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つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

文明の十字路マラッカには明様式の寺院、ポルトガル様式の教会、オランダ様式の建物が残る

2017年02月18日 | 旅行

1983 マレーシアの古都・マラッカ寸描 /1996 写真はホームページ参照
 エイペック(APECアジア太平洋経済協力)が閉幕した(1996年)。日常の生活では、誰も自分の住んでいる国を中心に世界をとらえがちである。しかも多くの日本人は、日本とアメリカとヨーロッパで世界が成り立っていると錯覚している。
 確かに欧米諸国は現在の世界をリードする要であり、日本はなんとか経済的に欧米と対等の位置を確保することができたのでそう感じるのも仕方ない。それが今回のエイペックで、改めて自分の感じていた世界が如何に変形していたか思い知らされたのではないだろうか。

 エイペック出席の一人、マレーシアのマハティール首相(1996年当時、故人)はかつてルック・イースト、つまり日本に習え、を掲げ国の振興を図ったが、まさしく日本はアジアの東端に他ならない。
 アジアの海上交通からいえば、中心は現在のマレーシア、インドネシアあたりになるのではないか。このあたりの海域は古来より船団が行き交い、文明が交錯してきた。
 マラッカ海峡で知られるマレーシアの古都マラッカmalacca(英)=ムラカMelaka(マレー語)には、インド、イスラム、中国、ポルトガル、オランダなどの様式を色濃く残した建物が残り、海上交通の華やかさを今に伝えている。

 その1が中国様式の寺院である。かつてインドを傘下に収めたイスラムはさらに勢力を拡大し東南アジア一帯をイスラム化した。
 マレーシアでは15世紀初頭にイスラム国家が成立し、以来、マレーシアは今日までイスラム教を国教としている。
 当時、中国は明の時代で、中国近海の海上貿易を一手に握っていた鄭和の仲立ちにより明とマラッカのイスラム君主との通商が開始されることになった。中国では友好の証しとしてしばしば皇帝の側室や娘を友好国に嫁がせる風習がある。かつてモンゴルに嫁いだ王昭君の話は誇張があるとはいえあまりにも有名である。
 マラッカでも、明の皇女ハン・リー・ポーがイスラム君主の元に嫁ぐことになった。侍女500人余を引き連れた花嫁行列は大変盛大だったようで、感激したイスラム君主はわざわざ「中国人の町」を建造したといわれている。マラッカの町を歩いていて通りを曲がった途端、家並みが中国式の連続店舗住宅に変わってびっくりしたことがある。それはただ建物が中国式というだけではなく、住んでいる人の顔つき、話し声やざわめき、におい、衣類や調度品の色合いなど、どれをとっても中国なのである。まさに中国人の町であった。

 極めつきがチェン・フーン・テン寺院(1645年建立)で、鮮やかな朱塗りの門扉、両端を空に向かって伸びあげた屋根、天女や動物を型どった屋根飾り、400年を経た今も中国独自の様式の健在ぶりを示している。強いて言えば、煎餅のような薄い瓦がここは中国にあらずといっているようであった。
 2つ目はポルトガルの教会である。16世紀に入るとイスラムに代わってポルトガルがマラッカを支配した。日本にキリスト教を伝道した聖フランシスコ・ザビエルも長くマラッカに滞在し布教につとめた。
 ザビエルが滞在した聖ポール教会はすでに無く、史跡公園になっている。その後、ザビエルの功績をたたえようと、聖フランシス・ザビエル教会が建立された(写真・1849年建設)。尖塔アーチ状の正面入口や両脇に建つ双塔、ステンドグラスがはめこまれた丸窓がゴシック様式をいまにとどめている。

 その3はキリスト教会(写真・1753年建設)やスタダイス(市庁舎、現マラッカ博物館)などのオランダ建築である。いずれもサーモンピンク色のレンガ造で、明るい陽光にますます朱色の鮮やかさを増していて強烈な存在感を見せていた。
 これらの建物群は18世紀初頭にポルトガルに代わってマラッカを統治したオランダによるもので、レンガは東インド会社を拠点とする商船によって運びこまれたそうだ。ロータリーを囲むように配置された空間構成もオランダ仕込みの都市計画であり、放射状道路も周辺の町並みにすっかりとけ込んでいる。

 文明の十字路マラッカ、そこに住む彼らこそ世界の文明を等距離にみることができる、そう思うのだが。

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