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2017新春、与野七福神を歩く① 鈴谷大堂+毘沙門天から円福寺+布袋尊へ

2017年02月12日 | 旅行

2017年新春 与野七福神を歩く ① ホームページはブログ3回分をまとめてある。
 最近は七福神巡りが人気なようで、報道でもよく取り上げられている。さいたま市にも与野七福神巡りがある。
 新春3日、与野七福神では仮装行列が練り歩いたそうだ。8日・日曜、天気よし、風も穏やかなので、与野七福神巡りに出かけた。

 インターネットで検索し、おおよその場所を記した七福神巡りの図を見つけた。JR大宮駅で埼京線に乗り換え、与野本町駅で降りて、鈴谷大堂→円福寺→円乗院→天祖神社→御嶽社→一山神社→上町氷川神社を巡り、さいたま新都心まで歩いてランチをとって帰ることにした。
 10時50分、与野本町駅で降りる。駅前の通りは区画整理?のためか、広々としている。七福神の幟が通りに立っていた。駅周辺図で七福神の位置を確かめるが、与野本町あたりは初めてなので確信がもてない。七福神の幟を頼りに歩き始める
 ほぼ11時、鈴谷大堂に着く。階段上がると正面に阿弥陀堂が見えた(写真)。
 右手に六地蔵が並んでいる。六地蔵は1667年の造立というから350年も前、江戸時代初期、歴史を感じさせる。鈴谷大堂もそのころの建立であろうか。ただし、本堂=阿弥陀堂は新しく、こぢんまりとしている。
 格子戸からのぞくと中央に金箔の阿弥陀如来座像が祀られていた。見渡すと右端に白木の小さな毘沙門天立像が安置されていた。堂の手前右の説明板によれば、「毘沙門天とは、他聞(一切を漏らさず聞く事が出来る大知者)といわれるインドの神、仏教では持国天、増長天、広目天と並ぶ四天王の一人で、北方を守り財産、富貴を司り、仏教を守護する神。91の武勇の神を従えていると言われる。戦勝の神であるところから上杉謙信が崇拝し旗印に用いたといわれている」とされている。
 与野の鈴谷大堂と越後の上杉謙信とは無関係であろうが、話の種ということか、確かに上杉謙信の旗印は毘の文字が図案化されていた。説明板の下には与野七福神マップが描かれていたが、説明板を持ち歩くわけにいかない。次の円福寺の見当をつける

  11時20分、円福寺の堂々たる山門を見上げる。山門の右に鈴谷大堂と同じ形式の説明板が立っていて、その前に真新しい布袋尊の石像が安置されている。
 説明によると、「布袋尊とは、七福神の中では唯一実在の人物。中国唐代末期に活躍した禅僧。本名契比(かいし)。太鼓腹を露出し、常に布の袋を背負い闊歩していた事より布袋和尚と呼ばれ親しまれた。その生き様は、見識ぶらず、威張らず、何事にも拘わらない心、度量大きく、人に接する人徳から、福運大量のご利益があるといわれている」、と書かれている。確かに、石像はお腹を丸く突き出し、にこやかな顔をしている。

 山門を入る。境内には石造、石塔が所狭しと並ぶ。石像は目鼻立ちがはっきりしているし、石の色もすがすがしいから新しいようだ。
 正面の本堂は裳階屋根に唐破風の小屋根をつけた本格的の造営だが、さほど古くはなさそうである(写真)。
 しかし、インターネット上には1521年に没した円海の創建とあるから、室町末期か戦国時代の創建、江戸幕府から朱印状を受けたそうで、由緒がある。江戸中期の木造阿弥陀如来像、毘沙門天、不動明王が安置されているそうで、格子からのぞき、参拝する。境内にはほかに釈迦堂や鐘楼が建てられている。
 釈迦堂にも参拝する。しかし、布袋尊が見当たらない。山門前の布袋尊が御利益があるのだろうか。

 説明板の下の七福神マップを眺め、円乗院を目指す。続く

コメント
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