良い子の皆さんはこのブログには無縁でしょうし
スピリチュアル好きにも敬遠されるブログですが
霊的アタックは多いので御神霊は注目しているのでしょう。
現在吾平津と吾平山について鋭意執筆中なのだが
もう少し時間が掛かりそうなので
別の角度からブログ記載することにする。
下記添付資料は神武東遷の図であるがこの図を見てはたと気づいた。
神武東遷の図
英彦山流記や熊野権現垂迹縁起を読むと
昔、甲寅の年、唐の天台山の王子信 (王子晋。中国の天台山の地主神) の旧跡が、
日本の鎮西(九州)の日子の山峯(英彦山 )に天降りになった。
その形は八角形の水晶の石で、高さは3尺6寸。
そのような姿で天降りになった。それから5年が経った。
戊午の年、伊予国(今の愛媛県)の石槌の峯(石槌山 )にお渡りになった。
それから6年が経った。甲子の年、淡路国の遊鶴羽の峰(諭鶴羽山)にお渡りになった。
それから6年が過ぎた。
庚午の年3月23日、紀伊国牟婁郡切部山の西の海の北の岸に
玉那木の淵の上の松の木の本にお渡りになった。
それから57年が過ぎた。
庚午の年3月23日、熊野新宮の南の神蔵の峯にお降りになった。
それから61年後の庚午の年、新宮の東の阿須加の社の北、石淵の谷に勧請し奉った。
初めは結玉家津美御子と申した。
2宇の社であった。それから13年が過ぎた。
壬午の年、本宮大湯原(大斎原 おおゆのはら)の一位木(イチイ)の
3本の梢に3枚の月形にて天降りなさった。
8年が経った。
庚寅の年、石多河(石田川 いわたがわ)の南、河内の住人、
熊野部千代定という犬飼(猟師)が
体長1丈5尺(約4.5m)もの猪を射た。
跡を追い尋ねて、石多河を遡った。
犬が猪の跡を追って行くと、大湯原に行き着いた。
件の猪は一位の木の本に死に伏していた。肉を取って食べた。
件の木の下で一夜、泊まったが、木の梢に月を見つけて問い申し上げた。
「どうして月が虚空を離れて木の梢にいらっしゃるのか」と。
月が犬飼に答えておっしゃった。
「我は熊野三所権現である」と。
「一社は證誠大菩薩(しょうじょうだいぼさつ)と申す。
今2枚の月は両所権現と申す」とおっしゃった。云々。
これは王子晋である熊野権現が中国天台山から飛来し、
英彦山、石槌山、諭鶴羽山、熊野まで東進しているが
これは神武東遷との類似を暗示している。
王子晋については『王子晋信仰から見えてきたもの No481』
でも記事にしているが
中国天台山の地主神として国清寺で祭祀されていて
最澄がこの伝承を日本に持ち込み日吉大社を建立している。
従って熊野権現を王子晋とするのにはこの影響があることは間違いないが
筆者は王子晋が姬姓王氏の祖とされることが根底にあるとみている。
姬は『き』と読む。
日本における姬氏=姬姓王氏の痕跡についてはこのブログにてくどくどと述べている。
『呉音霊を考える No402』
『香春の呉音霊 No403』
『香春神社の相克 No416』
『日本における呉の太白の祭祀 No429』
『呉氏骨=おしほねの行方 No436』
『香春の呉音霊の足跡は国東半島の姫島から何処へ No434』
『続 香春の呉音霊の足跡は国東半島の姫島から何処へ No442』
『続続 香春の呉音霊の足跡 岡山における姫氏調査 No458』
『鳥栖市姫方町の姫古曽神社と小郡市大崎の媛社神社 No544』
『媛社神社の社稷神祭祀 No552』
筆者の感応では姬氏⇒姬姓王氏⇒呉氏骨=天忍骨尊=天忍穗耳尊であり
天孫降臨の主人公であり息子の天津彦根火瓊瓊杵尊と共に降臨している。
姬姓王氏春秋末期の痕跡については松野連倭王系図にも示されている。
ここに示される呉王夫差は臥薪で越の勾践を破ったのであるが
勾践を許したがゆえに嘗胆の勾践の反撃により敗北している。
これは日本平家の平清盛が源頼朝の命を奪わなかったがゆえに
逆に滅ぼされるという悲哀の話と通じるものがあるが
これは分が悪くなると判っていても
完全に芽を摘むことを(根絶やしに)しない日本人の
根底にある寛恕の心と同じなのであろう。
【※そういう御神霊が日本を支配しているということ
以前記載したように一神教が日本で広まらないのも同じ御神霊の役割】
逆に越や源氏は本貫地がどこからかの神霊血統ゆえに根絶やしを尊ぶ。
中国南宋の歴史書の通鑑前編には、以下のように記載されている。
「日本から来た使者が、我々は呉の太伯(紀元前11世紀)の後裔だと云う。
呉は亡び(BC473年)、その子孫が海を渡り、倭国を造った」とある。
太伯は周王朝の王子であったが周を継がずに江南に行き、
分身・断髪して呉(句呉)を建てた人物であり
周から出た呉国の国姓も姫(き)であったようだ。
この呉系姬氏の血統からスピンアウトしたのが神武天皇だと思われる。
だとすると天孫降臨とは中国からの脱出劇となる。
さて熊野には補陀落渡海という伝承が残っているが
自発的な捨身を行って民衆を先導する捨身行の形態とされる。
補陀落渡海船には箱が取り付けられておりその中には30日分の食物や水とともに
行者が乗り込むのであるが
この箱は船室とは異なり行者が中へ入ると入り口は板などで塞がれ、
箱が壊れない限り出入りはできなくてまぎれもなく死への渡海となる。
この補陀落山の山の形状は八角形であるという。
王子晋の降臨が八角形の水晶であるとされたのは
これゆえであろう。
具体的には中国江南の舟山群島の普陀山が補陀落渡海船の行先となる。
これは五台山巡礼の円仁の描いた餅と思われるが
同じく五台山に行った橘嘉智子の命を受けた恵萼の伝承によるものとされている。
※慈覚大師円仁についてはこの記事でも再三触れているが、
赤山明神 泰山府君 摩多羅神 常行堂などがキーワードになる。
『呉音霊と分霊 No421』
『畏るべし戊戌2018年 最後なる平成30年 No479』
『皇円大菩薩の心願 No517』
『妙見妙音妙理の統括尊たる斎姬山門五音大神と大元帥明王尊』
この補陀落渡海のもともとの目的は筆者が過去に記載しているように
帰還した呉音霊を取り戻しに行くというものである。
ここでの呉音霊は王子晋と同体とされたとしても仕方がない。
さて神武東遷が呉系姬氏の血統からスピンアウトだとすると
姫古曽神=比売許曽神= 姫社神との関係や都怒我阿羅斯等との関係も気になる。
先代旧事本紀大成経などで神武天皇に角があり鱗があったり尾があるという表記は
都怒我阿羅斯等=角が有る人との血縁を感じさせる。
姬氏⇒姬姓王氏⇒呉氏骨=天忍骨尊=天忍穗耳尊と記載しているが
姬氏⇒姬姓王氏⇒神武天皇だとすると
宇佐神宮の隠された祭神である比売大神は姬氏祭祀の呉音霊だと思っていたが
神武天皇ではないかという気もしてくる。
尤も香春神社の第三座豊比賣命は神武天皇の外祖母であるとされるので
比売大神が龍宮の豊玉姫である可能性も捨てきれない。
神武天皇とヒメコソ神との関係については調査中であるが
大阪の比売許曽神社に幽かな情報があるようなので
以下に参考資料を添付しておく。
スピリチュアル好きにも敬遠されるブログですが
霊的アタックは多いので御神霊は注目しているのでしょう。
現在吾平津と吾平山について鋭意執筆中なのだが
もう少し時間が掛かりそうなので
別の角度からブログ記載することにする。
下記添付資料は神武東遷の図であるがこの図を見てはたと気づいた。
神武東遷の図
英彦山流記や熊野権現垂迹縁起を読むと
昔、甲寅の年、唐の天台山の王子信 (王子晋。中国の天台山の地主神) の旧跡が、
日本の鎮西(九州)の日子の山峯(英彦山 )に天降りになった。
その形は八角形の水晶の石で、高さは3尺6寸。
そのような姿で天降りになった。それから5年が経った。
戊午の年、伊予国(今の愛媛県)の石槌の峯(石槌山 )にお渡りになった。
それから6年が経った。甲子の年、淡路国の遊鶴羽の峰(諭鶴羽山)にお渡りになった。
それから6年が過ぎた。
庚午の年3月23日、紀伊国牟婁郡切部山の西の海の北の岸に
玉那木の淵の上の松の木の本にお渡りになった。
それから57年が過ぎた。
庚午の年3月23日、熊野新宮の南の神蔵の峯にお降りになった。
それから61年後の庚午の年、新宮の東の阿須加の社の北、石淵の谷に勧請し奉った。
初めは結玉家津美御子と申した。
2宇の社であった。それから13年が過ぎた。
壬午の年、本宮大湯原(大斎原 おおゆのはら)の一位木(イチイ)の
3本の梢に3枚の月形にて天降りなさった。
8年が経った。
庚寅の年、石多河(石田川 いわたがわ)の南、河内の住人、
熊野部千代定という犬飼(猟師)が
体長1丈5尺(約4.5m)もの猪を射た。
跡を追い尋ねて、石多河を遡った。
犬が猪の跡を追って行くと、大湯原に行き着いた。
件の猪は一位の木の本に死に伏していた。肉を取って食べた。
件の木の下で一夜、泊まったが、木の梢に月を見つけて問い申し上げた。
「どうして月が虚空を離れて木の梢にいらっしゃるのか」と。
月が犬飼に答えておっしゃった。
「我は熊野三所権現である」と。
「一社は證誠大菩薩(しょうじょうだいぼさつ)と申す。
今2枚の月は両所権現と申す」とおっしゃった。云々。
これは王子晋である熊野権現が中国天台山から飛来し、
英彦山、石槌山、諭鶴羽山、熊野まで東進しているが
これは神武東遷との類似を暗示している。
王子晋については『王子晋信仰から見えてきたもの No481』
でも記事にしているが
中国天台山の地主神として国清寺で祭祀されていて
最澄がこの伝承を日本に持ち込み日吉大社を建立している。
従って熊野権現を王子晋とするのにはこの影響があることは間違いないが
筆者は王子晋が姬姓王氏の祖とされることが根底にあるとみている。
姬は『き』と読む。
日本における姬氏=姬姓王氏の痕跡についてはこのブログにてくどくどと述べている。
『呉音霊を考える No402』
『香春の呉音霊 No403』
『香春神社の相克 No416』
『日本における呉の太白の祭祀 No429』
『呉氏骨=おしほねの行方 No436』
『香春の呉音霊の足跡は国東半島の姫島から何処へ No434』
『続 香春の呉音霊の足跡は国東半島の姫島から何処へ No442』
『続続 香春の呉音霊の足跡 岡山における姫氏調査 No458』
『鳥栖市姫方町の姫古曽神社と小郡市大崎の媛社神社 No544』
『媛社神社の社稷神祭祀 No552』
筆者の感応では姬氏⇒姬姓王氏⇒呉氏骨=天忍骨尊=天忍穗耳尊であり
天孫降臨の主人公であり息子の天津彦根火瓊瓊杵尊と共に降臨している。
姬姓王氏春秋末期の痕跡については松野連倭王系図にも示されている。
ここに示される呉王夫差は臥薪で越の勾践を破ったのであるが
勾践を許したがゆえに嘗胆の勾践の反撃により敗北している。
これは日本平家の平清盛が源頼朝の命を奪わなかったがゆえに
逆に滅ぼされるという悲哀の話と通じるものがあるが
これは分が悪くなると判っていても
完全に芽を摘むことを(根絶やしに)しない日本人の
根底にある寛恕の心と同じなのであろう。
【※そういう御神霊が日本を支配しているということ
以前記載したように一神教が日本で広まらないのも同じ御神霊の役割】
逆に越や源氏は本貫地がどこからかの神霊血統ゆえに根絶やしを尊ぶ。
中国南宋の歴史書の通鑑前編には、以下のように記載されている。
「日本から来た使者が、我々は呉の太伯(紀元前11世紀)の後裔だと云う。
呉は亡び(BC473年)、その子孫が海を渡り、倭国を造った」とある。
太伯は周王朝の王子であったが周を継がずに江南に行き、
分身・断髪して呉(句呉)を建てた人物であり
周から出た呉国の国姓も姫(き)であったようだ。
この呉系姬氏の血統からスピンアウトしたのが神武天皇だと思われる。
だとすると天孫降臨とは中国からの脱出劇となる。
さて熊野には補陀落渡海という伝承が残っているが
自発的な捨身を行って民衆を先導する捨身行の形態とされる。
補陀落渡海船には箱が取り付けられておりその中には30日分の食物や水とともに
行者が乗り込むのであるが
この箱は船室とは異なり行者が中へ入ると入り口は板などで塞がれ、
箱が壊れない限り出入りはできなくてまぎれもなく死への渡海となる。
この補陀落山の山の形状は八角形であるという。
王子晋の降臨が八角形の水晶であるとされたのは
これゆえであろう。
具体的には中国江南の舟山群島の普陀山が補陀落渡海船の行先となる。
これは五台山巡礼の円仁の描いた餅と思われるが
同じく五台山に行った橘嘉智子の命を受けた恵萼の伝承によるものとされている。
※慈覚大師円仁についてはこの記事でも再三触れているが、
赤山明神 泰山府君 摩多羅神 常行堂などがキーワードになる。
『呉音霊と分霊 No421』
『畏るべし戊戌2018年 最後なる平成30年 No479』
『皇円大菩薩の心願 No517』
『妙見妙音妙理の統括尊たる斎姬山門五音大神と大元帥明王尊』
この補陀落渡海のもともとの目的は筆者が過去に記載しているように
帰還した呉音霊を取り戻しに行くというものである。
ここでの呉音霊は王子晋と同体とされたとしても仕方がない。
さて神武東遷が呉系姬氏の血統からスピンアウトだとすると
姫古曽神=比売許曽神= 姫社神との関係や都怒我阿羅斯等との関係も気になる。
先代旧事本紀大成経などで神武天皇に角があり鱗があったり尾があるという表記は
都怒我阿羅斯等=角が有る人との血縁を感じさせる。
姬氏⇒姬姓王氏⇒呉氏骨=天忍骨尊=天忍穗耳尊と記載しているが
姬氏⇒姬姓王氏⇒神武天皇だとすると
宇佐神宮の隠された祭神である比売大神は姬氏祭祀の呉音霊だと思っていたが
神武天皇ではないかという気もしてくる。
尤も香春神社の第三座豊比賣命は神武天皇の外祖母であるとされるので
比売大神が龍宮の豊玉姫である可能性も捨てきれない。
神武天皇とヒメコソ神との関係については調査中であるが
大阪の比売許曽神社に幽かな情報があるようなので
以下に参考資料を添付しておく。
「神武天皇と王子晋」を思い起こすことを3月26日の出来事でコメント記載していました。
神武天皇と言えば、奈良の橿原神宮に祀られています。参拝したときに名前住所を記入したのだと思います。橿原神宮崇敬会入会案内が家に届きました。
この橿原神宮の崇敬会案内を思い出したのは、奇しくも日向大神宮の社殿を見ていたときでした。
橿原を調べていて、蘇我氏と猪名津彦も思考しました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E6%88%91%E5%9D%90%E5%AE%97%E6%88%91%E9%83%BD%E6%AF%94%E5%8F%A4%E7%A5%9E%E7%A4%BE
龍神信仰 7 建仁寺の双龍 NO164
英彦山の不思議 (さくら)
2021-04-01 13:45:57
高住神社を目指しますが、間違った道を通り、池に迷い込みます。その池が幻想的で
ひっそりと静まり返り、柔らかな朝の光が木立から射しこみ、カエルの声が聞こえ、、透明でクールな美しさを感じます。
よく見ると、その池は日月星に象られています。
こんなところに、三光の印をみつけます。
月の輪田が比沼麻奈為神社に存在しますが、、稲の発祥と関係あったかな?田主神ですね。
三光の池は妙見、田主(比沼麻奈為の水)だと思います。
私は水音と冷たい静けさ⁽(北・玄武)を感じることができたので、神意を大変嬉しく思っていました。
略
白い犬のことも記載しています。
※ここには記載していませんが、この日月星の池の傍に橿原神社がありました。帰宅してから、橿原をかなり調べていました。
橿原から曽我氏がでてきて月の豊玉姫とかコメントを書きました。
吾平津姫も奈良に祀られていて、ホホマでホンダワラでナノリソでした。
コメントの最後に、霧島神宮の双龍の事を書いていますが、霧島六観音とされる場所には、神武天皇が祀られています。狭野神社でした。
狭野神社 由緒
社伝によれば、第五代孝昭天皇の御代に神武天皇御降誕の地に創建されたと伝えられています。当社より西方一キロの霊跡に末社皇子原神社が鎮座し産場石と呼ばれる神石が奉齋されています。御祭神生誕の折に産湯をお取りになられたと伝承され今猶安き出産を齎して戴けると伝えられます。また霊峰高千穂の峰周辺には皇子川原、祓川、血捨の木、宮の宇都、鳥居原等の神武生誕にまつわる地名が残され御祭神のご生業を物語っています。神武天皇さまは御齢十五才を迎える迄、此の地で天下広く統治すべく天壌無窮の御心を培われ御東征の後、奈良県橿原の宮居にて初代の天皇となられました。
確か「吾平津姫命・あびらつひめ」と書かれていたので略記の購入を決めました。
天津彦彦火瓊瓊杵尊の名前が気になります。
ヒコヒコが、これは少彦名神もヒコヒコかな?と感じているからです。
性空上人が霧島背門丘(せだお)に霧島中央権現を祭り各所に霧島六社権現なるものを創始したが、その中に狭野大権現も含まれ後の神徳院はすなわち当神社の別当寺であった。
昭和27年7月31日には宮崎神宮より分立し、狭野神社として発足しました。
境内摂末社に、
東脇神社 武甕槌神
西脇神社 経津主神
特殊神事 苗代田祭
俗に「ベブガハホ」と言う行事
木彫の牛を用いて耕地を整理する神事である
神徳院を調べますと
古く享保時代に神徳院(狭野神社の別当寺)守護神として建立されたと云える享保19年(1734年)の銘がある。
大豆の神様と言い、又人々の足腰の痛みを癒してくださる神様とも言い伝えられている。(狭野神社)案内板より
※大豆?鬼をやっつけるという意味?
僻邪鬼。鳥居の獅子、狛犬の原型かな。
それと、もう一つ
大阪の姫島神社に参拝したときの資料で、
はじまりの碑があり、、
そこは玉を投げる占いのところでした。
はじまりの碑とは
神武天皇遥拝所にある石の碑のことです。
神武天皇は初代天皇であり、日本の始まりと言われていることから「はじまりの碑」となっています。
この石には、御祭神である阿迦留姫命の御神徳が
注がれており、決断して新たな出発が進むように願う祈願所でもあります。
※神武天皇の遥拝石の穴に、赤玉を投げ入れるという、、赤玉は太陽を表しているのかもしれない。
アカルヒメは太陽光と関係があったような。
太陽光線で牛玉を産むのでした?
神名の「阿加流」は「明る」で「比売」への美称と解し、名義は「色美しくつやのある女性」と考えられる。また日の出の太陽を表す赤い瑪瑙の玉の化身とする説もある。
姫島神社は比売古曽神(阿迦留姫命)と神武天皇との関連する場所です。