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つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

文明の十字路小アジアのトルコは争奪の場でもあり、カッパドキアには地下都市がつくられた

2017年02月03日 | 旅行

1995「カッパドキアの地下都市」トルコの旅 /1995  (図写真はホームページ参照)

 アジアの西の彼方、アジアの終点といえばトルコになる。もっとも終点は日本や中国からの見方であって、ヨーロッパからみればトルコはアジアの玄関口に他ならない。
 トルコの第一の都市イスタンブル=かつてのコンスタンティノープルにシルケシと呼ばれる駅があるが、ここはオリエント急行の終着点として知られている。

 アガサ・クリスティ著「オリエント急行殺人事件」にも登場するのでご存知の方も多いと思うが、この場合、オリエントは東方圏を指し、ヨーロッパである西方圏がここで終わり、オリエント、すなわち東方圏がここから始まることを意味している。
 アジアの玄関口、あるいはオリエント急行の終着地として栄えた理由は立地にある。世界地図を広げると、四大古代文明の一つであるエジプト文明は地中海を挟んで現トルコにわずか500km、同じくメソポタミア文明は現トルコの南西500kmほどに位置する。また、トルコの西方にはアテネやローマが、トルコの南方にはイスラム発祥の地であるメッカがある。さらに黒海を挟んで北方には現ロシア、トルコの東方はシルクロードを経て、インドや中国に続く。まさに文明の十字路にトルコが立地しているではないか。
 しかし文明の十字路に位置することは、同時に争奪のるつぼでもあった。ヒッタイトに始まり、エーゲ海の都市国家、ペルシャ帝国、ローマの支配、ビザンティン、セルジュクトルコ、オスマントルコと、聞き覚えのある文明、帝国がトルコを争奪しあい、その結果、防衛のための地下住居が発達した。
 それがカッパドキア地方に分布する地下都市群である・・首都アンカラの南東およそ270km・・。その数は20に達し、大きいもので深さ40mにも及んでいる。
 40mといえば12~13階の建物に相当しよう。それが地下深く、しかも数千人が暮らせる規模で構築されているのだから、想像を絶する異文化の衝突があったと思える。

 地下都市の作り方は、まずらせん状のスロープが一定の勾配で地下に向かい掘り進められた。平行して空気穴を兼ねた井戸が地中深く掘られた。
 下げ振りを用いれば垂直に掘ることは容易だろうし、らせんのスロープも円周を一定にし、勾配を決めて掘ればよいので、発想はシンプルである。
 しかし、岩盤を耐力ぎりぎりまで薄く削り落とす技術と、膨大な土砂を削りだした労力には脱帽せざるを得ない。

 幸いなことはカッパドキア地方の地層が掘りやすかったことだが、それでも天井高およそ2mの空洞を、壁厚10~30cm、床厚12~18cmを残して地下数十層分も掘りだしたのだから、惜しみない技と根気が要求されたのではないか(写真)。
 そのうえ、1ケ月ほど隠れ住むことができるよう食料庫が備えられ、教会や仮墓地も設けられているの実際にみると、人間の強靱な意志が伝わってくる。

 その発想は、ヒッタイト人が地下の安定した気候に目につけ、倉庫として掘ったことに端を発しているそうだ。
 その後、ここを支配したキリスト教徒たちがイスラム教徒の襲撃を避けるためさらに深く掘り下げ、地下都市にふさわしく仕上げられた。現在はキリスト教徒は退去し、また岩石の風化も進んでいるため無人である。

 中を歩いているときは洞窟が複雑に組み合わさっているためその全体像をイメージすることはまったくできないし、地上からは地下都市の存在すらうかがえない。
 結局、空間の断片を実感をもとに組み立てないと地下都市の様相が浮かび上がってこない。しかし、数千人がここで数週間も暮らしている姿を想像すると、いかに装備が工夫されようと、壮絶な構造物といわざるを得ない。
 文明の衝突はいつも想像をこえる空間を造りだす、草木の育たない奇岩を背にそう感じた。

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