yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

カタルーニャ語で出版された「冷たい肌」は異邦人として生きなければならない人生をテーマにしている

2017年02月15日 | 斜読

book432 冷たい肌 アルベール・サンチェス・ピニョル 中央公論新社 2005/2017.2  (斜読・海外の作家一覧)
 スペイン文学の本を検索していて、著者がバルセロナ生まれで、この本はカタルーニャ語で出版されたことを知り興味を引いた。
 かつてカステーリャ王はレコンキスタ国土回復で活躍し、カステーリャ女王イサベル1世・アラゴン王フェルナンド2世によりレコンキスタが成し遂げられ、カトリック両王としてスペインが統一されたことからカステーリャ語がスペイン語となった。
 その一方、、カタルーニャやバスクなどでは自立の精神が高く、カタルーニャ語やバスク語が日常的に使われている。著者はあえてカタルーニャ語で出版したのには意図がありそうだ。
 インターネット上には何人かの読後感想が投稿されていて、その予感を確信させてくれた。さっそく、図書館のスペイン文学コーナーで見つけ、読み始めた。
 不思議と、展開が気になり一気に読み通した。しかし、私の期待とはかなりかけ離れていた。どの本を読むかはその人の価値観、好みによろう。私の好みではない。

 舞台も登場人物もスペインとは無関係であるが、著者はカステーリャが主導するスペインに組み込まれたカタルーニャ人の思いを下敷きにこの物語を構想したのかも知れない。
 場所は南極に近いわずか1.5kmほどの孤島である。主人公の「私」はアイルランド生まれの孤児だった青年で、英国からの独立を勝ち取ったものの新体制に絶望する。p38・・人間は目に見えない仕組みの奴隷だと気づき、アイルランドを捨て絶海の孤島での孤独な人生を選んだ。
 島の一方に気象観測所を兼ねた住まい、もう一方に灯台+住まいがある。この孤島で気象観測官と海上信号技官の2人が後任が来るまでの1年間を過ごす。ところが上陸すると気象観測所はもぬけの殻で交代するはずの前任者がいない。
 灯台の固く閉じられた扉を無理矢理開けて入ると気が触れたとしか思えない信号技官カフォーがいたが、何もしゃべらない。不審に思いながらも船長は引きあげ、「私」は気象観測所で荷物の整理を始める。
 やがて暗くなり出したころに異変が起きる。不思議な生命体が現れたのだ。あとで分かってくるが、足がありカモシカのように身軽に走れる身長はいくぶん背の高い蛙のような両生類だった。
 あとでシタウカと名付けられる。巻末で訳者はcitauca→逆順のauatic=海洋生物と謎解きをしている。島に着いた最初の夜にこの得体の知れない怪物シタウカに襲われ、何とか撃退するが、翌晩も現れ、ついに変人のカフォーが住む灯台に逃げ込む決心をする。

 二人は気は合わないが、p177「・・それぞれの個人の性格の善し悪しなんて問題じゃない、皆が一緒になってでき上がった社会の善し悪しが問題なんだ・・それぞれが憎たらしい人物・・二人だけになれば・・できるだけ住みよい場所にするという目標に向かって力を合わせる・・それぞれの性格上の欠点なんかはどうでもいい・・」と考え、「私」はカフォーと暮らすことになる。ここに著者のカタルーニャ人としての思いが隠されている、と思う。
 しばらくは、暗くなると攻めてくるシタウカとの激しい戦いが綴られていく。灯台には主人公を襲ったシタウカの仲間の雌がいた。訳者は巻末で名前のアネリスaneris→逆順にしてsirena人魚と謎解きをする。なんとカフォーはアネリスにしばしば暴力を振るい、手籠めにしていた。
 ついに「私」も欲情に負け、カフォーに隠れてアネリスを抱いてしまう。そんな繰り返しの毎日が続く。p179・・我々は・・一見、会話しているように見えるが、実際にはそれぞれが独白をしているだけ・・死んだような時間が流れていく・・。

 p200・・誰でもものを見ることはできるが、観察する者は少ない、観察して意味を悟ることができる者はさらに少ない・・、「私」は雌のアネリスのこと、シタウカのことを観察し、意味を考え始める。
 そして、シタウカとの和睦の道を探ろうとする。しかし、カフォーはあくまでも戦おうとする。「私」はシタウカの子どもと交流することに成功するが、ついにカフォーは武器を持ってシタウカの集団に飛び込み、命を落としてしまう。

 「私」とアネリスの不思議な暮らしが始まる。島に来てから1年を過ぎたある日、交代要員を乗せた船が来る。ところが「私」は島にとどまってしまう。
 少し戻るがp261・・ここに住んでいる限りはここが我々の祖国なのだ、えり好みができない以上、ここを住める場所にしなければならない・・と記している。帰る場所のない人にとって、ここに暮らすしかない、ということであろう。

 戦禍で国を出た人、イデオロギーの違いで国を追われた人、身の危険から姿を隠さなければならない人・・は、言葉も文化も違う場所を祖国にし異邦人として生きなければならない。著者はそう主張したかったのだろうか。

コメント
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