないが、証言を合理的に信じることは可能なのです。

今日のテキストも、イエスの墓を訪れた婦人たちの証言を聴き、受け入れるのは私達一人一人の判断に任せられています、
そしてそこには聖霊の働きが伴います。

イエスが十字架で亡くなったのは金曜日の午後三時、次の日の土曜日は安息日で何もできませんから、イエスの弟子たちは
金曜日の夕暮れから動き始め、日没ぎりぎりにイエスを墓に納めたことでしょう。 
次の日、土曜日はひたすら日曜日を待ち望んで過ごし、日曜日の早朝、イエスを丁重に葬るために墓に行きました。 
墓にあるはずの遺体は無くなっていて、婦人たちは「道に行き暮れし旅人」ようだったことでしょう。

人の死は絶体で、死んだらすべて終わりのはず、その死が無くなっていたのがイースターです。

この証言を聴いて二千年、教会はこれを命の言葉として受け入れ告白してきました。 「信仰告白」です。
信仰告白の「イエスは黄泉にくだり・・・・」給うた土曜日に、一体なにが起こったのでしょうか。
黄泉という死が支配する神のいまさらぬ世界に神の子が下り「神います場所」に変えたのです。 
パウロは「死は勝利に飲み込まれた」といい、ルターは「我々の死はキリストの死によって絞め殺された」と言いました。 
キリストによって死の力は凌駕されたのです。
それがイースターの喜びであり、教会の信仰です。 死は終止符をうたれ、撃ち破られました。

空虚な墓がキリストの命によって満たされたのを見て、そのことを弟子たちに話した婦人たちはさながら
伝道師のようだったでしょう。
この時の「話した」という言葉は未完了形で、終わらない、繰り返し繰り返し語り続けることを表しています。

証言する婦人たちは喜びに満ちているゆえに語らざるをえなかったのです。
死は、イエスの戦いの結果、喜びに変えられました。 主は甦りの主、復活の初穂となられました。

死ねば全てはお終いという意味のなかった命の衣を聖書の神は脱がせて、復活の命の衣を着せて下さるのです。
教会はこの証言を信じて神の許に集まり、時を得ても得なくても語り続けてゆくのです。
私たちは、慰められ罪赦されて、毎週教会から押し出されてゆくのです。    (以上、文責はゆうゆうにあります。)


イエス復活の意味、その喜びを説き明かされて、これからも神に、教会に連なって生きてゆきたいと思いました。
神さまが共にいてくださらなかったら多分、私は生きてゆけない、生きてゆきたくないでしょう。



親鳥から餌をもらう<バン>の雛、バン・ザビエル君。


美竹教会のホームページです、クリックしてお訪ねください。
昨日は礼拝後、子ども達のたまご探しがありました。
年長の子供たちが礼拝堂の中のいろいろな場所に卵を隠し、それを子ども達みんなで探すのです。
15分位のイベントですが、皆楽しそうでした。

そのあと、左近豊(とむ)牧師の歓迎会を兼ねてイースターの愛餐会がもたれました。
家庭の事情で、礼拝に参加する間しか家を空けられない私は残念ながら不参加でした。
いつか、教会の御用のために何時間でも教会に残れるようになったら嬉しいことです。
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