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2017新春、与野七福神を歩く②、円乗院+大黒天から天祖神社+寿老人を経て御嶽社+弁財天へ

2017年02月13日 | 旅行

2017年新春 与野七福神を歩く ② ホームページはブログ3回分をまとめてある

 11時40分ごろ、バス通りに面した大きな駐車場の奥に堂々たる山門=仁王門多宝塔が見えた(写真)。円乗院である。
 鎌倉幕府の武将で坂東武士の鑑とされた畠山重忠(1164-1205)の創建で、当初は現さいたま市桜区に建てられたが、徳川家康が政権を握って間もない慶長年間に現在地に移された。
 江戸幕府から朱印状を受け、末寺も多かったそうで、由緒ある古刹のようだ。仁王門には、阿吽の仁王像がにらみをきかせていた。仁王門右の多宝塔は高さが30mで見応えがある。
 境内は広いが、本堂は改修中で立ち入り禁止のうえ、理由は分からないが、境内は写真撮影禁止である。
 本堂手前に大黒天を祀った祠があり、同じ形式の七福神の説明板が置かれている。大黒天とは、「インドのヒンズー教のシヴァ神がその起源。名前はマハーカーラといい、マハーは「大」、カラーは「黒」。時間を意味し、インドでは「大いなる死の神」として崇められている。大国主命の「大黒」と大黒が同じ読みの為習合されて今の姿になる。頭巾姿は上を見るな謙虚であれ、足下の米俵から欲をかくな二俵で満足せよと知足の心を表し、小槌は「土」に通じ土から宝を生じるという事で、豊作の神、財福の神とされる」そうだ。

 円乗院の西隣が与野公園で、公園内に天祖神社と御嶽社がある。
 11時50分、天祖神社の赤い鳥居を見つけた。その先に林を背にした吹き放しの社がある。切妻の屋根に板塀のような腰壁を回しただけの簡素な作りで神社らしくない(次頁写真)。
 鳥居がなければ見逃しそうだ。鳥居の手前の由緒板によれば「1314年の融通念仏縁起に当地が登場・・市が開かれ・・鎌倉街道が通り・・神明社が祀られ・・1875年与野町の村社となり天祖神社と改めた・・1877年に天祖神社、御嶽社・大国社の境内が与野公園となった・・近年、寿老人を合祀した・・」そうだ。
 地元の村社の境内を公園にするとは先人はなかなかの知恵者と思う。
 寿老人は七福神のためにあとで合祀されたようだ。
 鳥居の手前の七福神共通の説明板には寿老人とは、「中国の道教が起源神。南極星(中国の伝統で人の寿命を司る星)の化身で長頭で巻き物をつけた杖と団扇を持ち、鹿を連れている南極老人。禄と長寿を授ける神として信仰されている」と紹介されていて、社の手前に新しそうな寿老人の石像が置かれていた。社の祭神・天照大神に参拝し、参道を戻る。

 11時55分、天祖神社の目と鼻の先に御嶽社の石?コンクリート?の鳥居が見える。鳥居をおおうように樹木が茂り、参道が伸びている。
 由緒板によると、「与野は江戸時代から木曽御嶽講が盛ん・・名主の井原平八は熱心な信者・・布教につとめ・・幕府は御嶽講を禁圧・・井原は所払い・・尾張藩の計らいで御嶽講は解禁・・井原が戻り社地を寄進し?、社を建てた・・1877年天祖神社の境内と併せ与野公園・・」と記されている。
 社名は木曽御嶽講を表している。参道の右に古井戸があった・・説明を読んだが忘れた・・。
 参道奥の階段の上が御嶽社で、大山祇命、国常立尊が祀られている。
 参道の左に社務所?があり、七福神共通の説明板と新しそうな弁財天の石像が置かれている。説明板には「一般に弁天様として親しまれ七福神の中で唯一の女神。インドが起源の水を司る女神。滔々と流れる水の流れから、弁舌や音楽の神として崇められ、日本では学問の神、学芸全般の神の他に財宝の神として祀られている。一般に弁天様として親しまれ七福神の中で唯一の女神。インドが起源の水を司る女神。滔々と流れる水の流れから、弁舌や音楽の神として崇められ、日本では学問の神、学芸全般の神の他に財宝の神として祀られている」と記されている。
 社務所?をのぞくと弁財天を描いた図が飾られていた(前頁写真)。顔立ちや着物は日本的だが、目元はインド的かな?、折衷、混交したのであろう。
 御嶽講と弁財天の関係は分からないが、円乗院の前のバス通りまで戻り北に向かう。疲れたがランチには早い。我慢する。続く

コメント
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