yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

イスラム教の礼拝を知らせるミナレットが象徴化されイスタンブルのブルー・モスクでは6本立てられた

2017年02月02日 | 旅行

1995 「6本のミナレットをもつモスク」トルコの旅  /2007 (写真はホームページ参照)
 小学校や中学校の社会科を除いては、受験科目でない限り地図を広げて世界に夢をはせることは滅多にないのではないか。そのうえ世界のイメージはその人その人によって偏りがあり、興味のあるところだけを重点に頭の中で世界地図を描いてしまうため現実とはかけ離れた世界をイメージしていることも少なくない。

 イスタンブルは北緯41°ほど、日本では函館に相当する。日本から順に北緯41°度を西に辿ると中国・北京の北をかすり、ゴビを通り、ウルムチの南、タシケントの北を抜け、カスピ海、黒海を横切り、トルコ共和国に至る。しかも地図は高原か山岳を示す茶色が圧倒していて、北緯41°あたりは畑作か遊牧が主であることをうかがわせる。ここをモンゴル族が走り、あるいはシルクロードを大勢が行き来したのであり、地図を広げるだけでずいぶんと想像力が増してくる。

 さてイスタンブルだが、ここはかつてビザンチン帝国の首都コンスタンティノープルとして栄えたところだ。原義はローマ皇帝コンスタンティヌスが建造したポリスの意味である。コンスタンティヌス皇帝こそキリスト教を公認したローマ皇帝に他ならない。当然、コンスタンティノープルには教会堂が次々と建てられた。
 しかし、アラビア半島に生まれたイスラム教が勢力を増して北上してきた。

 地図を見るだけでも、ヨーロッパサイドのキリスト勢力とアジアサイドのイスラム勢力がコンスタンティノープルで激突する様が想像できる。再三、激しい攻防が繰り返され、ついにコンスタンティノープルは陥落してオスマン帝国の首都となった。
 以来、ここはイスタンブルと呼ばれることになった。イスラム勢力からみればコンスタンティノープルはビザンティンに代表されるヨーロッパキリスト勢力の先鋒であり、ここを奪還されれば怒涛の如くキリスト勢力がイスラム圏に流れ込んでくる、そう感じたはずだ。そのためと思うが、イスタンブルのいたるところにビザンチン様式の建物を凌駕するように建ちあがっている荘厳な様式のイスラム寺院を目にすることがでる。
 なかでもブルー・モスクと通称されるスルタン・アフメット・ジャミィ(ジャミィ=モスク)はドーム高さが43mと巨大であり、ミナレットを6本備えて偉容を誇っている(写真)。
 イスラム教では一日に5回の礼拝が生活の基本である。礼拝に先立ちミナレットに登ったモスリム(信徒)がクルアーン(英語ではコーラン)を声高だかに詠いあげる。イスラム教が興ったころはマイクもスピーカーもない時代だから当然ながら肉声であり、そのため声のよく通る人がミナレットに登りクルアーンを詠った。声が遠くまで届くようにミナレットは高く建てられるようになった。しかし、それでも声には限界があるし、イスラム教徒も近くのモスクでの礼拝の方が都合がよく、声が通る範囲ぐらいごとにモスクがおかれ、ミナレットが建つことになった。
 イスタンブルの高台から町を見渡すとあちらこちらにミナレットが見えるし、礼拝の時間になるとあちこちのミナレットからメロディーを奏でるようなクルアーンが聞こえてくる。

 となれば、ミナレットが象徴化されるのは必定、より権威のあるモスクはミナレットを2本にし、次いでイスラムの正統派を主張するモスクが4本のミナレットを立てたらしい。ならばと、聖地メッカでは6本のミナレットが立てられた。
 ところがオスマン帝国の最盛期、ときのアフメット一世が自分の建造するモスクには黄金(アウトン)のミナレットを建てるように命じたところ6(アウト)本と聞き間違えて6本のミナレットが立てられたそうだ。そのため聖地メッカでは急遽ミナレットを7本にしたとか。

 真偽はともかく、世界でただ一つの6本のミナレットをもつモスクが誕生したのである。世界的建築遺産が意外と単純な理由で誕生することもあるようだ。ミナレットはともかく、スルタン・アフメット・ジャミィの壮大な建築は一見に値するすばらしさである。
 中央ドームを支えるように四方にやや高さを低くした半ドームが寄りつき、その半ドームをさらに高さを低くした半ドーム、四半ドームが寄りついている外観も圧倒されるが、青みがかったタイルで仕上げられた内部空間の荘厳さはイスラム教徒でなくてもひれ伏したくなる厳かさが漂っていた。

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