香春岳と英彦山との関係については
過去特別に言及していなかったように思うので
少しだけ繋がりについて述べたい。
『香春神社の相克 No416』で書いているが
筆者が呉氏骨と漢字変換されて驚いた忍骨命は
英彦山の山頂に降臨したという伝承がある。
地図で見ると香春岳と英彦山は田川郡という
古い時代から同じ行政区のようだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/56/97/25d0e384486222b0b0edd413eedfec21_s.jpg)
現在の英彦山神社の主祭神は
正哉吾勝勝速日天忍穂耳命になっているが
香春二ノ岳に祀られる忍骨命は天忍穂耳命と
同体とされる説もある。
この英彦山であるが『彦山流記』に
甲寅歳 震旦国 天台山 王子晋之旧跡東漸とある。
※八幡宮寺成立史の研究 P123
また熊野縁起最古の『長寛勘文』に記載された「熊野権現垂迹縁起」にも
熊野権現の垂迹来歴について
甲寅の年、唐の天台山の王子信=王子晋(中国の天台山の地主神)が、
英彦山に天降った。
その形は八角形の水晶の石で、高さは3尺6寸。
そのような記載がある。
※八角形の水晶は実際に存在しグラウンディングと呼ばれ
大地に足を着けるという意味を持つ。
ここに出てくる王子晋は、中国古代の周の霊王の太子であり太子晋とも言われている。
姓は姫、名は晋、字は子喬とされていて
中国では地主山王元弼真君=桐柏真人王君と呼ばれている。
特筆すべきは姫姓王氏の祖とされていることだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/7d/4a/c82382afc0ef603c3254ddf1bc026c36_s.jpg)
呉音霊の主体とされる姫氏の呉太伯が江南から日本に来たという話と
天台山の地主神である姫姓王氏の王子晋が日本に降臨したという話は完全にかぶっている。
時代は姫氏の呉太伯は紀元前12世紀・紀元前11世紀頃となる。
王子晋は周の霊王の第一子であり紀元前565-549となる。
熊野権現の垂迹が中国の天台山の地主神の王子晋という話は初めて知ったのだが
これがどこから出てきた話なのかが重要だ。
まず天台山といえば最澄の興した天台宗と大きな繋がりがあり
入唐八家と呼ばれるのは最澄、空海、常暁、円行、円仁、円珍、宗叡であるが
その中では最澄、円珍が天台山に赴いているし
他にも円載、成尋、栄西、道元などが天台山で学んでいる。
この中で善慧大師成尋は熙寧5年(1072)に入宋しており
天台山に参詣した時の見聞として以下のように記している。
国清寺には地主山王元弼真君なる祠があり礼拝した。
真君は周の霊王(前571~前545)の子で、王子晋といい、
寺は王子の邸宅であった。
王子晋は仙人となり数百年の時を経て
智者大師に謁見して受戒して地に付属した。
あたかも日本天台の山王のようである。
※ここでいう日本天台の山王とは
最澄が比叡山延暦寺の地主神として祀った山王権現のことだが
日枝神=ひえの神=日吉神が実際どういう御神霊なのかについては
一般には大山咋神とされる。
でも山王とは最澄が作った言葉ではなく
本来は地主山王元弼真君のことである。
最澄の祭祀した神霊の中に山王眷属という表現があるが
裏において王子晋が祀られている可能性は十分にある。
比叡山には山王院堂が存在している。
実際に天台山で修行した円珍の住房という事になっている。
円珍は山王三聖を形成したという。
大比叡神・小比叡神・比叡山王で三聖である。
さて熊野権現垂迹縁起の王子晋縁起説であるが
この比叡山から派生したとするならば
もう少しはっきりとした形で
山王神=太子晋=地主山王元弼真君の祭祀が残っていても
いいように思える。
では他の姫姓王氏の伝承の候補としては
都怒我阿羅斯等と姫氏呉太伯の伝承を上書きした
天日槍の伝承等が考えられる。
現在のところはっきりとは論証出来ないが
熊野権現には姫氏が関与していると感じている。
過去特別に言及していなかったように思うので
少しだけ繋がりについて述べたい。
『香春神社の相克 No416』で書いているが
筆者が呉氏骨と漢字変換されて驚いた忍骨命は
英彦山の山頂に降臨したという伝承がある。
地図で見ると香春岳と英彦山は田川郡という
古い時代から同じ行政区のようだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/56/97/25d0e384486222b0b0edd413eedfec21_s.jpg)
現在の英彦山神社の主祭神は
正哉吾勝勝速日天忍穂耳命になっているが
香春二ノ岳に祀られる忍骨命は天忍穂耳命と
同体とされる説もある。
この英彦山であるが『彦山流記』に
甲寅歳 震旦国 天台山 王子晋之旧跡東漸とある。
※八幡宮寺成立史の研究 P123
また熊野縁起最古の『長寛勘文』に記載された「熊野権現垂迹縁起」にも
熊野権現の垂迹来歴について
甲寅の年、唐の天台山の王子信=王子晋(中国の天台山の地主神)が、
英彦山に天降った。
その形は八角形の水晶の石で、高さは3尺6寸。
そのような記載がある。
※八角形の水晶は実際に存在しグラウンディングと呼ばれ
大地に足を着けるという意味を持つ。
ここに出てくる王子晋は、中国古代の周の霊王の太子であり太子晋とも言われている。
姓は姫、名は晋、字は子喬とされていて
中国では地主山王元弼真君=桐柏真人王君と呼ばれている。
特筆すべきは姫姓王氏の祖とされていることだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/4d/62/3e1ab124a45d6dbf80174f72b79cbe7b_s.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/7d/4a/c82382afc0ef603c3254ddf1bc026c36_s.jpg)
呉音霊の主体とされる姫氏の呉太伯が江南から日本に来たという話と
天台山の地主神である姫姓王氏の王子晋が日本に降臨したという話は完全にかぶっている。
時代は姫氏の呉太伯は紀元前12世紀・紀元前11世紀頃となる。
王子晋は周の霊王の第一子であり紀元前565-549となる。
熊野権現の垂迹が中国の天台山の地主神の王子晋という話は初めて知ったのだが
これがどこから出てきた話なのかが重要だ。
まず天台山といえば最澄の興した天台宗と大きな繋がりがあり
入唐八家と呼ばれるのは最澄、空海、常暁、円行、円仁、円珍、宗叡であるが
その中では最澄、円珍が天台山に赴いているし
他にも円載、成尋、栄西、道元などが天台山で学んでいる。
この中で善慧大師成尋は熙寧5年(1072)に入宋しており
天台山に参詣した時の見聞として以下のように記している。
国清寺には地主山王元弼真君なる祠があり礼拝した。
真君は周の霊王(前571~前545)の子で、王子晋といい、
寺は王子の邸宅であった。
王子晋は仙人となり数百年の時を経て
智者大師に謁見して受戒して地に付属した。
あたかも日本天台の山王のようである。
※ここでいう日本天台の山王とは
最澄が比叡山延暦寺の地主神として祀った山王権現のことだが
日枝神=ひえの神=日吉神が実際どういう御神霊なのかについては
一般には大山咋神とされる。
でも山王とは最澄が作った言葉ではなく
本来は地主山王元弼真君のことである。
最澄の祭祀した神霊の中に山王眷属という表現があるが
裏において王子晋が祀られている可能性は十分にある。
比叡山には山王院堂が存在している。
実際に天台山で修行した円珍の住房という事になっている。
円珍は山王三聖を形成したという。
大比叡神・小比叡神・比叡山王で三聖である。
さて熊野権現垂迹縁起の王子晋縁起説であるが
この比叡山から派生したとするならば
もう少しはっきりとした形で
山王神=太子晋=地主山王元弼真君の祭祀が残っていても
いいように思える。
では他の姫姓王氏の伝承の候補としては
都怒我阿羅斯等と姫氏呉太伯の伝承を上書きした
天日槍の伝承等が考えられる。
現在のところはっきりとは論証出来ないが
熊野権現には姫氏が関与していると感じている。
菊池氏と熊野の強いつながり。嫡流は小さな千手観音をいだき、常陸に逃れてゆくが…
菊池氏のホームページより、熊野十二所大権現(十二所神社)の祭神
上四社
第一殿(西御前):熊野牟須美大神・事解之男神(千手観音)
第二殿(中御前):速玉之男神(薬師如来)
第三殿(證証殿):家都美御子大神(阿弥陀如来)
第四殿(若宮):天照大神(十一面観音)
中四社
第五殿(禅児宮):忍穂耳命(地蔵菩薩)
第六殿(聖宮):瓊々杵尊(龍樹菩薩)
第七殿(児宮):彦火火出見尊(如意輪観音)
第八殿(子守宮):鵜葺草葺不合命(聖観音)
下四社
第九殿(一万十万):軻遇突智命(文殊菩薩・普賢菩薩)
第十殿(米持金剛):埴山姫命(毘沙門天)
第十一殿(飛行夜叉):弥都波能売命(不動明王)
第十二殿(勧請十五所):稚産霊命(釈迦如来)
熊野権現は中国天台山から飛来し、英彦山、石槌山、諭鶴羽山という修験の霊山を経て東に進み、熊野に垂迹した、とあります。
熊野牟須美大神の御正体についてはいろいろ言われていますが、イザナミという説もあります。
イザナミはイザナギとともにカグツチにいたるまでの万物万神を生んだ母神。最後に三貴神を生む。
パミール高原やチベット高原を取り囲む白い山々から流れ出す河に依る民から見て、白い山々(白山)は豊穣をもたらす水の源であり、鉱物資源をももたらす。
熊野牟須美大神≒千手観音≒イザナミだとすると、第四殿(若宮)の天照大神(十一面観音)の母神という位置づけもできそうな?
西原の白山姫神社HPには白山姫は「いのちの親神様」と表現されています。
白山姫をそのように呼ぶ人々はパミールの白き山々を仰いでいた民ではないでしょうか?
千手観音を本尊とする西大寺観音院の川を挟んだ真向かいにある白山系神社は豊原角(すみ)神社といいます。(私の生まれたのは豊村)。祭神は白山比め大神・大己貴命・少彦名命。
角神社と、観音院にある犀の角。犀の角は薬効があり珍重されたという。スクナヒコナを思い出す。
観音院と牛窓に飛んだというナニカの玉。
常陸国にまたも地震、震度5弱。神奈川は3。
8042
コメントの添付位置を変更させていただきました。
比叡山の山王院堂にも千手観音を祀っており
「千手堂」「千手院」とも呼ばれているようです。
ところでこのコメントの投稿時間は
2016-05-17 00:46:25となっていますが
その時点で『仮 呉氏骨=おしほねの行方』は
読まれていましたか?
中国天台山も江南文化の範囲に入り
姫姓の王子晋も呉音霊の影響下にあったように
思うのですが
時代が大幅に違うのです。
大分国東半島の姫古曽神社創建がその時代なら
英彦山、石槌山、熊野という流れに
組み込まれるものと思います。
またまた昨日頂いていたコメントを発見したので調べてみたらメンフィス3神というのもありそうです。セクメト情報ありがとうございました。母が疱瘡神っぽくもありかなり気になります。クナト三神?
色々他方面からも繋がりそうに思います。下野の地震も奈良の三大重要なお寺の下野薬師。そしてそこに道鏡。
父菊池、母小美玉、息子下野の要素は強そうですが、皆それぞれの場所で眠っているとも思います。3426
全国全て危険です、人間に何も出来ないでしょうけど出来る事を命がある以上やりたいと思います。
第一殿の熊野牟須美大神・事解之男神・千手観音
この事解之男(ことさかのお)がわからず、気になっていたのですが、調べたら「ヤマーンタカ」に繋がりました。
恐ろしげな姿は、阿弥陀如来・文殊菩薩が人々を教え導くために敢えてその姿をとったものであり、日本では「大威徳明王」になった。
大威徳明王は六面六臂六脚で、神の使いである水牛にまたがっている姿で表現される。
大威徳明王画像で検索するとなるほど手足が6本。
ヤマーンタカ画像で検索すると、手がもっといっぱいあって、千手観音に近いです。
禮月様はヤマーンタカはヤマトタケ、ツヌガアラシト、および呉音霊の御神体の姿に繋がるのではないかといっておられるのですね。
手がいっぱいある姿は、りひとさまのジャーニイのスカラベのコメントを思い出します。(一番上の手で太陽をかかげ、他の手は羽になる)
5665
私のブログを読む前の記事でしたか。
熊野十二所大権現と本地仏の千手観音について
お互い導かれるものがあったということですね。
大威徳明王については20年前より気にはなっていたのですが
全然真実が見えてきていません。
事解之男=大威徳明王と繋がると思われたのは
どこででしたか?
あと禮月様はヤマーンタカはツヌガアラシト、
および呉音霊の御神体の姿に繋がるのではないか
といっておられましたか?
話が元に戻りますが
私が過去から気にしている原点は
新宮の阿須賀神社=飛鳥?=蘇我?のことです。
ここには徐福伝承が強く残っています。
そして阿須賀神社には大威徳明王を
本地仏として祀ってきた歴史があったからです。
蘇我氏の歴史を探っているときにこの神社に巡り合い
徐福伝承を探っていて再びこの神社に巡り合い
二上山の「深蛇大王」と同じく蛇を従えている。
解けそうで解けない秘密にもどかしさを感じる神社です。
「阿須賀神社(み熊野ネット)」に事解男之命の本地仏は大威徳明王との記述があったので、事解之男≒大威徳明王≒ヤマーンタカと繋がりました。
http://www.mikumano.net/meguri/asuka.html
上記サイトより
阿須賀神社の祭神は事解男之命(ことさかのおのみこと)と家都御子大神・熊野速玉大神・熊野夫須美大神の熊野三所大神。
主祭神は事解男之命で、その本地(仏としての本体)は大威徳明王(だいいとくみょうおう)とされます。
大威徳明王は水牛にまたがる六面六臂六足という異様な姿をしています。世にまん延する一切の悪を降伏する仏であり、平安末期ころからは戦勝祈願の本尊とされた仏です。
以下もそのサイトよりコピー
・・・阿須賀神社はじつは熊野発祥の地であるといわれています。古伝によると、
熊野大神は初め神倉山に降臨し、次に阿須賀の森に遷り、熊野大神のうち家津美御子はさらに貴袮谷に遷ったが、結速玉の二神はそのまま阿須賀の森に留まった。第十代崇神天皇の御代に家津美御子はさらに熊野川上流の音無の里(本宮)に遷り、結速玉は第十二代景行天皇の御代に今の新宮に遷座した。
とされ、阿須賀神社が本宮・新宮よりさらに古い歴史をもつことを主張しています。
実際、そうであったのかもしれませんが、熊野信仰の大きなうねりに巻き込まれて、阿須賀神社は熊野速玉大社の摂社という立場に落ち着いたのでしょう。
長寛(ちょうかん)元年(1163)から二年にかけて公家・学者が朝廷に提出した熊野の神についての書類をまとめて『長寛勘文』と呼びますが、『長寛勘文』に記載され、最古の熊野縁起譚だと考えられている『熊野権現垂迹縁起』にも阿須賀神社の名が登場しますが、先に述べた古伝とは少々違っています。
「昔、唐の天台山の王子信が、高さ三尺六寸の八角の水晶となって、九州の彦山(ひこさん)に降臨した。それから、四国の石槌山、淡路の諭鶴羽(ゆずるは)山と巡り、紀伊国牟婁郡の切部山、そして新宮神倉山を経て、新宮東の阿須賀社の北の石淵(やぶち)の谷に遷り、初めて結速玉家津御子と申した。その後、本宮大湯原イチイの木に三枚の月となって現れ、これを、熊野部千代定という猟師が発見して祀った。これが熊野坐神社の三所権現であると伝えられる。」
この話では熊野大神は阿須賀の森には鎮座せず、阿須賀神社の北、熊野川の対岸の三重県南牟婁郡鵜殿村矢渕の谷(貴袮谷社(きねがたにしゃ))に鎮座したことになっています・・・
別に熟読したわけでもないのに最後のところの「鵜殿村」に目がとまったため、長い引用となりました。
以前から「宇土」に反応する私ですので、「宇土の村」と読め、熊本の宇土半島を出発したあるグループが、熊野(球磨野)信仰をもって紀伊半島に来てここに最初に落ち着いた、とぱっと想像してしまったのです。無茶苦茶な飛躍です。
貴袮谷社、林の中のかわいい神社です。
上記の引用からは、貴袮谷社と阿須賀神社とは、成立においてちょっとルーツが違うように読めないでもありません。
(全く勝手な想像の中の話ですが、熊野本宮大斎原(おおゆのはら)で「先祖がここに来た」と感じたのは、「私の中の蘇我」と「私の中の菊池」では、後者の方であることになります。菊池氏が先祖であるらしいわけでもないのにかかわらず。しかし蘇我と菊池はどこかでクロスしている?と一応仮定しておきます)
阿須賀神社と大威徳明王の謎には関係ない文となりました。考えることがたくさん増えています。
八角の水晶って結晶のしかたとしてほんとにあるのですね。光の当て方でクロス(十字架)があらわれます。
禮月様のヤマーンタカに関するご意見は熊本霊ラインと熊本大災害 問題提議篇の2016-05-13 20:37:39「ヤマ天、ユミル、少彦名は起源が同じ)」
にあります。
9996
今回の入れ替わりは二つの原理が統合するのかもしれず?
すべてを、いのちの御祖(みおや)たる白山姫(大自然の根源神)は見守っている・・・?
九州(ククノチ)はククリの始まる地?
1929 5954
最澄~天台宗~比叡山~山王~千手観音の関係は全く知りませんでした。
だいたい山王とか山王神社,日枝神社に関心を持ったことがなく無知であり(最澄には関心がありましたが)、とりあえず山王とか山王権現って何なの?と調べ始め、それを把握できないうちに、何故かいきなり天台宗の古刹、水戸の「長福寺」に意識がアクセス。中将姫ゆかりの寺、とあったからです。
中将姫を題材とした小説に,折口信夫(釈超空)「死者の書」(中央文庫)があり、それをアニメ映画化したのが、私が見た悲運の大津皇子とその死を悼んで曼荼羅を織り上げた中将姫の物語、アニメ版「死者の書」です。
(その大津皇子らしき?人がたわいない夢に出てきたことは先日お話しましたが、アニメの美貌ぶりの面影が少しある、それよりずっと人間くさいリアルな貌をはっきり見ました。)
時間がないのではしょりますが、大津皇子は、日本に侵入した武則天勢力に殺されたと思います。
呉系の殲滅であり、オウミ王朝は呉系と考えられます。
(大津皇子は大角皇子かも?)
(西大寺観音院の寺宝「犀の角」も、呉系のあかし?あるいはサイの神とは関係ない?)
いろいろつながってきそうな予感がありますが、数日忙しくしますので、また書きます。
事解男の「解」という漢字は確かに角と牛があるので牛に関係した神様かもしれませんが、刀も含まれるので、牛を征した者という意味にも取れます。チベットのヤマーンタカの由来も、ヤマ天(ユミル)を征した者から来ているので。
乳牛(アーリア人)を倒した水牛(チベット人)の意味?
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