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2017.2 片山東熊設計の旧東宮御所はネオ・バロック様式だが使いにくく離宮となる

2017年02月25日 | 旅行

2017.2 コンドルの弟子・片山東熊設計の迎賓館赤坂離宮を見学 ①フルページ、写真はホームページ参照。

 2016年末に迎賓館赤坂離宮の参観を予約をし、2017年2月の予約日に出かけた。
 日本には、赤坂と京都御苑内に迎賓館があるので、迎賓館赤坂離宮、京都迎賓館と呼び分けている。
 迎賓館は、外国の元首またはこれに準する者、または三権の長相当の外国の賓客で、国賓として招請することを閣議決定した場合に宿泊、接遇することができ、首脳外交など実務を目的として訪日する外国の元首や首相などに対しては宿泊を伴わない招宴その他の接遇を行うそうだ。庶民には縁の無い空間である。

 それでも迎賓館赤坂離宮=旧東宮御所は日本の洋風建築指導の第1人者コンドルの弟子の一人である片山東熊の設計で、近代史に登場する貴重な遺構である。
 写真で何度も見たし、正面門扉を通して眺めたこともある。ごく最近、賓客の接遇に支障ない範囲で本館・主庭、および和風別館の参観ができるようになった。
 明治初期の欧化主義を実感するいい機会と思い、年末にインターネットで予約をし、予約当日、時間があれば前庭からじっくり眺めようと思い、少し早めに出かけた。JR中央線四谷駅を降りて迎賓館に向ったら、意外と大勢がぞろぞろ歩いて行く。
 なんと、予約が無くても余裕があれば参観ができるそうだ。そのまま係員の誘導で荷物検査をし、料金1000円を払い、入場した。

 ちょっとおさらい。
 1858年安政5年、日本は列強の要求で不平等条約といわれる通商条約をイギリス、オランダ、フランス、アメリカ、ロシアと結び、箱館=函館・神奈川=横浜・新潟・兵庫=神戸・長崎を開港する。
 1868年明治元年、明治新政府は植民地化されないで生き残る道を模索し、富国強兵・殖産興業を目指した。そのため、明治新政府の強力な指導体制のもとで西欧化が進められる。
 1870年・明治 3年、工部省を設置し外人技師による徒弟的教育を開始、翌1871年明治 4年、工部省内に工学寮を設け「工部ニ奉職スル工業士官」を養成するための本格的な教育を始めた。
 建築分野ではウォートルス(英)、ボアンビル(仏)、カペレッティ(伊)などのお雇い外国人講師に指導を依頼したが、給与は高いが教育の力量を備えておらず、日本を見下した技術教育しかしなかった。
 たとえば、1871年明治4年 工部省工学寮で造家学を指導したのボアンビル(仏)だった・・このころは建築という言葉が無く、造家と呼ばれていた・・。 

 1877年明治10年、イギリス人ジョサイア・コンドル(1852-1920)を招聘する。工部省工学寮造家学科で、コンドル教授による本格的な建築教育(建築様式・構造・製図)が始まる。生徒は4人だった。
 1879年明治12年 辰野金吾・曾弥達蔵・片山東熊・佐立七次郎が第一回卒業生となる。辰野は卒業後、イギリスに留学、帰国後の1884年明治17年、コンドルに代わり工部大学校教授に就任、1886年明治19年、工部大学校は帝国大学工科大学と名を改め、のちに帝国大学東京大学となる。
 曽根、左立は工部省に入り、のちに民間の設計事務所を開設し活躍、片山も工部省に入り、のちに宮内省に移る。迎賓館赤坂離宮は片山の代表作の一つであり、現在は国宝に指定されている。

迎賓館赤坂離宮
 元紀州藩中屋敷跡地に洋風の東宮御所が計画され、片山東熊が設計を担当した。片山は有栖川宮親王のヨーロッパ視察に同行していて、このとき洋風の様式を実地で見ていたから、この知見をもとに東宮御所をネオ・バロック様式でデザインした。着工は1899年、完成は1909年である。
 しかし、ネオ・バロック様式の外観があまりにも華美に過ぎたことや、住居としては使い勝手が良くなかったことから、皇太子嘉仁親王=後の大正天皇は御所を使用することはほとんどなかった。嘉仁親王が天皇に即位した後は離宮となり、その名称も赤坂離宮と改められた(写真、北側正面)。
 1924年(大正13年)、大正天皇の皇子・皇太子裕仁親王=後の昭和天皇と良子女王=後の香淳皇后が成婚し、その後の数年間、赤坂離宮は裕仁親王一家の住居たる東宮御所として使用されたが、裕仁親王が天皇に即位した後は離宮となり、またもほとんど使われなくなった。やはり、使い勝手の悪さと維持費が高すぎたようだ。
 第二次世界大戦後、赤坂離宮の敷地と建物は国に移管され、国立国会図書館(1948–61)や裁判官弾劾裁判所(1948–70)、東京オリンピック組織委員会(1961–65)などに使用された。
 その後、外国の賓客を迎えることが多くなり、それまで迎賓館として使用していた東京都港区芝白金台の旧朝香宮邸=現東京都庭園美術館は手狭で随行員が同宿できなかったため、1967年、赤坂離宮を改修し、外国賓客に対する迎賓施設とすることが決定された。
 本館は村野藤吾、和風別館は谷口吉郎の設計協力により、1974年現在の迎賓館が完成した。2009年に国宝に指定された。2016年から賓客の接遇に支障ない範囲で一般公開が始まった。そしていま、正面門扉あたりから物々過ぎるぐらいの警備員?誘導員?の案内で、一般公開の入場口である西門に着いた。

 本館は中庭が二つある目の字型の平面で、北正面側は東、西ともにL字型に翼楼が突き出ている。西門入口でパンフレットをもらい、荷物検査をし、入場券を購入すると、その先が西側のL字型翼楼の入館口になる。
 館内にもいたるところに係員が立っていて、写真・携帯はしまいなさい・・、傘や突起物、ペットボトルもしまいなさい・・、壁や調度品に触らないで・・、立ち止まらず・・、大きな声で話さない・・などなどの警告を絶え間なく告げている。賓客接遇+国宝だから物々しいのはやむを得ないだろうが、ヨーロッパの似たような施設の見学では写真も撮れたし、雰囲気がもっと大らかだった。
 パンフレットには見学できる部屋の写真と説明が記されているが、平面図は無い。館内にも見取り図が無いのでどこを歩いているか分かりにくい。
 たぶん、西側翼楼の入館口から東に進み、正面玄関ホールで中央階段を見上げ、その先の階段を上って最初に花鳥の間の見学になる。次は2階大ホールの南側を西に進んで彩鸞の間を見学、大ホールの北側を東に進み、羽衣の間を見学して、階段を下り、西側翼楼の入館口から退出して、南の主庭を散策し、見学終了だったと思う。

 延べ床面積は15000㎡だから見学はごく一部に過ぎないが、接遇で使われる主要な部屋を見ることができ、明治末期の洋風建築を実感できた。
 その当時の内外の工芸の粋を集めただけに華麗絢爛の言葉が当てはまり要人の接遇にはかなっていると思うが、住まいとしては部屋が広すぎ、天井が高すぎ、煉瓦石造のため冬は寒々し、夏は蒸し暑そうで、居心地が悪そうである。続く

コメント
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