yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

迎賓館赤坂離宮はフランスのネオバロック・ルネサンス・古典・アンピールの様式+鎧兜・武者

2017年02月26日 | 旅行

2017.2 コンドルの弟子・片山東熊設計の迎賓館赤坂離宮を見学 ② 2017.2 フルページ、写真はホームページ参照。

花鳥の間
 およそ330㎡の長方形の広間で、公式晩餐会や首脳会議に利用される。16世紀後半、フランス・アンリー2世時代のルネサンス様式が基調だが、壁は茶褐色の木曽産シオジ材を張ってあり、重厚な感じである。
 壁の中段に、花鳥を題材にした渡辺省亭の下絵を濤川惣助が七宝焼きした楕円形の七宝花鳥図三十額が飾られている。細かな線と鮮やか色合いのいきいきした花や鳥を間近に見ることができる。
 天井は格子で36に区分され、フランス人画家による花卉鳥獣画などが描かれている。
 欄間には花鳥をデザインしたゴブラン織りが張られているが、七宝や天井画に比べやや暗い印象だった。部屋全体の装飾が花鳥であることから、花鳥の間と名付けられた。
朝日の間
 花鳥の間を出た先が広々とした2階大ホールで、東側に朝日の間があるが、修復工事のため見学不可となっていた。
 パンフレットによれば、天井に長径8.26m, 短径5.15mの大きな楕円形の「朝日を背にして女神が香車(チャリオット)を走らせている姿」の絵が描かれているそうだ。18世紀のフランス古典様式でデザインされていて、国・公賓用のサロン、表敬訪問や首脳会談などに使われるらしい。写真で見ると、明るくきらびやかである。周囲の円柱はノルウェー産だそうだ。
中央階段・2階大ホール
 2階大ホールの東側・朝日の間の扉の左右に小磯良平による大きな油絵が飾ってある。向かって左が「絵画」、右が「音楽」である。写実的な絵で、絵画、音楽の主題が理解できる。
 ホールの中央に見学者は立ち入り禁止の階段があり、のぞくと華やかな感じのデザインが見える。賓客、要人は正面玄関から入り、中央階段から大ホールに上がってくることになる。
 階段の周りには、イタリア産大理石を使ったコリント式の円柱が並んでいて、華やかさを演出している。
彩鸞の間
 大ホールを西に進むと彩鸞の間がある。部屋の両端にねずみ色の大理石で作られた暖炉とその上に半円アーチ型の大鏡があり、暖炉の両脇と大鏡の上にらんと呼ばれる架空の鳥をデザインした金色の浮き彫りが飾られていて、部屋名になったそうだ。
 室内は、19世紀中ごろ、ナポレオン1世時期のフランスではやった室内装飾であるアンピール様式を基調にしていて、壁、天井は白の石膏に金箔が浮き彫りされている。
 金箔の浮き彫りのなかには鎧や兜もあり、和洋折衷が工夫されている。この部屋は表敬訪問の賓客の控え室、晩餐会の招待客を謁見する間、条約・協定の調印式や国・公賓とのインタビュー等に使用されているそうで、日本の伝統的な武具である鎧、兜を話題に話がはずんだかも知れない。
 壁には10枚の鏡がはめ込まれていて、広々とした華やかな雰囲気になっている。
羽衣の間
 大ホールの南側を東に戻ると、羽衣の間がある。天井一面に謡曲の羽衣をテーマにした絵が描かれている。
 広さは330㎡で花鳥の間と同じ広さだが、18世紀、フランスの古典様式を基調に、壁は白石膏+金箔浮き彫りで、窓も大きく、花鳥の間の重厚さに対し、明るく華やかである。
 金箔浮き彫りは楽器や楽譜がデザインされている。中2階にオーケストラボックスがあり、舞踏会場としても使われたことをうかがわせる。
 また、雨天の際の歓迎行事、レセプション会場、会議、晩餐会の招待客に食前酒や食後酒を用意し歓談する間としても使われたそうだ。
 一般公開はここまで、非公開の部屋が並ぶ長い廊下を通り、西側翼楼の入館口から外に出て、南側の主庭に向かう。
主庭
 全面砂利敷きの主庭の中央に噴水池がある(写真)。説明は無いが噴水には、羽を広げた珍獣やのけぞったいるか?のブロンズが飾られている。
 主庭に面した本館中央部は南に大きく張り出してコリント式オーダーの円柱にし、両端とあいだの開廊はイオニア式のオーダーを乗せた円柱を並べ、中心性を強めている。開廊は南の日だまりと主庭の眺めを楽しむための工夫であろう。噴水池の先は崖で、開廊からの見晴らしは良さそうだ。
 噴水池を一回りし、西側翼楼に戻り、正面側前庭に出る。南側外観の開放的なデザインに比べ、荘重なデザインである。
 中央車寄せのせり出しの屋根部分には鎧・兜をまとった武者姿のブロンズが飾られている。重厚さを狙いながらも、武者を飾るユーモアを感じた。片山東熊は幕末、山口藩の奇兵隊に属していたから、ネオ・バロック様式+武者姿を発想したのかも知れない。
 石畳の前庭から、緑庭に建つ旧衛士詰所前を通り、正面門扉から外へ出る。右手・東側に折れ、外堀通りを下ると、切妻瓦葺きの門がある。紀州藩中屋敷の名残だろうか。説明は無い。
 外堀通りを横断した先が国史跡「喰違見附」である。外堀の向かって左の土塁を右の土塁まで食い違うように伸ばし、江戸城に向かう紀尾井坂の通りをクランク状にして敵の侵入を防ぐ構造であり、当時の原形をとどめている。
 紀尾井坂の向かって右が井伊家=現在のホテルニューオータニ、左手が尾張家、井伊家の先が紀伊家の屋敷が並んでいたため、紀尾井坂と呼ばれ、現在の紀尾井町となった。
 坂の手前の細道を入るとホテルニューオオタニの庭園になり、彦根藩井伊家の中屋敷跡の説明板が立っている。ホテルニューオオタニの広々とした庭園を一回りしながら、江戸期の大名の豪勢さに圧倒される。
 今も昔も庶民の暮らしは細々だが、自由を楽しむことができる。ガーデンタワーの40階のベッラ・ヴィスタで遠望を眺めながらランチをとった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする