yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

空間の狭さが生活の貧しさにつながったようだ、富士重工業大宮アパートはおよそ30年で解体された

2017年02月10日 | 旅行

1984 「富士重工業大宮アパート」を見学 設計:生田勉・沖種郎・宮島春樹 1956 見学後に解体 埼玉県旧大宮市 /1984見学、1986.1
  ・・・大宮に移り住んでから少しずつ埼玉を調べるようになった。生田勉・沖種郎氏ら設計の富士重工業大宮アパートが解体されるというので見学させてもらった。そのころはまだパソコンは普及していなかったし、カメラは白黒が主流だったから、手書きのレジメにモノクロの写真と図面コピーを貼った。ワープロで打ち直した見学記を再掲する。

 1956年に竣工した生田勉・沖種郎・宮島春樹設計の富士重工業大宮アパートが解体されるというので見学させていただいた。富士重工業ではスバル自動車を製造していて、関係者以外は立ち入り禁止だが、アパートの一角は取り壊しの準備中だったため見学可となった。当初、A棟・B棟計12戸のテラスハウス形式として建設されたが、既にA棟は解体されて跡形もなく、B棟もすべて空家で取り壊しを待つばかりで、寂しげな光景を見せていた。
 建設から30年での解体である。
 30年は、建築を商品、消費財とする見方からすれば長すぎると判定されるかも知れないが、建築を人を超えた存在であり、先人の思い入れ・生活の様々な仕方や技術を伝え、また文化思想の空間的な一表現形式であると捉えるならば、余りにも短かすぎる。
 生まれた子供が家族の生活の仕方を見聞き、また自らも実体験をくり返して自分なりに空間を評価するまでに成長、次いで生活の変化発展の中で空間に対応した生活の様式を確立、これを自分の子供に伝えて始めて、空間の意味を文化として残す事が可能となる。
 残念ながら、このアパートは文化たりえなかった、といわねばならない。

 中に入る。1階は、間仕切のブロック現し壁、フローリングの床、やや低めの合板の天井と、質素な洋風のつくりの居間と台所の構成で、それほど大きな傷みは見られない。
 たぶん住み手が日曜大工で塗ったペンキ、壁のイタズラ書きもまだ新しく、土足で入るのがためらわれるほど、生活の臭いが生々しく感じられる。

 2階は、6畳2間の構成で、壁はブロックのまま、天井はやや低いがシェル構造の屋根と同じうねりの合板、和風にしてはおもしろいつくりとなっている。
 1階のLiving、2階のSleepingと、空間を明快に分節しているが、これは設計者いわく、西山卯三氏と並ぶ建築計画学の大家、吉武泰水氏の示唆によっているとのことだった。
 今ではごく当り前の建築計画のイロハが、当時ようやく学問的に体系化され、設計に応用され始めたことをうかがわせる。

 1階LDK、2階6畳2間を見学するには、さほど時間は要らない。ひとわたり見終って、どうも落着かないことに気付く。
 どうやら天井の低さと、部屋の隅にいても顔のシワが見えるほどの狭さが原因のようである。1・2階ともわずか28㎡の矩形の広さは目線も声もすぐにぶつかってしまう。
 こうした空間の狭さは、生活の貧しさがそのまま空間の貧しさとなっていた、割長屋、さらに劣悪な棟割長屋の狭さに通じるのではないだろうか。

 近年、1階台所南側に増設された浴室も貧しさの中の50歩100歩でしかなく、かえって動線、日照、通風、外観等々、貧しさを強調してしまったようだ。
 生田氏の同時期の作品「栗の木のある家」で見せた空間の豊かさと比べると、このアパートの随所に見られるデザインの巧みさ、例えばシェル屋根の軽やかなうねり、モデュールできれいに割りこまれた壁面などを見るにつけ、このアパートでは貧しさを克服できなかったことが惜しまれる。
 生田氏は「アパートの経済性を解決するのは、建築家の才能か、資本家か、政治か」のコメントを残している。狭すぎたため誰も住みたがらなくなったそうだから、作り手は何をめざすべきか考えさせられる

・・2017追記・・その後、富士重工業大宮工場は閉鎖され、区画整理ののち、ショッピングモール・区役所+ホール+図書館・マンションなどが建てられ、活気づいている。

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