新約聖書は今「ローマの信徒への手紙」を読んでいます。「ロマ書」は私にとっては難しいところが多いです。
今日の「分からない聖句」は「ローマの信徒への手紙」13章1節~7節です。
<支配者への従順>
13:01人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって
立てられたものだからです。13:02従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は
自分の身に裁きを招くでしょう。 13:03実際、支配者は、善を行う者にはそうではないが、悪を行う者には
恐ろしい存在です。あなたは権威者を恐れないことを願っている。それなら、善を行いなさい。そうすれば、
権威者からほめられるでしょう。 13:04権威者は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです。
しかし、もし悪を行えば、恐れなければなりません。権威者はいたずらに剣を帯びているのではなく、
神に仕える者として、悪を行う者に怒りをもって報いるのです。 13:05だから、怒りを逃れるためだけでなく、
良心のためにも、これに従うべきです。 13:06あなたがたが貢を納めているのもそのためです。権威者は神に
仕える者であり、そのことに励んでいるのです。 13:07すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。
貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい。
読んですぐの感想は、えっ、そうなの? 上に立つ権威には従うべき、ってそうなの?デシタ。
昨夜偶々、以前ビデオに撮っていた「クォ ヴァディス」(1951年・アメリカ)という映画を見ました。
皇帝ネロが自分が思い描く新都市実現のためローマを焼き尽くし、その罪を信者の増えてきているクリスチャンに
押し付けるのですが、その映画にはパウロとペトロが出てきました。
皇帝ネロの在位期間は紀元54年から68年です。
パウロが「ローマの信徒への手紙」を書いたのは ↓ のように言われています。
『書簡中には執筆時期をうかがわせる記述はないが、おそらくパウロがエルサレム教会のための募金を行い、
「聖なるものたちに仕えるために」エルサレムを訪問しようとしていたころであると考えられる。
すなわち第二回ギリシア訪問のころで、58年初頭のローマ訪問の直前の冬であろう。』
(ウィキペディア解説より)
『つまり、この手紙が書かれたのは西暦55年か56年の春に彼が行った旅行の直前だった、ということになります』
(Bible tool box というサイトより)
パウロは皇帝ネロの行為を知っていてなお、このように考えていたのでしょうか、分かりません。
また、ウィキペディア解説には ↓ のような文章もあります。
『ローマ書』にはパウロ神学ともいうべきものが明白に打ち出されており、初期キリスト教思想の根底をつくるもの
となった。マルティン・ルターは『ローマ書』を「新約聖書中もっとも重要な書簡であり、すべてのキリスト者
によって精読されるべきもの」と激賞している。
「ローマ書のあゆみ」という言葉があるが、それは『ローマ書』にあらわれる語句を追っていくことで人間個人の
救いの道が現れるというものである。たとえば
•3:23 - 「すべてのものが罪を負い、神の栄光を失った」
•6:23a - 「罪の結果は死である」
•5:8 - 「しかし神はイエスをとおして永遠の命を与える」
•10:9 - 「口でイエスを主であるといい、心で神がイエスを死から復活させたと信じるならあなたは救われる。」
•10:13 - 「主の名を呼ぶものは誰でも救われる」
「ロマ書」でパウロの言わんとするところはユダヤ人、異邦人、すべての人への信仰の勧め、すべての人が神の救いに
与ることだと私にも分かります。
そして、私も救われるべき罪びとであると深く自覚し、救われている喜びを感謝しています。
実は、このブログの2012年11月26日に私は「支配者への従順」という同じタイトルで記事をアップしています。
その時の結論は『パウロが13章1節で支配者への従順を説いた、その支配者とは「メシア的・自己犠牲的な王」を
思い描いていたのだと思います。』で、私は納得したようです。 (忘却の彼方デス・・・・・(^^ゞ )
毎週礼拝に出席しているクリスチャンですが、私のハテナ?は相変わらず的外れ、進歩無しのようです。 <(_ _)>
そして言えることは、いつもの感想、聖書はホントウに何度読んでも難しいし、深いし、興味尽きず「孤島に一冊だけ
持っていけるとしたら」やはり聖書かな~ということです。
*****************************************************************************
こんな文章も見つけました。 ↓ 歴史は興味深いが難しい、パウロの考えを理解するのも難しいです。
パウロの、国家に対する態度は保守的であり、服従の倫理であるとされるが、終末的な様相を呈する当時の状況の中で、
国家が信仰生活の明瞭な敵対者として登場していないという現実において、限定的に、社会と国家の下での生活を
尊重していくことが勧められている。 Melma! メルマガスタンド[メルマ!]というサイトより
ネロ帝はローマ帝国による最初のキリスト教の迫害を行ったことでよく知られている。
64年、ネロ帝はローマ大火の原因をキリスト教徒の放火であると断定した。それまでキリスト教についてはほとんど
知られていなかったがこれで人々にその存在が知られるようになった。
ネロは捕らえたキリスト教徒を簡単な裁判で死刑に決め、猛獣の餌食にしたり、十字架にかけたり、松明代わりに
燃やしたりしたという。またこのとき、キリスト教の最高指導者として捕らえられたペテロも、逆さまに十字架に
かけられ殉教した。パウロもこのときローマで殉教したとされている。 (「世界史の窓」世界史用語解説というサイトより)
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美竹教会のホームページです、クリックしてお訪ねください。
FacebookやTwitterもご覧ください。
最近すっかりご無沙汰の公園はきっと<秋色>ですね。
今日の「分からない聖句」は「ローマの信徒への手紙」13章1節~7節です。
<支配者への従順>
13:01人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって
立てられたものだからです。13:02従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は
自分の身に裁きを招くでしょう。 13:03実際、支配者は、善を行う者にはそうではないが、悪を行う者には
恐ろしい存在です。あなたは権威者を恐れないことを願っている。それなら、善を行いなさい。そうすれば、
権威者からほめられるでしょう。 13:04権威者は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです。
しかし、もし悪を行えば、恐れなければなりません。権威者はいたずらに剣を帯びているのではなく、
神に仕える者として、悪を行う者に怒りをもって報いるのです。 13:05だから、怒りを逃れるためだけでなく、
良心のためにも、これに従うべきです。 13:06あなたがたが貢を納めているのもそのためです。権威者は神に
仕える者であり、そのことに励んでいるのです。 13:07すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。
貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい。
読んですぐの感想は、えっ、そうなの? 上に立つ権威には従うべき、ってそうなの?デシタ。
昨夜偶々、以前ビデオに撮っていた「クォ ヴァディス」(1951年・アメリカ)という映画を見ました。
皇帝ネロが自分が思い描く新都市実現のためローマを焼き尽くし、その罪を信者の増えてきているクリスチャンに
押し付けるのですが、その映画にはパウロとペトロが出てきました。
皇帝ネロの在位期間は紀元54年から68年です。
パウロが「ローマの信徒への手紙」を書いたのは ↓ のように言われています。
『書簡中には執筆時期をうかがわせる記述はないが、おそらくパウロがエルサレム教会のための募金を行い、
「聖なるものたちに仕えるために」エルサレムを訪問しようとしていたころであると考えられる。
すなわち第二回ギリシア訪問のころで、58年初頭のローマ訪問の直前の冬であろう。』
(ウィキペディア解説より)
『つまり、この手紙が書かれたのは西暦55年か56年の春に彼が行った旅行の直前だった、ということになります』
(Bible tool box というサイトより)
パウロは皇帝ネロの行為を知っていてなお、このように考えていたのでしょうか、分かりません。
また、ウィキペディア解説には ↓ のような文章もあります。
『ローマ書』にはパウロ神学ともいうべきものが明白に打ち出されており、初期キリスト教思想の根底をつくるもの
となった。マルティン・ルターは『ローマ書』を「新約聖書中もっとも重要な書簡であり、すべてのキリスト者
によって精読されるべきもの」と激賞している。
「ローマ書のあゆみ」という言葉があるが、それは『ローマ書』にあらわれる語句を追っていくことで人間個人の
救いの道が現れるというものである。たとえば
•3:23 - 「すべてのものが罪を負い、神の栄光を失った」
•6:23a - 「罪の結果は死である」
•5:8 - 「しかし神はイエスをとおして永遠の命を与える」
•10:9 - 「口でイエスを主であるといい、心で神がイエスを死から復活させたと信じるならあなたは救われる。」
•10:13 - 「主の名を呼ぶものは誰でも救われる」
「ロマ書」でパウロの言わんとするところはユダヤ人、異邦人、すべての人への信仰の勧め、すべての人が神の救いに
与ることだと私にも分かります。
そして、私も救われるべき罪びとであると深く自覚し、救われている喜びを感謝しています。
実は、このブログの2012年11月26日に私は「支配者への従順」という同じタイトルで記事をアップしています。
その時の結論は『パウロが13章1節で支配者への従順を説いた、その支配者とは「メシア的・自己犠牲的な王」を
思い描いていたのだと思います。』で、私は納得したようです。 (忘却の彼方デス・・・・・(^^ゞ )
毎週礼拝に出席しているクリスチャンですが、私のハテナ?は相変わらず的外れ、進歩無しのようです。 <(_ _)>
そして言えることは、いつもの感想、聖書はホントウに何度読んでも難しいし、深いし、興味尽きず「孤島に一冊だけ
持っていけるとしたら」やはり聖書かな~ということです。
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こんな文章も見つけました。 ↓ 歴史は興味深いが難しい、パウロの考えを理解するのも難しいです。
パウロの、国家に対する態度は保守的であり、服従の倫理であるとされるが、終末的な様相を呈する当時の状況の中で、
国家が信仰生活の明瞭な敵対者として登場していないという現実において、限定的に、社会と国家の下での生活を
尊重していくことが勧められている。 Melma! メルマガスタンド[メルマ!]というサイトより
ネロ帝はローマ帝国による最初のキリスト教の迫害を行ったことでよく知られている。
64年、ネロ帝はローマ大火の原因をキリスト教徒の放火であると断定した。それまでキリスト教についてはほとんど
知られていなかったがこれで人々にその存在が知られるようになった。
ネロは捕らえたキリスト教徒を簡単な裁判で死刑に決め、猛獣の餌食にしたり、十字架にかけたり、松明代わりに
燃やしたりしたという。またこのとき、キリスト教の最高指導者として捕らえられたペテロも、逆さまに十字架に
かけられ殉教した。パウロもこのときローマで殉教したとされている。 (「世界史の窓」世界史用語解説というサイトより)
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最近すっかりご無沙汰の公園はきっと<秋色>ですね。
私が読んでいる聖書は「新共同訳聖書」です。
独りで自分流に読んでいますので分からない(理解できなかったり、疑問に思ったりする)聖句がたくさんあります。
自分流に納得したり心打たれたり感動する聖句もたくさんあります。
私の唯一の参考文献は「新共同訳聖書事典」で、何か参考になるかと買った英語の聖書「The Holy Bible」ですら
読みこなせない私にはギリシャ語はとても無理ですね~(ノд・。)
神様は常に私と共にいてくださるという信仰に依りすがっているだけの私のような信者もいますよ~
という気持ちで書いている、拙い私のブログを読んでくださり、コメントも、ありがとうございます。
良心の無い、或いは其れを捨てた人を対象に語って居るのでは無い。それらの人達は霊的には死んで居るから。良心が有るか無いか。それが悪鬼に従う邪神崇拝者に成るか、或いは又、永遠の命に至る信仰者に成るかの分岐点。一般的に支配者と訳してる所は管轄権限=神様の御命令=十戒と同じ様な意味合いです。より上にそびえる権限とは、これ以上の物は無いからです。信者は十戒を遵奉すべき事は基本中の基本で一番大切だと思います。ヨハネもこの事を始終言ってると思います。今は、特に日本は、明治から邪神崇拝国に陥って、どんどん悪化、人間として退化し続けて居る現状。正に悪鬼が支配権力を手にし続けて居ます。形ばかりのぬるい信者に陥る
今の世。熱い時代の原始信者達の息吹を新約から受け取る必要が有りますね。私も其の一人です。
また、コメントさせて下さいね。
ただ、私は礼拝説教も、頂いたプリントを家で読み直してようやく分かるくらいのクリスチャンです。
残念で申し訳ないのですが、13章1節についても通り縋り様に上手くお返事する力がありません。 <(_ _)>
分からないところのある聖書でも読み続けていけばいつかは・・・・・無理かな~~などと思いつつ・・・・・ (・・;)
マタイの此処では、権威が単数扱いです。神様の御言葉=神様の御命令の化身=インマヌエルとしての主の存在が、単数扱いとして居る原因だと想います。
ロマ書の方は、やはり、神様の御命令で有る十戒だから、複数と私は解釈します。複数の権力では無く。頂上に立つ世俗権力が複数では、治世混乱の原因。やはり、翻訳の大切さをしみじみ想いますね。
どんどん商業目的訳聖書は悪化の一途。
口語訳も悪いし、それ以降の新訳物も、ひどく悪いと考えます。乱雑で、慇懃無礼で。
お勧めするのは、文語訳ですね。
牧師等は頭が固いから、それに反対する派でしょうが。個人で読むのには、何の差しさわりも無いです。